8 鳴動
そういえば、とヴェルナー・ベストはふと思い出した。
マリーはほんの数ヶ月前に武装親衛隊の将校からスパイの容疑を掛けられて身柄を拘束された事件があった。当時はまだ、彼女はナチス親衛隊に所属などしていない一般庶民で、ともすれば強制収容所に送られるところだった。
簡潔極まりない記録でベストは経過と結果、そして事実だけを知っている。
もっとも、ナチス親衛隊という組織のことだ。
裏の裏は表ではない。
その「事件」に対して、武装親衛隊の実質的なトップはなにを思っているのだろう。
「……マリア・ハイドリヒ親衛隊少佐、か」
ぼそりと愛想もなく呟いたユットナーは、相変わらずじろじろと少女のことを凝視しているが、彼女自身は何とも感じていないらしくひどく不思議そうな顔で彼を見つめ返すだけだ。
「一般親衛隊でも、近年ではまれに見るスピード出世ではないか?」
「そのようです」
少女は沈黙は金とでも思っているのか、親衛隊将官たちの会話に口を差し挟まない。そのあたりは分別をつけているのか、それとも単になにかを計算しての行動の結果なのかはベストには理解できなかった。
「しかし最近は見ていませんな。武装親衛隊との兼ね合いでしょう」
オーストリアの親衛隊及び警察高級指導者のカルテンブルンナーが告げると、ハンス・ユットナーは視線を天井に上げると考え込んで「ふむ」と口の中でつぶやいた。
「そういえば、”移送”はその後順調に進んでいるとか?」
ミュラーの顔を思い出したのだろう。
ユットナーがそう告げると、カルテンブルンナーはソファに大柄な体を預けて膝に両前腕を預けながら鷹揚に頷いた。
「えぇ、現在のところはそれなりに」
「……しかし、今後の戦線の拡大を考えると、収容所は対処しきれなくなるのではないか?」
ユダヤ人や、スラブ人、ロマニーなどを含めた民族の強制移住に加えて、東部、西部の両戦線から送られる戦争捕虜にも対応していかなければならない。さらに、政治犯や反体制組織にもである。
その数は膨大だ。
「国家保安本部で対処できるのかね?」
「対処するのが国家保安本部の仕事です、ユットナー大将閣下」
「……ふむ」
ベストが口を挟むと、それだけ言ってユットナーは自分の顎を軽く撫でると視線をそらす。
「なるほど、結構なことだ」
腕を胸の前で組み直してからハンス・ユットナーは「ところで」と言葉を続けた。
「先日の間諜疑惑の件で、ハイドリヒ少佐に嫌疑をかけてしまったようだな」
「……そのようですね」
ベストはエルンスト・カルテンブルンナーの隣に腰を下ろしている少女を横目で見やって応じると、ユットナーは考え込みながら言葉を選ぶ。
「ですが、彼女はなにも気にしていない様子ですから」
そんな武装親衛隊司令官にベストが告げると、なにか言いたげな眼差しでユットナーは少女を見つめてから肩から力を抜く。
一方、マリーの方は振る舞われたブラックのコーヒーが苦かったらしく、わずかに片目をしかめてから、そんな自分を凝視している三人の男たちの視線に気がついた。
「……どうかしたんですか?」
止まってしまっている会話にマリーが目をぱちくりと瞬かせると、カルテンブルンナーが少女のコーヒーカップに角砂糖をふたつほどいれてやる。男たちが勝手に会話を交わしているのを聞いているのかいないのか、コーヒーカップをソーサーから上げながら首を傾げた。
「ハイドリヒ少佐、君がユットナー大将に会いたいと言ったのではなかったのか?」
「そうでした」
カルテンブルンナーの言葉に、マリーは思い出したようにそう言ってから笑うと、父親ほども歳の離れたハンス・ユットナーににっこりと笑いかける。それこそ、ユットナーから見れば親衛隊ごっこに興じる子供にしか見えないだろう。
しかし、彼女のどこか冷徹にすら感じさせられる正体不明の残酷さを、ヴェルナー・ベストは知っていた。にこやかな笑顔の下に、彼女の残酷で、冷徹な素顔がある。それは決して誰かの目に触れることはない。
しかし、彼女が言葉を放った後。
マリーが歩いた後には、血の川ができる。
それは細い糸で血だまりの池に繋がっている。
恐るべきモンスター。
たったいま思い出したとでも言いたげな表情の彼女は、ややしてからにっこりとユットナーに満面の笑みを向けた。
