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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
VI ドッペルゲンガー
55/410

5 かがり火

「帰りたくないの」

 明かりの灯された執務室。

 その机についているマリーは行儀悪く足を椅子の上にあげて膝を抱えている。かろうじてスカートの中は見えていないが、男を前にして羞恥心がないというのか、無防備にも程がある。

 なぜかふてくされたようなマリーの様子に、シェレンベルクは首を傾げて彼女のデスクに歩み寄る。

「どうした」

 問いかけたシェレンベルクが、彼女の護衛官から急な連絡を受けたのは午後九時を回った頃だった。

 彼女が自宅に戻らなければ、マリーの部下たちも仕事が終わらない。

 要するに彼女が帰宅するということは、部下たちにとっても重要な問題だった。

「後はわたしがなんとかしよう、君らは帰って構わない」

「はっ」

 シェレンベルクの言葉は、もちろん、マリーの自宅に待機している下士官のことも指している。踵を打ち合わせて敬礼をした下士官が帰宅するのを見送ってから、シェレンベルクはやれやれとネクタイをゆるめながら溜め息をついた。

 元々少なからず頑固な一面はあるものの、分からず屋というほどでもないマリーがふてくされた表情で意固地になっているというのは珍しい場面だ。

「考え事を邪魔しないでください」

「……考え事?」

 マリーの前の執務机に腰掛けながら、シェレンベルクは彼女の前に置かれている白い紙を見やる。万年筆が放り出されていて、彼女が確かに考え事をしていたらしいことを物語っていた。

「ペンのキャップはしたほうがいいぞ、ペン先が渇くだろう」

「……――」

 言いながらヴァルター・シェレンベルクが腕を伸ばして少女の万年筆を取りあげると、キャップを回すようにして締める。女性の手に合わせて作られているやや細身の万年筆は黒い光沢の美しい品だった。

 マリーの率いる特別保安諜報部は、形式的には国家保安本部国外諜報局の指揮下に入っているが、実際はハインリヒ・ヒムラーの私設警察部隊というほうが正しいだろう。

 そうした特殊な地位を、彼女はごく短期間のうちに確立していた。

 抱えた膝の上に頭を乗せた少女は、青い瞳を瞬かせてからシェレンベルクをじっと見つめるとそうして視線を泳がせる。

 彼女は時折、こうしたひどい落差を垣間見せることがあった。

 無邪気に屈託もなく笑っているかと思えば、何事かを真剣に考え込んでいる。なにを考えているのかはそのときはたいていわからないのだが、そうした後にはほぼ確実にヒムラーの直接指揮下にあたる親衛隊全国指導者個人幕僚本部から重大な決定が行われた。

 しげしげと万年筆を見つめていたシェレンベルクは、ややしてからマリーの目の前にそれを差しだすと、少女は足を崩してから顔の前に突き出された万年筆を受け取った。

「シェレンベルクは、役に立つ人間に敵性があってもいいとは思わない?」

「ミュンヘン大の学生の件か?」

「……あれは、敵性じゃないわ。ただの不穏分子」

 大したことではないと言いたげに肩をすくめた彼女は、机の上の紙を丸めるとゴミ箱に放り込む。

「似たようなものだと思うが」

 シェレンベルクの一般論に、マリーは机の上に肘をついてから長い睫毛を揺らす。

「シェレンベルクはいつも嘘つきね」

「そうでもない」

「だって、考えていることを素直に言わないじゃない」

 まるで言葉遊びのようなやりとりを交わしながら、シェレンベルクは少女の腹の内を探ろうとした。

 どうにも腹の底が読めない少女はいったいなにをしようとしているのだろう。

「君ほどじゃない」

 行儀の悪い恰好をしていたせいですっかり乱れている長い金色の髪を指先で直してやると、少女はその感触にくすぐったそうに目を細めると息をついた。

 ミュンヘン大学の不穏分子――ただの反体制分子ではあるが、彼らは敵ではない。敵ではないならばどうにでもすることができた。けれども、彼女は「敵性」と言った事が気にかかる。

