7 嵐のかけら
果たして傀儡になっているのは誰なのだろうか。
ゲーレンは考えながら、国家保安本部を指揮する高官たちを思い浮かべた。確かに一部の警察官僚たちのように権力にぶら下がる者たちの重要性は低いかもしれない。そもそもたかが警察官僚程度にドイツで二番目とも、三番目とも言える権力の持ち主であるハインリヒ・ヒムラーに意見を述べることができる者など居はしない。
そんなハインリヒ・ヒムラーを操った男――ラインハルト・ハイドリヒの権力と影響力は頭ひとつぬきんでていたが、今は野獣のような男は暗殺された。そして、ゲーレンの想像するところ、現在の国家保安本部で次の権力を握るための熾烈なレースが始まっているはずだ。
胸の前で腕を組んだまま考え込んでいるゲーレンは椅子の背中に深くもたれると、ちらと部下からもたらされた報告を思い出す。
国家保安本部のヴァルター・シェレンベルクが率いる国外諜報局の特別保安諜報部――通称六局G部。
ナチス親衛隊の権力争いなど興味もないが、彼らが身内でゴタゴタしているというのは、国防軍陸軍にも大きく関係してくるところだった。現在、東部戦線において作戦から外れてはいるものの、ナチス親衛隊に属する武装親衛隊は国防軍に不足する戦力を補って余りある練度の高い精鋭部隊だ。
だいたい、とゲーレンは眉をひそめた。
ナチス党に属する高官にはろくな政治家がいないと思うのは気のせいか。どれもこれもアドルフ・ヒトラーの言いなりだ。取り巻きなら取り巻きらしく、軍事に対して素人レベルの知識しかないヒトラーに対してその挙動を諫めるくらいの気概がほしいものである。
もっともそんな取り巻きだからこそ、アドルフ・ヒトラーにとっても都合が良いのだろう。
ゲーレンにとっての当面の問題は始まってしまった空軍のスターリングラードに対する空爆だ。情報によれば、スターリングラードにはソ連赤軍の革命派フュードル・クズネツォフの率いる反乱分子がいるはずで、彼らの存在はドイツ軍にとっても大きな利益をもたらしていたというのに。
「きちがいめ」
忌々しげに口の中でぽつりとつぶやいたゲーレンは、執務室の扉がノックされる音に顔を上げた。
現在、東部戦線の各所から奪取した赤軍兵士たちの家族へ宛てた手紙の解析が、東方外国軍課では行われている。これによって、士気の高さや戦線の内部状況を間接的に知る事ができ、戦略上の重要な判断にも利用された。
「ソ連軍の手紙の解析の中間報告が上がってまいりました」
「寄越せ」
ぞんざいに言ってゲーレンはタイプされた書類に視線を走らせた。
ゲオルギー・ジューコフのおかげか、全体としての士気は高いようだが、ゲーレンの東欧やロシアに張り巡らせた情報網によると、モスクワの内務人民委員部が占拠されたとは言え、まだジューコフ指揮下で政治将校たちが跋扈しているということだった。
しかし、先日ジューコフの司令所に、スターリンのオルガンとも呼ばれるロケット砲が撃ち込まれてから、手紙の一部には粛正に対する恐怖が広がっていることも感じ取られた。
練度の低い兵士たちにひたすら銃剣突撃――万歳突撃とも――を繰り返させる、典型的な物量で攻勢を仕掛けてくるタイプの赤軍の将軍。
敵はその数だけではない。
深く深く潜り込むような、蟻地獄のようなロシアの大地そのものでもある。そしてその蟻地獄は、一度足を踏み入れてしまったらなかなか抜け出すことなどできはしない。
どちらにしろ、赤軍の士気がいまひとつであるのは今に始まったことではない。
問題は革命派がどう動くかだ。
音をたてて紙をめくったゲーレンはそうして、目を通したことを示すサインを書類の真下に書き込みながら軽く息をつくと、副官が腕を伸ばして木製のブロッターで万年筆のインクを吸い取った。
こうすることによって余分なインクがブロッターに取り付けられた給水紙に吸い込まれてインクが滲まないのである
「続けてくれ」
「了解しました!」
諜報とは決して派手な戦いではない。
戦場の裏方であり、諜報部の戦いは戦場の勝敗を決することになる。だが、そのためにどれほど正確で、詳細な情報を提出してもそれを読み取るだけの司令官がいなければ話にならない。
今のドイツ軍がそういった状況に陥っていることを、ラインハルト・ゲーレンは感じ取っていた。
国防軍総司令官を名乗るアドルフ・ヒトラー然り、国防軍空軍のヘルマン・ゲーリング国家元帥然り。陸軍の重鎮が意見をしても、ヒトラーがそれを気に入らずに戦争のプロたちを左遷させてしまう始末だ。
「さて、どうなるか……」
言葉少なに独白したゲーレンはそうしてわずかに目を細めてから、鼻から息を抜く。
――戦争は、戦争屋に任せておけばいいのだ。
おそらく、国防軍の重鎮たちはさぞや頭を痛めていることだろう。
