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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
VI ドッペルゲンガー
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2 ひとときの平穏

「不安定なわけではありませんな」

 気難しげな表情のままヴェルナー・ベストはハンス・オスターに告げた。国家保安本部の知識人筆頭とも呼べるベストは、しかし自分よりも年長者にあたる国防軍情報部長官の首席補佐官に対してそれなりの敬意を払っているようでもあった。

「……彼女」

 彼女、と言ってからベストはひとつ咳払いをした。

「ハイドリヒ少佐はあれが常態ですからな」

 あれ、というベストの言葉にオスターは目を細めるとコーヒーをすする。

「自分よりも階級が低い人間の部下にならなくてはいけないことに対して、中将閣下はなんら疑問を感じられないのですかな?」

 オスターに言われて、ベストは喉の奥で低く笑う。

「ナチス親衛隊は軍隊ではありませんし、そもそも国家保安本部(RSHA)そのものが既存の体制からは一線を画しておりますので」

 ベストの告げるように、国家保安本部はそれまでの組織体系からは大きくかけ離れている。制服の着用の仕方をひとつとってみてもそうであるように、一種のだらしなさを浮き彫りにしているとも言えるだろう。

「ここには軍隊式の秩序は通用しませんから」

 告げたヴェルナー・ベストは首を回して、行き交う人並みを見つめていた。

 丁度、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセを出たところを、ハンス・オスターと鉢合わせして、夕食とコーヒーを共にするという状況に陥った。

 場所が場所であったから、特別込み入った話を交わすわけでもない。

 それくらいの()(わきま)えていた。

「うまい言い訳ですね」

「しかし事実です」

 淡々としたベストの言葉にオスターは肩をすくめてみせる。今、オスターの目の前にいる親衛隊中将のヴェルナー・ベストはかつて国家保安本部人事局長を務め、さらについ最近までパリの民生本部長を務めた辣腕の高級将校だ。

 今は何の因果か国外諜報局特別保安諜報部長の首席補佐官を務めている。

 ベストならばもっとましなポストがあったのではないか、とオスターは思うが、その辺りの事情など部外者の彼にはわからない問題だった。

親衛隊長官ライヒスヒューラー・エスエスの命令ですからな。我々下っ端は従うしかありません」

 静かな彼の言葉にオスターはタバコを取り出しながら息を吐き出した。

 親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの真意はどこにあるのだろう。ハンス・オスターの知る限り、彼よりもずっと若いヒムラーは時折奇行に走ることがある。もっとも、当のヒムラーの指揮下にある部下たちがかなり現実的な思考をしていたから、親衛隊長官のオカルトじみた行動はあまり表だって問題になってはいない。

 これがオスターの私的な知り合いであったなら、問答無用で殴りつけて正気に戻すところだ。

「つくづく閣下も難儀ですな」

 ナチス親衛隊に所属する将校の中では比較的正常な傾向の思考をするベストだが、それでも親衛隊員である以上どこか穿った見方をしてしまうのは、オスターが彼らを嫌っている故であろう。

「それが我々の仕事ですからな」

 ベストは唇をつり上げると声もなく笑ってから、コーヒーを飲み干すと立ち上がった。

「では、わたしはこれで。明日は姫君を迎えにいく任務がございますからな」

 仮にも親衛隊中将がそんなことをしなければならないのか、と侮蔑にも似た思いでハンス・オスターが眉尻をつり上げると軽やかな笑い声を上げてベストはカバンを抱え直した。

「仕方がありませんな、こればかりは。先日ベルリン市内だと言うのに彼女は殺されかけたんですから」

 殺されかけた。

 その言葉にオスターはぎょっとした。

 ベルリン市内。ドイツ第三帝国のお膝元で?