「捕虜でも洗脳するのか?」

 連合諸国の捕虜を使う気なのかとシェレンベルクが問いかけると、マリーはゆるくかぶりを振る。

「そんな野蛮なこと考えていないわ」

「どうにもわからんな」

「内緒です」

 にこりと笑ってから彼女は上半身で机に突っ伏して目を閉じる。どうやら本当に帰るつもりはないようだ。最先端のセキュリティが施されているプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセは、確かにマリーの自宅と比較すればずっと安全だから気に病む必要はないのだが、帰らないなら帰らないで部下たちの気苦労の元とも言える。

「帰らないのか?」

「ここのほうがゆっくり考えごとができるんです」

 言い切ったマリーにやれやれと肩をすくめたシェレンベルクは、時計を見つめてから執務室の扉が開く音に振り返った。

「シェレンベルク大佐か、どうした?」

 次席補佐官ハインツ・ヨスト親衛隊少将の姿に、シェレンベルクは同情を禁じ得ない。マリーが帰宅しないためヨストも帰れないのだろう。

「いえ、マリーが家に帰らないと我が儘を言っていると聞いたので」

 我が儘という言葉にマリーがけだるげに目を開くとちらりと二人の男たちの声が響く方向へと視線を投げかけた。

「わたしがつきあうので気にしなくて良い。貴官も帰りたまえ」

 そう言ったハインツ・ヨストにシェレンベルクは「そうですか」と言いながらネクタイを締めてから制帽を被る。

 いつも制服をきっちりと着こなしている彼はどこからどう見てもエリートだ。

「では、マリーのことをよろしくお願いします」

 ヨストは、シェレンベルクのかつての上官であり、一局の局長であるシュトレッケンバッハの朋友でありライバルだ。

 東部戦線にアインザッツグルッペンの指揮官として送られる前までは、エリートコースのただ中を歩いてきた。

 そんな彼は精神的に再起不能になりかけたが、何の因果かマリーのために新設された特別保安諜報部の次席補佐官として国家保安本部に籍を戻すに至っている。

 マリーの執務室を出てから、問題は、とシェレンベルクは思った。

 どうしてマリーがハインツ・ヨストやヴェルナー・ベストを知っていたかということだ。確かにどちらも優秀な親衛隊将校であり法学博士である。そして実働部隊の指揮官として選抜されたのがアルフレート・ナウヨックスとヨーゼフ・マイジンガーだ。ナウヨックスはまだましだが、マリーはどうやってマイジンガーを制御するつもりなのだろう。

 中央記録所の極秘記録についてもそうだが、彼女は多くのことを知りすぎている。シェレンベルクはヴィルヘルム・カナリスに告げたように、論理的ではない考え方は大嫌いだった。

 だから、ハインリヒ・ヒムラーのオカルト的な考え方は虫酸が走るほど嫌いだ。もっとも、そうだからこそ考えようによっては扱いやすいと言えるのかも知れない。

 皮肉げにそんなことをちらりと考えたシェレンベルクは、意識をマリーに戻す。

 そう……。

 彼女は知りすぎている。

 そして知りすぎているだけではなく、敵性なり、不穏分子なりの扱い方をよく心得ていた。強く、弱くパワーバランスをコントロールしているように見えた。

 あれほど彼女が国家保安本部内で保管されている情報を熟知しているとなると、マリーがにわかに付け焼き刃として情報を仕入れたわけではないと考えるのが妥当であろう。

「最初から、知っていた?」

 あり得ない。

 知識というものは、全くのゼロから積み上げていくものだ。それまで国家保安本部に足を踏み入れたこともない彼女が知るわけもない。なによりも中央記録所に部外者は立ち入り禁止だ。

 可能性を考えるならば、スパイがいてマリーに情報を流したということも考えられなくもないが国家保安本部に保管される高官たちの情報にすら精通しているとなると話しが違う。

