6 東の激震
気難しげな色彩をその瞳にたたえたまま、コンスタンチン・ロコソフスキーは地図を睨み付けたままで低いうなり声を上げた。
――ドイツ軍など信用できるものか。
苦々しい気分のまま、しかし、とロコソフスキーは思う。
ヨシフ・スターリンが率いる赤軍の戦力を削ぐことは、結果的にクズネツォフらが政治的指導者として擁立するニキータ・フルシチョフにとって有利に働くことになるだろう。
つまるところ、革命派にとってもドイツ軍とスターリンの赤軍が戦闘状態にあると言うことは好ましい状況だった。
表面上はともかく、ドイツ軍も革命派がソビエト連邦の正規軍を攻撃することは利益を受けることになるし、革命派にとってもドイツ軍がジューコフのスターリングラード方面軍を攻撃することは利益に繋がった。
元々戦力と将校の能力に若干の不安があるところだ。
ドイツ側を革命派の味方であると考えれば、その戦力は何倍にもなった。もっとも、秘密協定が結ばれているのはコーカサス方面の戦線だけであって、今のところドイツ軍とソ連革命派の緊密な連携がとれているわけではない。
とりあえず、とロコソフスキーは打算的に考える。
スターリンを打倒するためには、その手持ちの「駒」を消耗に持ち込めなければ結果は絶望的なものになるだろう。どちらにしたところで現状のスターリンの勢力がそのままでは、フルシチョフと一部の軍部の力だけで現政権を打倒することは困難に等しかった。
なによりも、一度は革命派に荷担してしまった以上は、背に腹は代えられない。
勝つか、負けるか。
殺すか、殺されるか。それしかない。
ぎりりと奥歯をかみしめてロコソフスキーは黒煙の上がるスターリングラードの空を見つめている。
ジューコフの司令所にカチューシャを撃ち込んだ砲兵は全員が内務人民委員部の政治将校に逮捕されて銃殺されたと言うことを風の噂で耳にした。それすらもロコソフスキーには不愉快でならなくて、見えない「敵」に対して内心で悪態をついた。
コンスタンチン・ロコソフスキーにとって、彼が自分で打ち倒さなければならない敵のなんと巨大なことだろう。巨大すぎて歯が立たないのではないかという不安にも駆られる。その無力感にロコソフスキーは小さな溜め息をついた。
ソビエト連邦というこの素晴らしい国家を。
揺るぎのない理想の国を食い荒らしているのは他でもない。ヨシフ・スターリンなのだ。今はその悪辣な男を妥当するためにドイツ軍も利用してやればよい。そこまで考えて、ロコソフスキーはふと首の後ろに冷たいものを感じて手のひらをあてた。
クーデターの失敗は許されない。
すでにドイツとの戦争中でありながら、それこそが裏を掻く好機であると判断した革命派と正規軍による大規模な武力衝突も起こりつつあり、結果的にスターリンは内外に対して二正面作戦を展開せざるを得ない状況に陥っていた。
スターリンの持ち駒を、そうして着実にそぎ落としながら、それでも尚、ロコソフスキーの不安はぬぐえない。
「全てが終わったとき、俺は生きていられるのだろうか……」
何をもって「全て」と言うのかは、ロコソフスキー自身にもわからない。
けれど、自分の全てを賭して戦う決意を固めた。それを彼は誇りに思う。短期的にはソビエト連邦の国民たちを不幸に陥れることになるのかも知れない。
それでも……。
誰かが立ち上がらなければ、何も変えられない。
ただ不当な制裁だけが蔓延する国と成り下がる。
――大祖国戦争。
フランス帝国をロシアが打ち破った十九世紀初頭の戦争になぞらえてソ連当局は大層な言葉で表現しているが、そのソビエト連邦に君臨する政府高官、あるいは軍部高官たちこそが、国民をないがいしろにしているのではないか。
今、何が起ころうとしているのか。
そんなことは、ひとりの軍人でしかないコンスタンチン・ロコソフスキーにはわからない。それでも、自ら信じた理想の国家のために、旗を振りかざすことを選択した。
ひとりではなく、同志がいるのだから。
もしかしたら、と彼は思った。
同志がいなければ、自分もゲオルギー・ジューコフやヴァシリー・チュイコフらと同じように、スターリンに追従していただろう。
自分の弱さを嘲笑して、ロコソフスキーは片手で顔をおおった。