「……昼間は、少佐はそんなことを言っておりませんでしたが?」

「おや、言っておりませんでしたか」

 オスターの台詞にベストは苦笑すると、椅子に座り直して目の前の国防軍情報将校をじっと見つめる。

 マリーのことだから、忘れていたとか、相手を気遣ったというわけでもないだろう。彼女にとってすでに過ぎ去った事件でしかない。だから些事であると判断して話題にもしなかったのだ。

 周りの人間たちがどれほどその件について気遣っていても、本人は事件をすでに過去の出来事であるとしか思っていない。

 ひどい温度差がマリーと、周囲の人間の間に生じつつあるのだが、少女はそれすらもあまり気にならないようだった。

 なんとも剛胆な娘だ。

「別に、こちらとしてもテロ事件を隠していたわけではないのですが、国家保安本部(RSHA)の外にはどうやら余り伝わっていないようですね」

 逆に隠そうともしていないから伝わらないのだ。

 周りの人間はともかく、当人はそれほど重大な出来事だとは思っていない。もちろんゲシュタポやクリポがそれなりに動いて情報統制を行ってはいるが、それだけだ。要するに、国家保安本部が過剰に反応しないから、伝達されないという事態になっている。

「なるほど」

国防軍情報部(アプヴェーア)のカナリス提督がお気に掛けていらっしゃるということなら、お伝えするようこちらも努力しますが?」

「……いや、重要な件だけでかまわないかと」

「承知しました」

 にこりと笑った元裁判官はそうして今度こそ立ち上がると、レストランのふたり分の支払いを済ませて立ち去った。

 マリーが狙われた。

 その言葉にオスターは考え込む。

親衛隊情報部(SD)のアキレス腱になるかもしれんな……」

 独白したオスターはそうして鋭い瞳を細めて、じっと(くう)を見つめていた。

 少女が余りにも無邪気に手をふるものだから、うっかり振り返してしまったが、あれを計算の内にやっているということならば末恐ろしい子供なのかも知れない。

「調べる必要がありそうだな」



  *

 ――あの老いぼれが、なにかしくじったりするようなら、自分が真っ先に葬ってやる。

 久しぶりに聞こえた男の声に、マリーはハッとして目を見開いた。

 夕食後にソファに座ったままで眠り込んでしまったようだ。

「……眠るならベッドに行ってください、少佐殿シュトゥルムバンヒューラー

 交代制で少女の自宅には護衛官の下士官が張り込んでいる。

 本来はそういった護衛は全く必要がない将校のはずなのだが、心配しすぎたヒムラーとヒトラーによって護衛がつけられた。

 もちろん進言したのは国家保安本部の高官達だ。

 ちなみに護衛官をつけてほしいと進言したわけではなく、もっとセキュリティのしっかりしている官舎に彼女を移してほしいと申し出たわけなのだが、とりあえず彼女の新しい住居が決定するまでのしばらくの間は護衛官が泊まり込む形になった。

 どちらにしろ、十代の少女がぼろ小屋でひとり暮らしをするなど無防備にも程がある。

「はぁい……」

 あくびをかみ殺して口元に手を添えた少女は、もう片方の手でごしごしと目をこすった。そうして護衛官に手を振るとベッドルームへと消えていく。

 翌日の朝は、ヴェルナー・ベストが直々に迎えに来ることになっていた。

 確か、そのまま親衛隊全国指導者個人幕僚本部で会議がある。

 カバンの中にある手帳をめくって翌日の予定を確認しながら、彼は万年筆のキャップを回した。

 彼は武装親衛隊の出身だが、戦場で戦っているよりも遙かに安全な任務であることには間違いない。仮になにかしらの危険な秘密任務を命じられる可能性はなきにしもあらずだが、それは軍人である以上、誰にでもある可能性だ。

 少女の自宅の護衛を何度か経験したが、彼女をわざわざ起こしてやる必要はなく、その辺りはきちんと自分で起き出してくる。

 朝七時までに、出勤の準備を整えて時間に正確にやってくるだろうヴェルナー・ベスト親衛隊中将を待てば良い。その後、車の運転を代わって親衛隊全国指導者個人幕僚本部のオフィスまで行って待機する。会議の後に昼食をとって国家保安本部のオフィスであるプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに出勤して午後二時から特別保安諜報部で仕事が待っている。

 午前中の仕事をベストとマリーができないから最終的な決済が貯まっているだろうことは想像できた。

 現在、国外諜報局特別保安諜報部は少数精鋭であり、護衛官であるからといって暇なわけではない。要するに、青年の仕事もたまっているということになる。

 そうして翌日の夕方、マリーを自宅へ送り届け次の護衛官に申し送りをして彼の勤務は終わるのだ。

 上官と丸一日一緒にいなければならないというのはつくづくストレスになる。しかも相手は年頃の女の子だ。彼女は、護衛官の彼らが自分のことを押し倒すだろうといったことは考えたりしないのだろうか。そんなことを考えながら彼は寝室へ続く扉を眺めた。