 それほど大量の情報を持ち出すことなど不可能に近い。

 そんなマリーが不可解だからこそ、シェレンベルクは彼女を手元に置いて監視している。

六局のシェレンベルクの元から出向している親衛隊情報官であるユストゥス・レンナルツから常に少女の行動について報告は入っている。

 今回の、彼女が帰宅したがらないというのもそこから入ってきた情報だった。もちろんマリーも、レンナルツがシェレンベルクに通じていることはよくわかっているのだろうが、そんなことを気にする素振りも見せない。

 レンナルツによれば、マリーは親衛隊全国指導者個人幕僚本部での会議の後にカール・ヴォルフ親衛隊大将となにごとか話しをしていたらしい。首席補佐官のベストによれば、東部戦線に関係する話だったのではないかという推測だ。

 現在、東部戦線では作戦が継続中であり、それらに親衛隊は関与していない。かろうじて国防軍の背後で国家保安本部の行動部隊が動いている程度で、規模としてはごく少数に過ぎなかった。

 東部戦線で彼女はなにをはじめようと言うのだろうか。

 マリーの言っていた「考え事」というのも気にかかる。

 そうしてシェレンベルクは背後の廊下を肩越しに振り返ってから片目を細めた。


 この頃、スターリングラードを中心とする戦場では、ドイツ空軍が出動して大規模な空爆が行われた。

 これに対して機嫌の悪さを隠しきれないのはフュードル・クズネツォフだ。

 正式に共同戦線を張っているわけではなかったから、文句を言える義理はないのだが、スターリングラードという街に対して空爆を仕掛けることによって引き起こされる大規模な戦略的な問題に頭を抱える結果になった。

「……市街戦になるな」

 苦虫を噛みつぶすような表情になるのは仕方がないだろう。

 ――ドイツ空軍のゲーリングはなにを考えているのだ……っ!

 内心で悪態をつきながら、クズネツォフはスターリングラードに展開する革命軍の一派、コンスタンチン。ロコソフスキー中将に大至急連絡をとらなければならなくなった。互いに連絡をとりあっていることを、ゲオルギー・ジューコフには知られてはならない。

 どうやって連絡をとるか、という問題もでてくるが、反乱が起きた以上、ジューコフの司令部は警戒しているはずだ。その警戒の目をかいくぐる方法をクズネツォフは探す。

「わたしが行きましょう」

 司令室の窓際で考え込んでいたクズネツォフに、ひとりの青年が言葉をかける。

 青い帽子と、ズボンが印象的な青年で、彼が本来は内務人民委員部に所属していたことを如実に物語っていた。

「スターリングラードには、まだジューコフの腰巾着のNKVDの将校がのさばっています。その点、わたしでしたら政治将校ですし疑われる可能性は低いかと思われます」

「……ドイツ軍からも狙われるかもしれんぞ」

「わかっています。ですが、最初から危険であるとわかっていてわたしは閣下に荷担しておりますので」

 そう言いながら、ふてぶてしくタバコを手に取った彼はにやりと唇の端をつり上げた。

 現在、クズネツォフの指令で出動した狙撃手部隊が着々と成果を上げつつある。なによりも元々味方であったから、補給もそれほど難しくはない。

 素知らぬ顔をして補給所に入り、弾薬と食事を受け取る。そうして彼らは反乱軍としての任務に戻るのだ。

 彼らの任務は、将校、及び下士官の殺害。

 指揮官を失ったソ連赤軍など烏合の衆と代わりはしない。

「閣下が信念を持って戦っていらっしゃるなら、我々は閣下の志を信じるのみです」

 誰も、スターリンやベリヤの権力に異を唱えることができなかった。それを三人の将軍達は死を覚悟してまで立ち上がり、多くの同志を勝ち得た。

 スターリン派に負ければ、自分たちには死の制裁が下されるだろう。

 かつてスターリンがやってきた手だ。

 将軍たちは誰よりもよくわかっている。

 だから、どんな結果になるとしても、スターリンだけは権力の座から引きずり下ろさなければならない。

 そうしなければ、自分に襲いかかるのは死の破滅。

「失敗すれば、士官は全員死ぬことになるぞ」

「わかっています」

「頼む」

 クズネツォフの真摯な言葉に、青年は笑うとブーツの音を鳴らして踵を返した。

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