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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
VI ドッペルゲンガー
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4 毒には毒を

 風向きが変わりつつあることを感じるのは、ハンス・オスターだけではなく、ヴィルヘルム・カナリスもだ。

 数ヶ月前、カナリスが予見したように、少女の存在は弱肉強食を絵に描いたようなナチス親衛隊という組織に対して新風を吹き込むような少なからぬ影響を与えるようになった。

 彼女は不思議なバランス感覚でハインリヒ・ヒムラー率いる親衛隊(SS)へと食い込んでいく。それは時に強引であったり、そして時にはひどく弱々しい力をコントロールして権力争いの渦中に戦う男たちの懐へとするりと入り込む。

 カナリスの首席補佐官を務めるハンス・オスターのような警戒心の強い男ですら彼女の持つ正体不明のカリスマに引きずられるのだ。そうだからこそ、オスターとカナリスはマリーの危険性をわかっているつもりだった。

 小春日和の風のような少女の存在が、疲弊した男たちの心の隙間へと入り込み巧みに支配する。

「彼女は何者なんです」

 プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセから戻ったオスターがカナリスに詰め寄ったのは翌日のことだ。

「……どういう意味かね?」

 問いかけるカナリスに対して、反ナチス的な国防軍将校はさも不可解だと言わんばかりに眉間に皺を寄せて薄い唇を引き結ぶと視線を彷徨わせる。

「彼女のような子供……、いえ、彼女のような”人間”は見たことがありません。彼女は、世間的にそうそういるようなタイプの人間ではありません。何百人にひとり、何千人にひとり、そういった類の人種です」

 ともかく。

 オスターはカナリスのデスクに手をつくと真剣な光を瞳に浮かべた。

「彼女は扱いようによっては危険です」

「わかっている」

 カナリスが初めてベルリンの病院でマリーに会ったときに、彼が感じたとおりであれば、マリーという存在は誰よりも危険な存在であることには間違いない。

 そしてオスターもまた簡単に彼女を危険だと言っているわけではない。それをカナリスは理解している。ベテランの情報将校として多くの人間を観察し、接してきたハンス・オスターの見極めたマリーの異常性。

 使い方を間違えば、ドイツ第三帝国を奈落へと突き落とす。

「しかし、オスター大佐。貴官もわかっているはずだ。今のドイツにはそれでも尚、劇薬が必要なのだ」

「わかっています。ですが、危険すぎると言っているのです」

 ごく一部の、異常な犯罪者にも似た資質を彼女は持っている。野生動物のような純粋さで、見つめる少女の眼差しに捕らわれかけたことをオスターは自覚したからこそ、マリーの危険性をカナリスに訴える。

 しかし、カナリスの言い分もわからないではない。

 迷走する現在のナチス親衛隊という組織の今後に。マリーの存在がどのように作用するのかはわからないが、それでも確かに変化の兆しが現れはじめていた。

 ラインハルト・ハイドリヒが暗殺され、そのために生じたナチス親衛隊内の大きな混乱は、国家の中枢を揺るがしかねない激震だった。けれども、それはたったひとりの無力な少女の存在が、一度はばらばらになりかけた組織を急速につなぎ止めていった。

 ふわりふわりと蝶のように、人と人の間を舞う少女は強く弱くパワーバランスをコントロールする。

 オスターの言葉に、カナリスは頷いた。

「危険な存在であるということに否やはないが、それでもあのハインリヒ・ヒムラーの暴走を押しとどめたのは評価に値する」

 彼女は”ハイドリヒ”なのだから危険であることは当たり前だ。しかし、結果だけを見ても彼女がいなければ、それこそ国家保安本部は「権力争い」の渦中に飲み込まれ、国外での戦争どころではなくなるだろう。

 なによりもカナリス率いる国防軍情報部(アプヴェーア)にとっても、そちらのほうが遙かに問題だ。

 ハンス・オスターはカナリスの言葉にわずかに眉間を寄せると険しい眼差しのままで黙り込む。

 確かに数多くの情報機関がドイツ国内で活動しており、それらの情報部は各々が協力的ではなくライバル関係にあった。

 そんな状況を、情報将校の一人としてハンス・オスターもヴィルヘルム・カナリスも好ましいとは思っていなかった。

「ですが、万が一アキレス腱として目をつけられることを考えれば、やはり危険ではありませんか」

 二重三重の意味でリスクが大きい。

 まず第一に彼女が暴力的な行為に対して通常の男性士官のような抵抗手段を持たないこと。第二に他者に対して余りにも無防備で、親衛隊将校としては警戒心が希薄すぎること。そして第三に彼女が数少ない異常性質を持つ犯罪者たちと同じような素質を持っていること、である。