自分の進む道は決して孤独ではない。
同志がいるのだ。
人というものは、孤独ではないことを知っていれば進み続けることができるものだ。そんな哲学的なことを考えながらコンスタンチン・ロコソフスキーは微かに笑う。
「閣下」
呼ばれて振り返った。
「どうした」
「クズネツォフ将軍から伝令であります」
敬礼をして告げた部下の言葉に、ロコソフスキーはわずかに片目を細めると顎に手を当てる。内容については見当が付いているが、その伝令とやらは信頼できる輩なのだろうか。
万が一、ジューコフに情報が漏れた場合、待っているのは身の破滅だけだ。
「……閣下?」
黙り込んでしまったロコソフスキーに不審を感じて部下の士官が呼び掛けると、しばらくしてからブリャンスク方面軍の司令官は目を上げる。
「通せ」
「はっ」
短く命じたロコソフスキーに敬礼を返した将校を見送ってから、彼は机の上の書類をファイルの間にはさみこむと引き出しにしまう。
丁度、鍵をかけた時にノックの音が響いた。
「入れ」
「失礼します」
まだ、ゲオルギー・ジューコフはブリャンスク方面軍がスターリングラードの防衛戦から外れたことを知らない。
ロコソフスキーは最大の効力を発揮するタイミングで、ヴァシリー・チュイコフの赤軍第六二軍を殲滅する、そのチャンスを狙っていた。おそらく、その機会はそれほど多くはない。
同時に、後方より迫るクズネツォフの指揮下にある装甲部隊を含めた機械化狙撃兵師団がヴォルガ河畔の補給の搬入口である渡船場を攻撃する予定になっている。
もっとも、現在、クズネツォフはモスクワのスターリン派との攻防戦の総指揮を一手に引き受け、さらに革命派の全軍団の総指揮をとっているからモスクワから離れることはできないのだが。
若い青年の声に、ロコソフスキーが視線をやると青いズボンと、制帽の青年将校がそこに立っていた。
お世辞にもこぎれいな恰好とは言えないが、彼がどれだけ危険を冒して彼の元へと来訪したのかを物語っている。
味方などほとんどいないと言っていいだろう。
「政治将校か」
「元、です」
訂正した青年は苦笑すると、ロコソフスキーに敬礼をして口元を引き締めた。
「元内務人民委員部のガヴリイル・クリヴェリョフと申します、閣下」
「クズネツォフ将軍からの伝令だと聞いているが」
「はっ、現在コーカサス方面に展開するマルキアン・ポポフ将軍の部隊が赤軍の殲滅、及びバクー油田の奪取と確保に成功いたしました。また、クズネツォフ将軍の密使が現在ドイツ軍の諜報部に接触をはかっております。ロコソフスキー将軍には継続してスターリングラード方面の矢面に立っていただくことになる、とのことです」
一息に告げたクリヴェリョフにロコソフスキーがかすかに瞳を閃かせる。
「……つまり、自分でなんとかしろということか」
苦く笑った。
当然のことだ。
マルキアン・ポポフはコーカサス方面に展開し、継続して油田の確保の維持を。また、南ウクライナの兵器工場を押さえるためにドミトリー・パブロフは激戦を繰り広げている。モスクワ方面で包囲網を支えているクズネツォフは当然ながらスターリングラード方面にまで足を伸ばすことなど不可能だ。
「貴官が味方であるという証拠はあるかね?」
どこまでも用心深い自分に対して、苦く思いながらロコソフスキーが問いかけると、クリヴェリョフは真摯な眼差しで大部隊を統率する将軍を見つめる。
「閣下、わたしの両親は強制収容所で死にました。調べてくださっても構いません。わたしは、父母の無念を晴らすために、クズネツォフ将軍の志に賛同したのです」
「……なるほど」
多くの将校たちが、スターリンと、その忠実な処刑人に怯えている。けれどクズネツォフの勇気ある行動はそんな将校たちを立ち上がらせた。
「どうせ死ぬのならば、わたしは自分の信念のために生き、そして死にたいのです」
真剣なクリヴェリョフの声に、無意識に頷いたコンスタンチン・ロコソフスキーは椅子に深く腰を下ろしながら重々しく口を開いた。
「わかった、ドイツ空軍の爆撃は忌々しいことだが、こちらも善処しよう。ただ、ジューコフにしろチュイコフにしろ鼻が利く。時期を選び確実な結果を導き出せるよう、全力を尽くすと伝えてほしい」
