3 傷痕
頑なともとれる少女の態度に戸惑うのはシュタインマイヤーだが、その実、さらに困惑しているのはマリー・ロセター自身だった。
物心つく前から見てきた夢の内容のおかげで、目の前に立つ制服のいかつい男に対して頑なな態度をとるということがどういった事態を招くことになるのかわかっていたからだ。あまり心楽しい事態は想像できなくて、マリーはベッドの中で体の痛みをこらえながら寝返りをうった。
――大丈夫だろうか?
そもそも、「シェレンベルク」に来いとシュタインマイヤーに言ったものの、本当にシェレンベルクが来るとは思えない。
「シェレンベルク」はどこからどう見てもそれなりの地位にありそうな男だった。そういった相手に迂闊な態度をとることはあまり得策とは言えないだろう。マリー・ロセターは自分が特別に聡明なわけではないと言うことを自覚しているが、その程度の想像力は持っていた。
「シェレンベルクは来るかしら……?」
独房のような「病室」で、マリーはひとりつぶやいて目を閉じる。
「どう思う? ”ライニ”」
彼は自分であり、自分は彼だった。
境界の曖昧な存在には、ひとつの魂にふたつの精神が息づいている。問いかけても答えなどあるわけがない。そんなことは生まれた時から、自分の中に息づいている「自分とは別の存在」と共存していたマリーは当たり前のように知っていた。
階段を落ちてから、「見知らぬ場所」にたどり着いて以来、自分と「彼」の境界はさらに曖昧なものになりつつあった。
あるべきものを、あるべき場所へと存在を置き換えていく。
それは誰も信じたりはしない現実で。「彼」と「マリー・ロセター」しか知りはしない。
その存在は……――。
まるでそう。
とうとうと歌い上げるような声が響いた。
「わたしでもなく、おまえでもない。新たなる精神が生まれるのだ」
マリーにしか聞こえていないその声に、少女は唇だけを動かして呟いた。
彼の言葉を復唱する。
「……新たなる精神」
ひとつの魂に「彼」でもなく「マリー」でもない「三つ目」の精神が生まれるのだ、と彼は言う。
自分という存在が、別の存在へと書き換えられていくような感覚は、本来恐ろしいものであるはずなのに、今のマリーにはそれすらも心地よかった。
まるで本来の自分へと返っていくように感じられて。
もしも理解されることもなく殺さるのであればそれでもいいと思えるほど。
だから、そうなったときはその現実も受け入れよう……。
マリーはそう思った。
「肉体とは所詮、精神と魂を宿す器に過ぎない」
その声は男性にしてはどこか甲高くて、けれどもマリーには不愉快に感じる声色ではなく心地よい。
目を閉じた彼女はそうして眠りの底へと再び引きずり込まれていった。
マリー・ロセターと名乗る少女がシェレンベルクらの前に現れてから約二日が経過した。
本来であれば腹部と胸部に重傷を負っている少女などさっさと放り出してしまって死刑にでもするべきだ。しかし、そうしてはいけないようななにかをヴァルター・シェレンベルクは感じていた。
一言で言うならば「勘」でしかない。
しかしそこにある違和感はなんだろう。
「……参ったな」
ラルス・シュタインマイヤーの報告によれば、マリー・ロセターはシェレンベルクに対して自分の所へ来いと言ったらしいが、のこのこ顔を出して良いものだろうか。
もちろん出向いたところで命の危険性はないのだが、見くびられるような事態に発展するのは問題がある。
彼女が言うラインハルト・ハイドリヒの遺体の在処。
それはいったいどこだろう。
少女ほどの小柄な体格の持ち主が長身のハイドリヒの遺体をひとりで持ち出すことは不可能に近い。もしも彼女がラインハルト・ハイドリヒの遺体を持ち出したのであれば誰かしらの協力者が存在していると言うことになるのだが、その気配が感じられない。
遺体の管理には”細心の注意”を払っていたはずだ。
それらの親衛隊の監視の目をくぐり抜けてハイドリヒの遺体を持ち出した。
そんなことが果たして可能なのか?