 もちろんいくら年若いからと言って上官を押し倒すつもりなど毛頭ない。

 それでも家族でもない男と同じ家の中にいて緊張もしないのは大したものだった。

 翌日の予定を確認してパタンと音をたてて手帳を閉じた彼は、ソファに深く座り込んだままで目を閉じる。なにか異常な気配を感じればすぐにでも目を覚ますことができる程度には神経を研ぎ澄まして。

 静かな宵闇に包まれた花の家ハウス・デア・ブルーメン。そこは必ずしも安全な場所とは限らない。彼らの上官でもあるマリーが、まだベルリン市内に潜伏する一部の地下組織を泳がせていることを知っているからだ。

 そんなことを彼が考えている頃、マリーは寝間着に着替えてそれほど大きくはないベッドに転がると枕を抱えたまま考え込んでいた。

 国家保安本部に名前を連ねるようになってから、彼女はほとんど自宅には寝に帰るような毎日を送っている。とは言っても、他の男性士官達のように忙殺されているわけではない。

 目が醒める前に、声が聞こえた。

 彼女が子供の頃から聞いていた男の声。

 ラインハルト・ハイドリヒのそれ。

 彼女には「自分」と「ラインハルト・ハイドリヒ」が違う人間であるという自覚はある。同じ存在でありながら、同じ存在ではない。

 けれどもだからこそ、マリーには「彼」の考えがわかるような気がした。

 空高くから俯瞰(ふかん)する。

「……時間がないわ」

 なにもかも時間が足りない。ラインハルト・ハイドリヒとして、世界を見つめ続けてきた彼女の魂が訴える。

 自分がその場所にいることによって、なにかが変わっていくのだということはわかる。しかし、本当に「彼」が望んだように変わっていっているのだろうか。枕に顔を押しつけたマリーは金色の長い髪を指先でかき分けてから、深く溜め息をついた。

「おやすみなさい」

 考えても埒がないことだ。

 ――おやすみ。

 それほど低くない声が聞こえる。彼の意識は、いずれ聞こえなくなってしまうものなのかもしれない。

 自分(マリー)が消えていくように、(ラインハルト)が消えていく。

 どちらも自分であるのに、新しい自分が確立されていく中で両方の自分が消えていく。それがマリーにはなぜか心細くてきつく目を閉じた。

 翌朝早い時間に目を覚ましたマリーは、手早く服を身につけると帽子のSSのピンと、カーディガンの胸につけた鷲章を確認する。そうしてSD章とカフタイトルガ縫い付けられたベルベットの腕章を腕に通す。

 時間通りに準備をしていなければ、ヴェルナー・ベストに怒られてしまう。

 生成りのスカートとワンピース、それに身軽なサンダルを履いた彼女はくるりと姿見の前で回ってから自分の服装を確認すると寝室を出た。

 この頃にはすでに護衛官を務める下士官の青年も準備を終えていて、狭いキッチンでパンを切り分けていた。

ヒトラー万歳(ハイル・ヒトラー)! おはようございます、少佐殿!」

「……おはようございます」

 踵を鳴らして敬礼をした下士官にまだ半分寝ぼけ眼でぺこりと頭を下げたマリーが手を洗うと、長身の武装親衛隊の青年にミルクを注いだカップを手渡されて、そのまま椅子に座りこんだ。

 なにやらひどくアンバランスなふたりの様子は、傍目には奇異なものに映るかもしれないが上官に従うのが部下の務めだ。

 ちなみに食事の準備までする必要はないのだが、どこか頼りなげな少女を見ているとつい世話焼きの手が出てしまうというのが正しいだろう。

 ぶつぎりのパンを文句も言わずに食べるマリーは、ミルクで喉に流し込んでから時計を見やった。

 そろそろヴェルナー・ベストが訪れる時間だった。

「お皿は置いておいてください、帰ったらやりますから」

「いえ、少ないですから大丈夫です」

 マリーの皿とコップを片付けた青年はちらちらと時間を確認しながら手際よく家事をこなしていると、扉をたたく音に意識を切り替える。

 予定時間通りに訪れたヴェルナー・ベストに、下士官は形式通り敬礼をすると音をたてて踵を合わせた。

「ハイル・ヒトラー」

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