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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
VI ドッペルゲンガー
53/410

3 謀略

 親衛隊全国指導者個人幕僚本部で午前中の会議を終えてから、アドルフ・ヒトラーの官邸で行われる作戦会議に合わせて軽い昼食をすませることになる。

 カール・ヴォルフはネクタイを締め直しながら小さく首を傾げると視線をおろした。ハインリヒ・ヒムラーの命令で親衛隊長官個人幕僚部に名前を連ねる事になった少女も、会議の席に同席していた。

 彼女は本来、国家保安本部(RSHA)に所属する親衛隊将校であるからヴォルフはそれほど顔を合わせたことはない。第一、顔を合わせるにしても階級が違いすぎるし、そもそも管轄が異なるというものだ。

 そんな親衛隊長官個人幕僚部の末席に名前を連ねる少女は、やせた体を椅子に預けて、興味深そうに男たちの間で交わされる会話に耳を傾けていた。それほど長くはない会議の後に、少女がヴォルフの隣にやってきて衆目を集めたが、当の本人はそんな視線をものともせずに彼に告げた。

 その言葉を思い出して眉間を寄せた。


 現在、実施されているラインハルト作戦アクチオン・ラインハルトについて彼は知らないわけではない。国家保安本部(RSHA)などの警察組織を動員して行われているユダヤ人の移送計画。

 ほんの半年ほど前にベルリンのヴァンゼー湖畔で行われた次官級の会議でいくつかの重要な項目がとりまとめられた。現状の「計画」は概ねそれに則って実施されている。もっともカール・ヴォルフにしてみればそんなことは些細な問題でしかなく、彼にしてみればその他多くの問題が目の前に山積みになっている。

 面倒だと思うことは、現状の国家保安本部の長官が未だに決定されていないことだ。長官をハインリヒ・ヒムラーが務め、さらに長官代理を人事局長のブルーノ・シュトレッケンバッハ親衛隊中将が兼務しているが、それでも組織のトップが不在であるというのは頭の痛い問題だった。

 おかげで国家保安本部主導で実施されている案件が滞ってならないのだ。

 もっとも、それも混乱は一ヶ月ほどだったような気もするが。

 興味深いのはひとりの少女――マリア・ハイドリヒ親衛隊少佐の存在だ。ヴォルフの前に姿を見せたのはそれほど以前の話しではない。むしろつい最近だと言ってもいいだろう。

 そんな彼女が突然、ヒムラーによってその存在を認められあっという間に国家保安本部の中で自分の地位を確立したこと。

 痩せた少女は見ている限り、国家保安本部の高官たちに体の関係をもって籠絡したというわけでもなさそうだ。どこまでも無邪気な子供と同じで、カール・ヴォルフが彼女を見かける度に、屈託なく笑って実に自由に国家保安本部の中を歩き回っている。

 なによりもマリア・ハイドリヒと名乗る少女が国家保安本部(RSHA)国外諜報局に自分の部署を持たされてやったことが問題だ。

 特別保安諜報部は、パリの民生本部長官を務めた元裁判官のヴェルナー・ベスト親衛隊中将、東部戦線でアインザッツグルッペン指揮官として任命されたもののその任務継続が不可能なほど心を病んでしまったかつての国外諜報局長のハインツ・ヨスト親衛隊少将を筆頭に、数名のSDやゲシュタポの捜査官で構成されていた。

 そんな男たちを指揮して、マリア・ハイドリヒは総統官邸に踏み込み反体制分子の一掃をしたのだ。

「……――」

 まともな親衛隊員ならそんなことができるわけがない。

 おおかたヒトラーの側近たちから糾弾されてその地位を失うだろうと思われる。マリア・ハイドリヒはそんな事態を恐れることもせずにゲシュタポを引き連れて自ら官邸に踏み込んだのだ。

 まるで自分の勝利をわかっていたかのようだ。

 そんな彼女がカール・ヴォルフに提案したことがあった。

 問題の、「ラインハルト作戦アクチオン・ラインハルト」のことだ。

「しかしそんなことがうまくいくと思うか?」

 自分よりもずっと身長の低い少女を見下ろしたヴォルフが不審な色彩で瞳を染め上げると、マリーはわずかに小首を傾げてからほほえんだ。

「派手な展開をすれば、デマであると見抜かれることと思います。ですが、人の心はとても弱くて不安で動揺しているところに一撃を加えてやれば思いも掛けないほどあっさりと信じ込むものです」