やれやれと大きな溜め息をついたシェレンベルクは立ち上がると制帽を長い指で取った。
情報将校のひとりとして彼は大きな秘密を抱え込んでいる。
「彼女は今のところ病室から連れだすことは不可能だそうです」
そう告げたシェレンベルクに、親衛隊全国指導者は無言のままで視線を彷徨わせた。
シェレンベルクの提出した中間報告のためのファイルを指先でめくるハインリヒ・ヒムラーはわずかに目を細めてややしてから口を開く。
「国内、国外にも情報なし、か」
「えぇ、今のところまったく」
「なるほど」
普通に考えればあの年齢の少女がひとりでイギリスから渡ってくることなど不可能だ。彼女が本当にイギリス――ロンドンの出身であるならば、どうやってベルリンまで来たのだろう。
まったくもって不可解だ。
「それで、シェレンベルク中佐。君の結論は?」
問いかけたヒムラーにシェレンベルクが視線だけをやった。
「現状の結論ですが、正直、まだわかりかねます。ですが事を急いて対象に死の罰則を与えることは真実へたどり着くことはできないかと思われます」
はっきりとした彼の言葉に、ヒムラーは考え込む表情のままで頷いた。
「それでは、長官。小官はもう一度、件の少女に会ってきます」
「任せよう」
「失礼いたします」
そう言って踵を返したシェレンベルクにハインリヒ・ヒムラーは言葉を投げかけた。
「シェレンベルク中佐」
若い親衛隊中佐の足が止まった。
「まだ外国の秘密工作員であるという可能性も捨てきれない。充分発言に注意しろ」
「承知しました、親衛隊長官閣下」
シェレンベルクはヒムラーにそう答えるが、実のところ彼の言葉は建前でしかない。
少なくとも、ヒムラーなどよりもはるかに現場で働いてきた数の多いきたシェレンベルクだ。高みから見下ろすようにふんぞり返っている上官たちなどよりもずっと頭の回転が速いと言う自覚はあった。
自分の発言にも、そして相手の発言に。シェレンベルクは細心の注意を払っている。そうでなければ諜報部の局長などやっていられれないし、なによりも、生前の”あの”ラインハルト・ハイドリヒの片腕として認識されるはずがない。
ヒムラーのもとを訪れた後、その足でベルリン郊外にあるマリー・ロセターの収容されている病院を訪れたシェレンベルクは、いつもながら清潔な印象の強いそこに感心したように息をつく。
「どうも、中佐殿」
声が聞こえてシェレンベルクが首を向けると、そこには壮年の医師がいた。
「これはクリューガー先生」
レオデガー・クリューガー。
マリー・ロセターの担当医で、専門は循環器外科だ。
「例の娘は随分回復が早いそうですが、どんな様子ですか?」
やんわりと相手の立場をたてるヴァルター・シェレンベルクに、彼よりもずっと年上の外科医は白衣のポケットに両手を突っ込んだままでかすかに笑った。
首にかけた聴診器が揺れる。
「元気ですよ。あの調子なら一週間もすれば傷はふさがるでしょうな」
とんでもないことをクリューガーはさらりと告げた。
「まるで手品かなにかでも見ているような気分になりますよ。ところで、シェレンベルク中佐、先日、わけあってプラハのブロフカ市立病院のハイドリヒ大将閣下の治療記録を取り寄せたのですがね。興味深い事実がありました」
お聞きになりますか?
そう続けたクリューガーに、シェレンベルクは感情の動きの見られない視線をついと辺りへ流すと頷いた。
「興味深い事実?」
「えぇ、親衛隊情報部に属する、中佐殿でしたら興味のある話しでしょうな」
目の前にいるのが、情報将校であることなど気にもかけずに、レオデガー・クリューガーはそう続けた。
「……――」
周囲に行き交うのは看護婦や患者たちだ。
しかしそんな彼らに頓着することもないクリューガーについてシェレンベルクは歩く。彼に対して肝の据わった男だという印象を青年は抱いた。
人の気配のない中庭のベンチへとついてから、クリューガーはそこへ座るとポケットからからからに渇いたパンを取り出した。
指先でちぎって目の前のハトに餌をやりながら口を開く。
「中佐殿は情報部の方ですから、ほかに聞かれるのはあまり好ましく思われないでしょうからな。それに、どうにもおかしな事ですから」
そう前置きして、ちぎったパンの欠片を自分の口に放り込んでから、シェレンベルクの瞳を見据えた。
「ひとつお聞きしますが、先生は我々が怖くないのですか?」
「別にわたしは国家反逆を企てるつもりはありませんからな、無実の人間が警察を恐れる必要性などないでしょう。それだけのことです。それにわたしは医師として、医師の本分をまっとうするだけです」