 なにかのきっかけで彼女の中にある均衡が崩れた時、どんな時代になるのか予測がつかない。そして予測がつかないからこそ、オスターもカナリスも危険だと感じるのである。

「万が一の場合は、やむを得んのかもしれん」

 デスクに両方の肘をついて、顔の前で指を組み合わせたカナリスは重々しくそう呟いた。

「……はっ」

 危険性を承知していながら、それでも使わざるを得ない薄氷の状況に、カナリスもオスターも歯噛みする。

「……毒には毒を、だ」

 ナチス親衛隊という「毒」を制御し続けてきた毒――ラインハルト・ハイドリヒ。その死は天秤の一方で均衡を保っていた片方の「毒」の暴走に拍車をかけると思われたが、しかしラインハルト・ハイドリヒなどかわいいと思えるもっと異常性を秘めた毒が姿を現して、親衛隊はそれに屈した。

 彼女と彼を比較すれば、いっそラインハルト・ハイドリヒのほうが人間味にあふれているとさえ思えてしまう。それがマリーの存在だった。

 ――毒をもって毒を制す。

 マリーは自分自身を権力の歯車であると認識し、自らの良くを切り捨てる。彼女から感じるのは潔いまでの無欲さはおそらくそれに由来するのではないか。

 ありとあらゆる私的な欲から切り離されているからこそ、彼女は国家の歯車としてただまっすぐに適合する。それ故に、彼女は相対する相手によって変幻自在。

 彼女の望みはただひとつ。

 ドイツという国家の存続だけではないか。

「監視は必要ないだろうが、情報収集を怠るな。それとわかっているだろうが、彼女に呑まれないように充分注意しろ」

 カナリスの言葉にオスターは敬礼をすると踵を打ち鳴らした。

「ヒムラーは恐るるにたらないが、取り巻きが厄介だ」

 ハインリヒ・ヒムラーは所詮、小心者の小者でしかないが、彼の登用した男たちは決して無能ではない。軽視すれば足元を掬われる事態になるだろう。

 オスターが出て行ったのを確認してから、ドイツ人にしては小柄な情報部の将軍はデスクの上の新聞に手を伸ばしながら、椅子の背に深く体を預けると目を細める。

 ベルン市内に潜入させている諜報部員の情報によれば、どうやらアメリカ戦略情報局が動き出したらしい。十中八九、先日ベルリンでアメリカからの支援を受けていた反政府組織の一斉摘発の関係かと思われた。

 その一斉摘発がナチス親衛隊、国家保安本部の主導によって行われたことは周知の事実であったから、その組織に籍を置くことになったマリーの存在は、遠からずアメリカを含めた連合諸国の知られるところになるだろう。

 そのときに、どう事態が変化するかだ。

 マリーが国家保安本部に入ってから、カナリスは彼女と顔を合わせていない。単純に忙しいというのもあるが、カナリスは「ハイドリヒ」に会うのが恐ろしかったのだ。

 ライバルとさえ言われていた自分が、マリーの中に眠る中を目覚めさせてしまうのではないかと、そんな(らち)もないことを恐れていた。

「ハイドリヒ……」

 君は何を望み、何をほっしているのか。

 ひとり考えに沈むカナリスは、そうして足を組み直した。

 をうしてその日の仕事が終わり、自宅に戻ったヴィルヘルム・カナリスは数少ないナチス親衛隊の若い友人の来訪を喜んだ。

 政治的なイデオロギーに捕らわれないというのは、つきつめて考えるとより”熱狂的”な祖国愛とは無縁なものに形成されるのかもしれない。もちろん祖国を愛していないわけではない。