「閣下には一度お会いしたかったんです」
「自分にスパイ容疑をかけた組織の親玉でも見に来たのかね?」
見るからにマリーの態度に苛立ちを隠せない様子のユットナーに、しかし当の本人はものともしない様子で砂糖のたくさん入ったコーヒーに口をつけた。
チコリの代用コーヒーではなく、本物のコーヒーらしい。戦時下のドイツでは貴重品だ。そんなコーヒーに砂糖を大量に入れて味わいを台無しするなどもったいないにもほどがある。
おそらくそんなことをユットナーは考えているのだろう、とベストは思った。
「そんなこと思っていません」
この人は何を言っているのだろう、と言いたそうなマリーはユットナーを見つめ返してから、やはりいつもと同じでにこにこと笑ってみせた。確かに彼女の表情からはとても自分がスパイ容疑をかけられたことを気に病んでいるとは思えない。
「現在、東部戦線の武装親衛隊はコーカサス方面に、武装親衛隊第五装甲師団ヴィーキングが展開中と聞いています」
言葉使いはまるでなっていないが、彼女の切り出した言葉にユットナーは興味を抱いたようだ。まさか一般親衛隊の、しかも国家保安本部の少女士官の口から武装親衛隊の師団名が出てくるとは思っていなかったらしい。
てっきり彼女の上官であるヴァルター・シェレンベルクのように、国家保安本部率いる行動部隊の動向について話しをしにきたと思っていたのだ。行動部隊の任務は形式的には”パルチザンの掃討任務”ということになっているが、それが国家保安本部お約束の名義的な理由であるに過ぎないことをユットナーは知っている。
だから軍人肌のハンス・ユットナーにしてみると、国家保安本部は目の上のたんこぶに近しい存在だった。彼らは、ただでさえ頭の回転の速いエリート集団である上に、口がうまく同じ親衛隊同士なのだからと、当たり前のように武装親衛隊の兵士達をアインザッツグルッペンに引き抜いていく。
「まぁ、アインザッツグルッペンもコーカサス方面の南方軍集団と行動しているからな」
コーカサス方面のバクー油田の確保を目指して進撃しているのは、ドイツ国防軍を中心とする南方軍集団でヴィルヘルム・リスト元帥指揮下百万のA軍集団と、マクシミリアン・フォン・ヴァイクス上級大将の約三十万のB軍集団だった。
そして、このB軍集団に武装親衛隊の装甲師団のヴィーキングが参加している。フィンランド人などの外国人義勇兵を多く含んだ精鋭部隊のひとつである。
そのコーカサス方面の南方軍集団に追従する形でアインザッツグルッペンの四部隊が現在展開されているから、国家保安本部に名前を連ねる彼女が知らないわけはないだろう、と暗に告げる少女に、ユットナーは合点がいったといった表情でつぶやいてから顎に手を当てると頷いた。
「しかし”あれ”はどうにかならんのか、武装親衛隊の士気にも関わりかねん」
「そこはわたしの権限ではありませんので……」
ユットナーに言葉を返して苦笑したマリーはそれから、真剣な光を瞳にたたえた。
「ですが、どちらにしたところで、もう後には引けません」
「……――?」
「すでにアインザッツグルッペンにおいて数万人規模の処刑が行われました。今、手をゆるめれば、後に禍根を残す結果になります。戦場の兵士たちに、どんな心理的負担を与えようとも、国家保安本部の行動部隊は”掃討”の手をゆるめるわけにはいかないのです。ユットナー親衛隊大将も、それは”知っている”はずです」
まっすぐな青い瞳がユットナーを見つめた。
これだ。
彼女は決して「人道的」な立場など顧みない。
善と悪の概念もないのかもしれない。
マリーはただまっすぐに、自分の感情など現場の分析には使わない。そのあり方は、まるでかつての残酷な国家保安本部長官――ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将を思わせる。
ただただ事務的な冷静さとで言ってもいいほど、彼女は冷徹に現実を見つめている。
そんな少女の言葉に、ユットナーは苦々しげな表情になった。
「……言われるまでもない」
わかっていることだ。