諜報部門を統括するゲーレンですら、自分の目の前にそろえられる情報に頭痛がしてくるのだから。
*
夏らしく白いマリンハットには紺色のパイピングが施されていて、白いセーラーカラーのワンピースを身につけた少女はいつものようにベルベットの腕章を身につけていた。腰の後ろには大きなレースのリボンが結ばれていて、少女らしい愛らしさを際立たせている。
そんな彼女に同行するのは首席補佐官ヴェルナー・ベスト親衛隊中将と、護衛官としての任務も受け持つアルフレート・ナウヨックス親衛隊少尉である。公用車のベンツの運転には、今一人のSDであるユストゥス・レンナルツが運転手を務めていた。
「やぁ」
大きな手のひらを上げて親しげに声を放ったのは、オーストリアの親衛隊及び警察高級指導者であるエルンスト・カルテンブルンナーである。
親衛隊中将であるカルテンブルンナーに「ハイル・ヒトラー」と右手を挙げるのはアルフレート・ナウヨックスだが、一方、やはり階級が下になる少女はぺこりと大男に頭を下げた。
「お久しぶりです、カルテンブルンナー博士」
年齢はヴェルナー・ベストと同じで三九歳だ。
長身のこの親衛隊及び警察高級指導者の地位にある男は、ベストが最後に会ったときと比べるとだいぶ表情が穏やかなようになった気がする。以前は酒と煙草に浸かったようなとでも言えばいいのか、それとも、なにかしらの薬物中毒者かと思えるようなドロンとした目をしていた。
仮にも法律を扱う身分であったはずだというのに、酒と煙草に溺れる心の弱い男。
それがヴェルナー・ベストの評価でもあった。
それがどうだろう。
高身長から他者に与える威圧感は相変わらずだが、理知的な眼差しの中に、穏やかな光すらもたたえてマリー一行を見つめ返した。
「久しぶりだね、今は親衛隊少佐だと聞いたが、祝いに行けなくてすまないね」
言いながらカルテンブルンナーは、彼女の頭から足の先まで見下ろすのは、特にマリーのファッションセンスを確認しているわけでもないだろう。
「いえ」
「随分と歩けるようになったようだな、なによりだ」
一通り観察してからマリーの肩を叩いたカルテンブルンナーは、改めてヴェルナー・ベストに視線を向けると、腕を高く上げる。
「ヒトラー万歳、ベスト親衛隊中将」
「ハイル・ヒトラー。カルテンブルンナー中将」
ナチス式の敬礼を交わした彼らを尻目に、マリーは相変わらずで好奇心旺盛の少女のように、くるくると光をたたえる青い瞳で辺りを見回していた。ナウヨックスは内心で「緊張感が足りない」と溜め息をつくが、当の本人はそんな護衛官の青年の反応など余り気にならない様子だった。
「貴官が彼女と親しかったとは意外だ。こんな子供には興味なさそうだが?」
そう告げたベストに厳つい眼差しをわずかに綻ばせてからベストの隣でカルテンブルンナーの背後を見つめている少女の視線を追いかける。
ひらひらとモンシロチョウが飛んでいるのを認めて、オーストリアの親衛隊及び警察高級指導者の男は彼女の視線に合わせるようにしてかがみ込んだ。
「蝶が好きなら、標本を送ろう」
「死んだ蝶を愛でる趣味はありません、博士」
「なるほど、そうとも言える」
確かに虫の標本など「死骸」には違いない。
対象に学術的興味があるかどうかはまた別だ。
マリーの言葉に納得した様子のカルテンブルンナーは、両膝に手のひらをつくと立ち上がってから歩きだす。そんな彼に並んで歩きだそうとしたベストはまた立ち尽くしたままで蝶を見つめている少女を呼んだ。
「ハイドリヒ少佐」
「……あ、はい」
そこは親衛隊作戦本部の本部だ。
親衛隊作戦本部と言えば、十二ある親衛隊本部のひとつであり武装親衛隊を統括する組織である。現在は便宜的にその長官をハインリヒ・ヒムラーが務め、補佐にあたるのが武装親衛隊司令部幕僚長ハンス・ユットナー親衛隊大将だ。実質的な権限はユットナーが握っていると言ってもいいだろう。
ユットナーは軍人としての経歴を持つため自身が統括する武装親衛隊を純粋な軍事組織として発展させたいと考えていたようでもある。
武装親衛隊司令部幕僚長と話しをしたいというマリーのために、エルンスト・カルテンブルンナーが骨を折ったというのがことのいきさつで、このためにベルリンを訪れていると言ってもいい。
「元パリ民生本部長では、どうにも箔がつかないのでな。貴官が骨を折ってくれて感謝する」
「うむ……。まぁ、そこはヒムラー長官が裏で動いたらしいというのも聞いているが」
ベストに言われてカルテンブルンナーは小首を傾げた。
前を歩くふたりの親衛隊中将に数歩遅れて歩くマリーはともかく、ナウヨックスはどこか緊張した面持ちで視線を彷徨わせる。もちろん任務としてマリーの身の安全に注意も払っているが。