 けれども熱狂的に祖国を愛することとは形が異なりすぎた。

 彼らは冷静に状況を分析し、最良と思われる選択を取ることを迫られる。時には冷徹と思えるほど、彼らは感情を簡単に切り捨てた。

「……本当にそう言えるのでしょうか?」

 カナリス宅を訪れた国家保安本部のエリート中のエリートとも言える国外諜報局長ヴァルター・シェレンベルクはそう言った。

 振る舞われたカナリス婦人の食事を堪能しつつ青年は首を傾げた。

「本官はどうも論理的ではない考え方が好きではありませんが、彼女がかの方であると仮定します」

 いまひとつ要領を得ない表情のまま、シェレンベルクがそう前置きすると、一方のカナリスは知的な若い友人の言葉の続きをじっと待つ。

「仮に、”彼女”が”彼”であったとしますならば、彼女に対する評価が無欲だというのは見立てとしては誤っているのではないでしょうか?」

 親衛隊高官でありながら、あからさまに高圧的ではない彼は、人が自分に対して抱く印象を都合良く調節するすべに長けている。カナリスにすら、時にこの穏やかな物腰の青年が、常日頃から自分を装っているのではないかと思わせた。

「なぜそう思う?」

「あの方は権力欲の塊です。ですがご存じの通り恐ろしく頭の回転が早く冷徹でした。それらを考慮にいれて考えれば、今の彼女は、彼が学習して方法を変えてきた、と考えるほうが妥当かと思われます」

 回りくどいシェレンベルクの言葉に、カナリスはわずか数秒ほど考え込んでから若い諜報部員を見つめ返した。

 世迷い言とすら思えるようなことに対して、論理的に考え、答えを導き出そうとするシェレンベルクにカナリスが苦笑する。

 しかし、それでもシェレンベルクの言葉は充分にぞっとさせられた。

「それをフロイラインが計算してやっている、と?」

「計算しているかどうかはわかりませんが、彼女は、知っていてはいけないはずのことを知りすぎています」

「……ふむ」

 言葉を選ぶように沈黙したシェレンベルクは、それからわずかに考え込むとややしてから目を上げて鼻から息を抜いた。

「彼女が計算しているかどうか、ですが、そんな計算をできるような子ではないと思います。提督」

 そそっかしくて不器用な少女。

 天真爛漫な笑顔はとても演じているようなそれには見えない。

「それに、わたしも怪訝に感じまして、友人の精神科医に尋ねましたところ、しばらくの観察結果を踏まえまして、彼女が嘘をついたり、自分とは違うものを演じているといった所見は見られないとのことです」

「なるほど、論理的(ロジカル)ではない考え方は好かないと言うだけあって、データはそろえているか」

「はい、それなりに」

 迷信も世迷い言も信じない、という明確な態度を崩さないシェレンベルクは彼なりに情報を収拾してマリーに接している。

「どちらにしても、提督がおっしゃるとおり、彼女はやや危険な存在です。なにぶん親衛隊長官を尻の下にひいておりますので……」

 どんな弱みを握られているのかは、シェレンベルクも想像の範囲内だがそれをちらつかせてヒムラーの行動を封じているとなれば、ちらつかせているものはそればかりではないのだろう。

 そうなるといったい誰の弱みを握っているのやら。

 なにより政治的な取り引きに使えることのできる弱みを握っていると言うことになる。

「ヒムラー長官は、弱みを握られることがお嫌いだからな」

「……えぇ」

 おそらく怖いのだ。

 自分の権力を奪われるかもしれない事態を恐れている。

 シェレンベルクやカナリスなどは皮肉げに「猿山の大将だ」と思うが、本人はそれに気がついていないらしい。

 自分には力があると信じ切っている。

 なんとも馬鹿馬鹿しい話しではなかろうか。

「マリーは最近では、補佐官のベスト中将と共にあちこち動き回っている様子ですが、顔を出すように伝えましょうか?」

「そうだな、君の顔を見るのは、孫娘が来てくれるようで楽しみだとでも言っておいてくれ」

「……本気ですか?」

「彼女のことは嫌いではない」

 ハイドリヒであったとしても、今、カナリスの前にいるのは少女のマリーなのだから。危険な相手だとわかっていても彼女の吹き込む風に心を躍らせている自分がいることを否定しない。

 マリー・ロセターは確かに希有な才能を秘めた少女なのだから。

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