「……君は確かに”真価の発揮”をしたが、まだ親衛隊情報部(SD)としての経歴を積んでいるとは言えん。わたしに君の見立てを信じろと言うほうが難儀なことではないかね?」

「フルシチョフの手に乗るよりは、はるかに建設的だと思います」

 物怖じしない少女が言い放った。

「アカ共か……」

 つぶやいて顎に親指をあてたヴォルフが考え込むと、マリーはそんな彼を見上げてから計算し尽くしたように首を傾けてから目を細めるようにして笑って見せた。

 カール・ヴォルフもほとんどのドイツ人知識人たちと同じように、ソビエト連邦の高官たちの建前など信用していない。

 彼らの言葉の裏には利己的な打算しかないのではないかと思われる。

 良い例がスターリンだ。

 あの二枚舌め、と口の中で舌打ちしてからヴォルフは視線だけをおろして少女を見下ろすと、窓ガラスに両方の手のひらをあててじっと窓外を見つめていた。

「窓、開けてもいいですか?」

「……かまわんよ」

 無邪気というのか、空気を読んでいないというのか。もしくは単に剛胆なだけなのか。何度か顔を合わせてもマリーの態度は変わらないし、彼女の上官であるヒムラーがそんな少女の態度を容認しているのだから、ヴォルフもそれに倣うしかない。

 なによりも軍隊式の常識に疎いとは言え、彼女がヴォルフやヒムラーに対してふてぶてしい態度をとっているわけではない。

「……どうかしたんですか?」

 深い溜め息をついたカール・ヴォルフに、マリーが言うと親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官の親衛隊大将は自分の顔を仰ぐようにして「いや」とだけ言った。

「君にはほとほとあきれているだけだ」

「そうなんですか」

 なぜだか納得したような顔のマリーの腕に取り付けられている腕章を直してやりながら、カール・ヴォルフは窓の外に行き交う親衛隊将校たちを見下ろしていた。

 まるで好奇心旺盛で、尻尾をふっている子犬のような後ろ姿に、ヴォルフはやれやれと息をつく。

「まぁ、君の言っていた件は考えておこう」

「東部の戦況は逼迫しています。軍の偉いかたたちがどう思っているかは知りませんが、我が国の戦力で二正面作戦は危険かと思います。ですから、決定を下すならば早急にしたほうが良いかと……」

 言いながら振り返った少女の横顔にヴォルフはわずかに動揺した。

 二正面作戦は危険だ。

 そんなことは軍隊に所属しなくてもわかっている。

 カール・ヴォルフは親衛隊大将でありながら、武装親衛隊大将でもある。そんなことを少女でしかないマリーに言われるまでもなかった。

「……わかっている」

「はい」

 窓から見下ろしている少女に対して不審げな眼差しを向けてくる者もいれば、また穏やかな視線を向ける者と様々だ。隣に不機嫌そうなカール・ヴォルフがいるからなおさら不審な光景に見えるのだろう。

 では、失礼します。

 マリーはそう言い残すと、会議室の入り口で立ったまま彼女を待っていたらしいヴェルナー・ベスト親衛隊中将に連れられて親衛隊全国指導者個人幕僚本部を出て行った。

 まるで軍人の父親に連れられている娘のようだな、などと暢気なことを思ってから口元を手のひらで覆うと窓を閉じながら考え込んでしまった。

 ソビエト連邦革命派の手に乗るべきではない。

 そう彼女は言った。

 彼らは(てい)よくユダヤ人達をスケープゴートにしようとしているようだが、実質的に国内と占領地区のユダヤ人問題だけで手に余っている現状だ。

 先頃行われたヴァンゼーでの会議の決定事項によってだいぶましに計画そのものは実行されているが、それでも今後の占領地区が増えることを考えると、問題はさらに大きくなるだろう。