「承知しました」
そうして出て行ったクリヴェリョフを見送ってから、ロコソフスキーは緊張から息を吐き出した。
彼がジューコフのスパイである可能性は捨てきれない。
しかし、まだゲオルギー・ジューコフはロコソフスキーが革命派に荷担したことを知らないはずだ。その状況で、あれだけの事情を知る政治将校が敵のスパイであるということは考えがたい。
そういった考えから、つまりクリヴェリョフは味方であると、ロコソフスキーは判断を下した。
ジューコフのやり方は心得ている。
チュイコフにしてもそうだ。
おそらく彼らは人命など顧みることもせずに大量の兵力を投入してこようとするだろう。ヴォルガ河畔の渡船場を奇襲攻撃する部隊と連携をとっているわけではない。
ぎりぎりの状況で、最大の効率を発揮するためにロコソフスキーは思案を巡らせた。「敵」の戦い方は、ドイツ軍などよりも心得ているからこそ、その裏を掻くことができる。
これに対して、ドイツ第六軍がどのように動くかは未知数だが、クズネツォフの密使が先方の諜報部と接触を持てばまた事態も変わっていくだろうと考えられた。
考えなければならないことが多すぎて、ロコソフスキーは疲れたように目を閉じる。
聞こえるのは、ドイツ軍と赤軍の戦闘を交える音だ。
今のところはジューコフらにも味方の振りをしつつ戦闘を続けているが、彼の率いるブリャンスク方面軍が消耗する前に、チュイコフに「反撃」をしなければならない。
そのチャンスを、彼は探す。
あと少し……――。
もう少しで、クズネツォフの奇襲部隊が到着する。
ナチス親衛隊情報部、国家保安本部の国外諜報局に新しい部署が新設された、という噂は東部戦線に展開する陸軍諜報部、東方外国軍課のラインハルト・ゲーレンの元にも舞い込んだのは八月の初めのことだ。
余りにもめまぐるしく変わっていく状況に多忙すぎて、新たな親衛隊の諜報機関とやらが気にかかりつつも、本国に探りをいれることができない状況が続いていた。
「……六局G部?」
コーカサス方面の侵攻状況はやや遅れ気味だ。
しかし、挟撃する形でドイツ軍を支援したのはソ連の革命派でマルキアン・ポポフ率いる機械化部隊だった。おかげで、だいぶ楽に赤軍を殲滅することが可能となった。ソ連領内に奥深くまで逃げ込まれたらドイツ国防軍の補給路は余りにも長大なものになる。
ポポフの部隊が逃亡する二個大隊、及びコーカサスに展開する部隊を取り込み、勢力を広げつつ無血占領したことはドイツ側にも重大な戦果だった。
秘密協定ではこのまま、ドイツにバクー油田が引き渡されることになっているが、うまくいけば、の話しである。
「国家保安本部国外諜報局特別保安諜報部だそうです」
部下に告げられて、ゲーレンは軽く肩をすくめた。
「そうか」
正直なところ、国家保安本部に対しては良い印象を抱いていない。国防軍が似たようなことをやっていないかと尋ねられれば「否」と言うことはできないのだが、どうにも国家保安本部の主導で行われている「パルチザン掃討作戦」はやり過ぎの嫌いがある。
当の国外諜報局長であるヴァルター・シェレンベルクはかなりの切れ者で、ゲーレンも彼のことは相応に評価していたが、それにしたところで国家保安本部のやり方は正直ぞっとしない。
「親衛隊長官閣下の、私設警察部隊と聞いたが」
「どうやら総統官邸の不穏分子の一斉摘発にその部隊が動いたそうです」
「部隊と言っても、実際に捜査に当たったのはゲシュタポとクリポだろう」
国外諜報局特別保安諜報部。
そうした特殊な部署を指揮できるような親衛隊員の存在をゲーレンには心当たりがない。
シェレンベルクの前の国外諜報局長であるハインツ・ヨストは東部のアインザッツグルッペンの指揮で心身共に消耗しきって任務遂行が不可能になったと聞く。さらにその後に武装親衛隊に左遷されたらしく、国家保安本部の要職からは完全に干されていたはずだ。
国家保安本部での権力争いで、ヒムラーやハイドリヒらに目をつけられて飛ばされた優秀な親衛隊士官は数知れない。
「親衛隊長官の私設警察、か」
ゲーレンはぽつりと呟いてからデスクに頬杖をついた。