そう言った彼はそうして考え込むように目の前でパンくずに群がるハトを見つめる。
「わたしは親衛隊大将閣下の診療記録に目を通したと申し上げましたが、中佐はフロイラインの傷が大将閣下と同じ場所にあるのはお気づきですね?」
――そう、そこだ。
「ああ」
頷いたシェレンベルクに、クリューガーが言葉を続ける。
「彼女の傷ですがね、大将閣下の傷と完全に一致しています。縫合の痕まで同じであるなど通常はあり得ないことです」
もちろん、体の大きさが違うのだが。
場所が全く同じなのだ。
「そしてもうひとつ。プラハのブロフカ市立病院でハイドリヒ大将閣下の手術を行った際、院内に戒厳令が敷かれ、さらにほかの患者は全て追い出されております。つまり、このとき院内の患者は大将閣下しかいなかったということになり、もうひとり同じ傷跡を持っている者がいるわけがないということです」
「……なんだそれは」
筋が通っていない。
「こんな状況はありえません」
ふたりの人間の体に「同じ傷」があるなど、あり得て良いわけがない。
「医師のわたしがこんなことを言うのもなんですが、まるで体が入れ替わったとしか思えないのです」
真面目な眼差しでクリューガーはそう言った。
「入れ替わり」などあるわけがない。
「そうか……」
医師の報告を聞いてから、シェレンベルクは顎に手をあてた。
「我々は、医療関係者としての協力を惜しみませんが、患者である以上はその旨をお忘れなきよう」
そうしてレオデガー・クリューガーと別れたシェレンベルクは、マリー・ロセターの病室へとまっすぐ足を運んだ。
軽くノックをして扉を開くと、はたしてそこには眠る少女がいた。
白い腕に刺された点滴の針に緊張しているのだろうか体をまっすぐに伸ばして眠っている。
枕に散った金色の髪に、シェレンベルクは声をかけることもせずにベッドサイドの椅子へ静かに腰を下ろす。
こうしてみると、ただの少女にしか見えない。
本来、ドイツ国民の少女であれば、少女版ヒトラーユーゲントである「ドイツ少女団」に入っているはずだ。
ヴァルター・シェレンベルクは表向きはあくまでも冷徹な情報部の将校だが、私生活まで冷徹なわけではない。もちろん任務とあれば感情などかなぐり捨てられる自信はある。
「君は、何者なんだ」
ラインハルト・ハイドリヒの葬儀の際、棺の中にいた少女。
その傷は、ハイドリヒと同じ場所にあるのだということ。
「シェレンベルク」
ふと、眠っていたと思われた少女が口を開いた。
起きていた気配は感じられなかったというのに。
「……わたし、あなたのことを夢の中で知っていたの。そう言っても、あなたは信じないでしょうけど」
ぽつりとつぶやいて、マリーは目を開く。
天井を見上げる青い瞳は彼を見ない。
「わたしのなかにいる男の人はすごく冷たい人で、何人も人を殺してるの。わたしじゃないのに、たまにわたしはわたしとその人との境界がわからなくなるの。夢の中で見た自分と、鏡の中の自分が別人でわけがわからなくなって。それで、少し大きくなってからある写真を見て、わたしの中にいる冷たい男の人がラインハルト・ハイドリヒって人だって知ったのよ」
わたしはね、シェレンベルク。
「わたしはね、ハイドリヒの魂のかけらとして生まれたの。誰が説明してくれたわけじゃないけど”きっとそう”。そして、”暗殺された”ライニのやり残したことをやり遂げるために、ライニに喚ばれたのよ」
同じ魂を持つ者として。
「信じてなんて言わないわ」
信じてもらえるわけがない。
「わたしの両親は典型的なイギリス人だったから、わたしがラインハルト・ハイドリヒの魂のかけらだなんて、そんなことを言ったら怒り出すのはわかってたから、この秘密は誰にも言った事なんてなかった。でも、あなたになら言える……。あなたはわたしの味方だから」
そこまで言って、マリーは肘をついて上半身を起こすとシェレンベルクをまっすぐにじっと見つめた。
「信じてなんて言わない。でも、わたしはこの国のために還ってきたの」
意味不明な言葉を口にした彼女に、シェレンベルクはただ絶句するしかなくぽかんと口を開いたきりだった。
彼女自身が言うように、そんな非科学的な事を信じられるわけがない。
「先生が病室を出ちゃいけないって言うから、わたしはまだあなたたちに証明する事なんてできない。どうせなにを言っても、連合国の秘密工作員だって思われるでしょうから」
ところどころ、彼女の言葉使いは違和感を感じさせた。
その違和感の正体がわからなくて、青年はただかすかに不審の光を瞳にちらつかせるだけだった。