9 雷鳴
ナチス親衛隊において至極珍しい親衛隊上級大将及び武装親衛隊上級大将閣下は「あれはなんだったんだ?」と首を傾げた。
横を向いて部下と話しをしていたヨーゼフ・ディートリッヒは、パタパタとサンダルで走る軽快な、けれどもとてつもなく場違いな足音を聞いた。歩幅の狭いその足音に、青年の声が重なった。
「少佐殿! ですから走るのは……!」
そうして廊下の角を曲がった瞬間、自分の胸に思いっきり突っ込んだ華奢な体を咄嗟に受け止めたヨーゼフ・ディートリッヒ――ゼップ親父と呼ばれるその男は、驚きの余り固まった。
紺色のパイピングを施されたマリンハットが落ちて、半袖の白を基調にしたセーラーカラーのワンピースを身につけた少女のほうも、やはり驚いた様子で彼を見上げる。
「……少佐殿!」
追いかけてきた親衛隊少尉が、ディートリッヒを見て固まった。
「ハ、ハイル・ヒトラー!」
一瞬遅れてから敬礼をした青年は、しどろもどろと言い訳をするようにディートリッヒを見つめているがうまい言葉が見あたらないらしい。
「これは、ディートリッヒ上級大将閣下」
落ち着いた声が響いて、そこでようやく短身のその男は少女を支えていた腕を離す。
国家保安本部に属することを示すSD章を身につけたヴェルナー・ベスト親衛隊中将と、もうひとりはウィーンに勤務するオーストリアの親衛隊及び警察高級指導者のエルンスト・カルテンブルンナー親衛隊中将が立っている。
ハイル・ヒトラーと型どおりの敬礼をして、少しだけ困惑したようにベストが苦笑いを浮かべた。
ゼップ親父と部下の将兵たちから絶大な人気を誇る彼を、実のところベストは余り評価はしていない。もっとも、それでも人気があるのは確かでそれは疑いようのない事実だった。
「……ベスト中将と、カルテンブルンナー中将が揃って親衛隊作戦本部に何の用だね?」
「ディートリッヒ上級大将閣下こそ、てっきりフランスの方にいらっしゃるものと思っておりましたが……」
将兵に絶大な人気を誇りながら、この粗野な上級大将は自分よりも遙かに背の高いカルテンブルンナーをすでに見上げる様子もなく、目の前に立っている少女をじろじろと遠慮なく見つめている。
大概彼女に初めて会う高官は同じような反応をするので、マリーの首席補佐官を務めるヴェルナー・ベストもそろそろ慣れた。
「わたしは師団の中間報告に来ただけだが、貴官らはどうしたのだね?」
現在、ヨーゼフ・ディートリッヒの率いる武装親衛隊の精鋭中の精鋭部隊である、武装親衛隊第一装甲師団LSSAHは東部戦線の激戦区から外されており、フランスのノルマンディーで装甲擲弾兵師団としての再編成と訓練に追われているはずだった。
その指揮官がベルリンにいる、というのも意外と言える。
ちなみにディートリッヒには、時に感情的になる悪い癖があり、そのためにこの四月に六人の部下を殺された事に対する報復として、四千人ものソ連赤軍の捕虜を虐殺する決定を下した。
そうした意味で、ディートリッヒは将兵たちからは人気があるのかもしれないが名将とはとても言い難い。
「いえ、本官共は武装親衛隊司令部幕僚長に面会に参った次第です」
「なるほど……、それでこのお嬢ちゃんは?」
まさか貴官らどちらかの娘というわけでもあるまい。
そう言ったマリーは、素知らぬ顔で床に転がっているマリンハットを拾ってカルテンブルンナーの横に立つとその制服を掴むように軽くつかまった。
「彼女は先日、総統官邸の敵性分子の一斉摘発の決定を下した国家保安本部国外諜報局特別保安諜報部長のマリア・ハイドリヒ親衛隊少佐です」
「ほぅ、君が」
自分の顎を撫でながら少女を見つめるディートリッヒは「ふむ」と独り言のように呟いてから、唐突に片腕を伸ばした。
分厚い手のひらでマリーの絹糸のような金髪を乱暴にかき回したヨーゼフ・ディートリッヒは機嫌が良さそうだ。この無学な男が何を考えているのか、ベストとカルテンブルンナーには今ひとつ理解できない。
「そうかそうか、君が総統閣下を危険から救ってくれたのか。これからも存分にその力を我らがドイツのためにふるってほしい」
金色の髪をぐしゃぐしゃにかき回されてマリーは、一瞬だけニワトリが絞め殺されるような悲鳴を上げて隣に立っているカルテンブルンナーにしがみついた。
「……閣下」
見ているだけで華奢なマリーがディートリッヒの腕力で床に押しつけられそうな勢いだ。思わず諫めるようなカルテンブルンナーの声が上がってもやむを得なかっただろう。