さすがにベストとカルテンブルンナーという親衛隊中将ふたりの名前と、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの名前で面会の場を用意されてしまえばハンス・ユットナーでも「否」とは言えないだろう。
ユットナーも多忙であるため、それほど長く時間を割けるわけではない。しかし、それで良いとマリーが納得した。
いくらヒムラーの名前を最大限に利用して高官たちの間を飛び回ることができるとは言え、一介の親衛隊少佐が簡単に彼らと会うことができるわけではない。
「カルテンブルンナー博士、お忙しいのに今日はありがとうございました」
「ウィーンからはそれほど遠くないし、たまに君の顔が見れるならこれくらい訳はない。フロイラインが気を遣うことはない」
背後からかけられた少女の声に、カルテンブルンナーは肩越しに振り返りながら微笑する。
「しかし、ユットナー大将はかなりの堅物で軍人肌だからな。彼女のことを快く思うか……」
カルテンブルンナーの言葉に、ベストは無言で頷くと自分たちを案内する下士官の背中を凝視した。
さしずめ「親衛隊はいつから女子供のままごとの場になったのか!」と怒り出しそうだ。マリア・ハイドリヒが真価の発揮をしたことは知っているだろうが、はたして武装親衛隊の実質的な指揮官がどこまで警察組織を含めた一般親衛隊の事情を理解しているかどうかである。
「わたしはハイドリヒ少佐の補佐官だからな。命令された以上は勤め上げるだけだ」
事務的なヴェルナー・ベストの言葉に、カルテンブルンナーは広い肩をすくめるとじっと前方を見つめるような表情になって考え込んだ。
「わたしからしてみれば羨ましい限りだが……」
顎に手を当てながらつぶやいたカルテンブルンナーをちらと見やったベストのあからさまな批難の視線に、大男は笑い声を上げた。
「わたしのような飲んだくれでは補佐にもならんか」
そうしてたどり着いた執務室の重厚な扉の前で足を止める。
「こちらです」
四人の親衛隊将校。
その異様な光景に、下士官の青年は気圧されしたように息を飲み込んだ。
「ハイル・ヒトラー」
入室したカルテンブルンナーとベストが右手を挙げた。
自分の周りのふたりの男たちが敬礼をするのを見渡してから、一拍遅れたマリーが申し訳程度に右手を挙げると、その挙動の遅れがひどく目立ったようで、途端に窓際に立って背中で腕を組んでいたハンス・ユットナーの目に止まったようだ。
少しばかり不機嫌そうな表情をしたユットナーは軽く片手を上げて挨拶を返すと、じろじろとマリーの顔を遠慮もなしに見つめてから、その次に腕に止められたSD章とRFSSのカフタイトルが縫い付けられた腕章を観察する。
「ヒムラー長官から聞いている。君が新たに新設された諜報部の部長だそうだね。ハイドリヒ少佐」
低い男の声は固い緊張感を感じさせる。
しかし、相変わらずな様子のマリーは、目の前に立つユットナーに対して人好きにする笑顔でにこりと笑うと胸の前で両手の指を組み合わせて「はい」と言った。
「親衛隊がいつのまにかままごと会場になっていたとはな。これでは我らを軍とも思っていない国防軍共の良い笑いぐさではないか」
機嫌悪そうにぼそりと呟いたユットナーは、舌打ちをしてから剣のこもった眼差しを瞼の下に隠すと改めてヴェルナー・ベストとエルンスト・カルテンブルンナーを見やった。ふたりとも「親衛隊中将」という立場にあるが、ユットナーから見れば、彼らはただの法律家でしかなく、軍人ではない。
戦場の矢面には立たないそんな一般親衛隊の知識人たちが、ユットナーはそれほど好きではなかった。勝手に武装親衛隊から行動部隊に兵士たちを引き抜いたあげく、我が物顔で戦場を国家保安本部のSDやゲシュタポ、クリポなどが闊歩しているのだ。
邪魔なことこの上ない……!
「しかし、ユットナー大将。ご存じかと思いますが、彼女はすでに”真価の発揮”をしております」
「……知っている」
言いながらユットナーは顎をしゃくって彼女の胸元につけられた略綬を指し示した。
どんな事情で与えられたものか。
知らないわけではないが、命をかけて戦場で戦っている兵士たちのことを思うと「こんな女子供に勲章を授与するくらいなら、武装親衛隊の兵士に与えてやれればいいのに」と思うのだった。
「わかっているが忌々しい」
至極素直なユットナーの言葉に、カルテンブルンナーが苦笑した。
「まぁ、立ち話というのもなんだ。かけたまえ」
ソファに視線をやったユットナーに、ベストとカルテンブルンナーに導かれた少女はソファの端に行儀良く腰を下ろした。
ナウヨックスは入室の許可がされていないため廊下で待機させられている。
「初めてお目にかかります、ユットナー大将閣下」
親衛隊員らしさを相変わらず感じさせない口調でマリーがそう言った。