理想的な意味では、確かに無力な者たちを虐殺しなければ良いに越したことはない。しかし、すでにナチス親衛隊――そしてドイツ軍は恨みを買いすぎている。それを沈めるためには、その恨み以上に圧倒的な力で叩きつぶし、ねじ伏せるしかないのだ。
「……わかっている」
全ての不穏分子を叩きつぶすためには、国家保安本部のアインザッツグルッペンがどうしても必要だった。
考え込むように目を伏せて呟いたユットナーに、マリーは茶飲み話の続きをするように口元に無邪気な笑顔をたたえると「コーヒーって苦いんですね」と言った。
緊張感もへったくれもない。
現在コーカサス方面に進撃を続ける南方軍集団は、背後から革命派のポポフ将軍率いる機甲部隊による挟撃を受けて逃げ場を失った。そのまま革命派に身を投じた部隊指揮官もおり、スターリン派の政治将校やスパイなどは内部で粛正を受けている状況になっているらしい。
革命派にとってもスターリン派と通じている将校がいるということは大いに問題なのだ。
ドイツ側からはそれが功を奏した。
「苦いのは嫌いかね?」
「……あんまり好きじゃありません」
素直なマリーの言葉に、ユットナーが初めて眉尻を下げると苦笑する。
「次に君と話す機会があったら、前もってケーキでも準備させておこう。もっとも、わたしも暇ではないが」
子供だと思って話してみれば、マリーの語る内容は随分とえげつない。なによりも、良心の呵責からは完全に切り離された考え方をすることが意外だった。それそのものに対して、ハンス・ユットナーは評価しないが、効率を最大限に考える軍隊という組織の中では、最も好ましいとも言える考え方だ。
ソ連赤軍のように、部下の消耗を顧みずに万歳突撃を強行するわけでもない。また良識や人道を優先して情にほだされるわけでもない。彼女の年齢がもう少し高く、男性であったならば、とユットナーはふと頭の片隅で思った。
理想的な幕僚将校に育っていたことだろう。
いや、逆に女子供であるからこそ、彼女は恐れることもなく武装親衛隊司令部幕僚長のハンス・ユットナーに対等とも言える口調で意見を言うことができるのかも知れない。
「……気に入った、なるほどな。面白い小娘だ」
彼女にシェレンベルクやカナリスの後ろ盾があるのも頷ける。
にやりと人の悪そうな笑みを浮かべたユットナーは、わずかにソファから身を乗り出すとマリーに右手を差しだす。
「マリー、握手を」
横から少女にカルテンブルンナーが耳打ちした。
「あ、はい」
元弁護士の親衛隊中将にそう言われて、マリーはユットナーの大きな手を握り返す。どこまでも空気など読めていないマイペースな少女に、武装親衛隊の実質的な司令官は口を開いた。
「いつでも来るといい。わたしは君の冷徹さが気に入った」
「……はぁ?」
なにを褒められているのかマリー本人も理解していないらしく、困ったようにユットナーを見返してから、隣にいるカルテンブルンナーとベストに視線を滑らせた。
これだけでも充分、上官に対して無礼な態度にあたるのだが、今のユットナーには余り気にならないようだった。「おそらく本人は冷徹なつもりはありませんよ」とヴェルナー・ベストは口の中でぼやいたが、それは音にならずに消えていった。
彼女は冷徹なつもりなど全くない。
ただ、現在の状況に対して感情をいれずに見つめて分析しているに過ぎない。そんなことだから、自分が冷徹だなどとはつゆほども思っていないはずだ。それが果たして周りの人間には「冷徹な判断だ」と思われるとしても。
彼女の物言いは理知的で、冷静で、冷徹ではあるが、暴力的ではない。そこにある現実を分析しているだけだ。しかし、それが武装親衛隊司令部幕僚長であるハンス・ユットナーを惹きつけた。
一部の荒くれた武装親衛隊の隊員たちがいることも知っているが、彼らは”知的”ではない。
国家保安本部のエリート集団とも言える親衛隊情報部の人間が冷徹になるということがどういうことであるのか、それをアインザッツグルッペンのやり方で知っていたはずだったというのに、彼らの残虐な処刑が一時はユットナーの心を曇らせた。
彼らはただ残虐なだけではないのだ。
一時の犠牲に目をつむってでも、自分たちは前を見つめて進まなければならない。そうしなければ、くすぶり続ける怨恨は見過ごした彼ら自身に降りかかる。
――ならば、進め……!