そもそも、この脳味噌が筋肉でできているような粗暴な男は「マリー」が親衛隊将校であるという異常な事態をわかっているのだろうか? それともわかっていて、そんなことは彼にとってどうでもいいのか。
ディートリッヒの行動は不可解に思えることが多い。
人柄は文句ないのだ……。
義理人情に厚く、面倒見も良い。そんな彼だからこそ部下たちから慕われる。
「噂程度には師団司令部にまで届いていたからな、どんな奴かと思ったらこんなにかわいい女の子だったとは」
わかっていたらしい。
ベストはディートリッヒの様子にひとつ溜め息を漏らしてから、手慰みのように制帽を軽く直した。
「そういえば、これも噂だが、ヒムラー長官が貴官を次の国家保安本部の指揮官として検討しているらしいとも聞いたが本当かね? もっとも、国家保安本部に着任したら貴官の好きな酒も煙草も控えねばならんとは思うが」
「今でも充分控えておりますよ」
ディートリッヒに告げられて、カルテンブルンナーは苦笑する。
「しかしわたしが国家保安本部の長官ですか?」
初耳です。
そう続けたカルテンブルンナーに、ヨーゼフ・ディートリッヒは「ほぅ」と言いながら首を傾げた。
「ではまだ噂程度、とやらか」
そこまでディートリッヒが言うと、横にいた彼の副官が時計を見ながら踵を打ち鳴らす。
「閣下、そろそろお時間が」
「あぁ、そうだな。なにぶんユットナーがうるさいからな、話の途中だがこれで失礼させていただこう」
そう告げて、ディートリッヒは再びマリーの頭を思い切りかき回してから立ち去っていった。
なんというのか、ディートリッヒがマリーを相手にしているところは、飼い主が子猫を猫かわいがりしているような印象すら受ける。彼の率いるLSSAHの兵士たちとは異なり、マリーは成長不良と言っても良いくらい小柄で華奢なのだから、あまり力一杯かわいがらないでほしいものだと、ベストとカルテンブルンナーは言葉には出さずに顔を見合わせる。
一番どっと疲れを感じたのはマリーの護衛官を務めるアルフレート・ナウヨックスだが、当のマリーのほうはヨーゼフ・ディートリッヒにかき回された髪を直そうとして、窓ガラスを見つめているといった具合だ。
ハンス・ユットナーと話しをしていたときもそうだが、ヨーゼフ・ディートリッヒと話していても顔色一つ変えないところは、なんと剛胆なことだろう。
「はーっ」と大きな溜め息をついたナウヨックスはかつての自分の上官が歩き去った廊下を振り返ってから、その次にマリーの背中を見つめる。
転んで頭を打ったり、骨折でも――もちろんそんなに簡単に骨折するわけではないが――しなかった分ましだが、よりにもよって彼女を受け止めたのがゼップ親父だったことに驚いた。
「そういえばナウヨックスはLSSAHだったな」
ベストの言葉に、ナウヨックスは踵を合わせて姿勢を正す。
「そうであります、親衛隊中将閣下!」
「……悪い男ではないんだがな」
ぼそりと呟いたベストの言葉は聞こえるか聞こえないかと言った具合で、空間の中で掠れて消える。
ヨーゼフ・ディートリッヒは見ての通りの気性から、かつての国家保安本部長官であるラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将を嫌っていた。謀略を練り、画策を張り巡らせるハイドリヒとは根本的にソリが合わないのだ。
ラインハルト・ハイドリヒは、自分の望む結果を導き出すためならば、どんな汚い手段でも使う男だった。そんな男のことを好ましいと思える人間がいるわけがない。
次に寝首をかかれるのは自分だ。
そんな危機感を、ハイドリヒは多くの人間たちに抱かせ続けた。
「まぁ、確かに。”あの”ハイドリヒよりはな」
自分の顎を撫でながら呟いたカルテンブルンナーを、マリーがガラス越しにちらりと見上げたのを彼らは知らない。
「髪は帰ってから国家保安本部で直せばいい」
さらりとした手触りの髪を手櫛で梳いてやったベストはそうして、歩きだすとマリーも「はい」と返事をしてから後を追いかける。
自分よりも年上の男たちに連れられた少女は武装親衛隊司令部を後にした。
そんな事情もあって、彼らと別れたディートリッヒは「はて」と首を傾げたのだ。
国家保安本部に新設された部署が諜報部であると言うことは聞いていた。しかし、ただでさえドイツ国内には諜報機関が乱立している状況なのだ。