「革命派の手に乗る振りをして、奴らを利用してやれ、とはな……」

 なんともかわいい顔をして言うことがいやらしいことこの上ないではないか。

 手のひらの上で転がっている振りをして、奴らを転がしてやればいいと彼女は言っているのだ。

 そこまで考えてから、会議室に誰もいなくなったことを確認したカール・ヴォルフは、フンと鼻を鳴らすと踵を鋭く鳴らした。

 副官の士官が会議室から出たヴォルフの後に続く。

 いずれにしろ、ソビエト連邦をこのままにしておくわけにはいかない。昨年――一九四一年の失敗を繰り返すわけにはいかないのだ。

 どんなに汚い手を使ってでも、この夏で勝利を完璧なものにしなければならない。

 そのためには親衛隊としてもやらなければならないことは山ほどあった。

「会議が終わったのに、ヴォルフ親衛隊大将オーバーグルッペンヒューラー・ヴォルフと話しをしていたようだが、何の話しをしていたんだね?」

「はい、東部戦線の視察に行きたいとお話しをしていたんです」

「……君の言うことには毎度、頭が痛くなるな」

 なんでもないことのように告げたマリーに、ベストが軽く額を押さえるとちらりと現在の戦線の様子を頭に思い描く。

 東部戦線には現状としては武装親衛隊は配置されていない。

 夏季大攻勢は同盟国と、国防軍陸空軍をもってして行われているのだ。その影で動くのは国家保安本部の指揮下で配備された行動部隊アインザッツグルッペンで、彼らが”パルチザン”の掃討作戦にあたっている。

「心配してくれるんですか?」

「アカ共は野蛮だからな」

 待機させていたベンツに乗り込みながらベストはマリーに告げると、一方で少女は警備を担当している下士官に手を振られて、手を振り返したりしている。

 つくづく警戒心が足りないというか、無防備すぎて頭痛がしてきそうだ。

「視察に行くにしても、その手配のほうが大変そうだな」

「ナウヨックス少尉がいるから大丈夫ですよ」

「……そうだといいが、君の目的はおそらく視察なんかではないだろう」

 ベストが鋭く指摘すると、マリーはじっとなにかを考え込むような素振りを見せた。彼女の首席補佐官を務めるヴェルナー・ベストは、短い期間ながら彼女が実に計算高く振る舞っていることに気がついた。

 次席補佐官であるハインツ・ヨストがどこまで気がついているか、ベストにはわからないがそれでもヨストもそれなりに自分の配置された部署の周りでなにが起こりつつあるのか気がついているだろうと思われた。

 ヴェルナー・ベストにしてもそうだが、国家保安本部の一局長にまで上り詰めたヨストが無能であるわけがない。

「どうでしょう?」

 普段と変わらない笑顔をたたえているマリーははぐらかすようにそう言ってから、そっと片目を細めて見せた。

「いずれにしろ、東部の戦線まで行くのにそれほど時間はかからないはずです。行くだけなら、問題ないと思うんですけど」

「どうだろうな。男性士官ならいざ知らず、君は女性でまだまだ子供だ」

 子供、という単語を強調したベストに言葉もなく笑ったマリーは、そろえた膝の上に両手を乗せた行儀の良い姿勢のままでフロントガラスの向こうを見つめていた。

 帰宅時などはよく眠っている姿を見かけもするが、勤務中にいつも寝ているわけではない。時には暇すぎて眠そうな顔をしていることもあるがそれはそれだ。

「どちらにしろ、君のような士官が東部の視察に行くことなどシュトレッケンバッハ中将が認めんだろう」

「そうかもしれませんね」

 別にいいですけど。

 口の中で言ったマリーの言葉を聞いたような気がして、ベストはちらと彼女の横顔を見つめたがそれだけだった。

 なにを考えているのかわからない計算高い少女。

 女のしたたかさとは違う。そもそも計算をしているのかどうかすら疑わしいものがある。もしかしたら計算などしていないのかもしれない。そう考えるとなんとも不気味なものすら感じるベストだ。

 どこか正体不明とも言えるマリーの行動は、首席補佐官のベストにすら理解できないことがままある。

 きっと、とベストは思った。

 彼女はなにかしらの提案をヴォルフにしたのだ。

 それも戦況を左右するかと思われるような重大な提案を。

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