ディートリッヒが聞いた風の噂では、どうやら純粋な諜報機関と言うよりもフリーに動くことができる親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーの私設警察部隊というほうが正しいのだということだった。
構成員はかつての国家保安本部に所属したSDたちで、その中のひとりが確かディートリッヒが指揮を執るLSSAHの兵士だったはずだ。いちいち顔など覚えていないが、ポーランド戦を開戦するための口実として捏造されたヒムラー作戦のひとつを任された腕利きの秘密工作員だ。
そんな腕利きの秘密工作員を東部戦線に「左遷」したのは、紛れもない。ヨーゼフ・ディートリッヒが蛇蝎の如く嫌っていたラインハルト・ハイドリヒだ。
ハイドリヒが嫌いな余りいきさつをすっかり把握しており、それがまたディートリッヒの機嫌を悪化させる。
おかげで、ベーメン・メーレン保護領でラインハルト・ハイドリヒがチェコスロバキア亡命政府の手で暗殺されたと知ったときは、正直言って胸のすく思いだった。
――やれやれ、あの雌豚もついにくたばったか。
ぽろりと口をついてでたディートリッヒの言葉は彼の本音だ。
同じ親衛隊員であるとはいえ、ハイドリヒのやることなすことが気に障る。彼が非常に頭の回転が速く優秀な官僚であることも知っていたが、つくづくやることが汚すぎるのだ。
ラインハルト・ハイドリヒのことを思い出してしまって、不機嫌に陥ったディートリッヒは小さく舌打ちしてから窓の外を眺める。
小さな金色の髪の少女。
ハインリヒ・ヒムラーの私設警察を動かす子供。
彼女はいったい何者なのだろう。
一見しただけではかわいらしい子供でしかなかったからつい自分の部下たちと変わらない態度で接してしまったが。手が出てしまったのは、彼女の子供らしさ故だろう。さすがに部下たち相手に頭をかき回したりなどしない。
宝石のように大きな瞳。
青い瞳が彼を見つめていた。
「ハイル・ヒトラー。ディートリッヒ上級大将。フランスはどうだ?」
ユットナーの執務室の扉を開くと、幕僚長を務めるハンス・ユットナーが彼に問いかける。
「ハイル・ヒトラー、そうだな。東部の戦線と比べればなかなか快適だ。戦闘もないしな」
豪快に笑う短身の装甲師団の指揮官に、ユットナーはほほえみながらソファを薦めると彼の土産話を聞く体勢になった。
「東部は激戦だったと聞いているが、無事でなによりだ」
「まだまだ死ねんよ、ドイツの平和を見るまではな」
ひとしきり東部戦線と、部隊再編成についての報告めいた歓談の後、ところで、とディートリッヒは話題を切り替えた。
「廊下で変わった女の子に会ったがあれはなんだね?」
「……親衛隊長官の、私設警察の部長だ」
「ほぅ」
ヒムラーからマリーと面会の場を持ってほしいと言われなければ、たかが親衛隊少佐など一蹴していたところだ。
「ヒムラー長官から、わたしに彼女と面会せよと命令があってな、もっともただの世間話に来ただけのようだが」
大した話しはなかった。
強いて言うならば、少々えげつのない話しを残していったくらいだ。
――立ち上がる力が残らないほど、叩きつぶせ。
要約すると彼女はそう告げた。
「どうだね?」
「どう、とは?」
ディートリッヒに言われてユットナーが切り返す。
「見込みだ」
自分の膝をバシリと大きく叩いてからディートリッヒが告げると、ユットナーは腕を組んだままで考え込んだ。
「……あれが男なら、相当のやり手だな。おそらく、ハイドリヒ以上の。だが、あの士官が少女だからこそ許されるというのもあるのかもしれん。わたしは専門家ではないから判断がつかんが、好きにやらせれば相当厄介だろう」
彼女の言葉の端々から感じたのは、無意識の領域にあった可能性を引き出す力だ。男たちですら「そんなことは人道的に許されない」と思うようなことを、笑顔で簡単に突きつける。
まるで、幼い子供が虫の羽根をおもしろがってちぎるように。
ハイドリヒの弁論に浮かされた次官たちではあるまいし、非人道的な行いに対して抵抗がないわけではない。
アインザッツグルッペンに配属された兵士たちですら心を病むのだ。
それを少女のような彼女が簡単に言ってのけたこと。
それがユットナーには興味深いと思った。
「……軍人としてのあるべき姿を思い出させられたよ」
ユットナーの呟くように言ってから短く笑う。一方のディートリッヒはやはりどこか面白そうな表情を浮かべてから窓の外を眺めた。
――彼女は何者だろう、と。




