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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
VI ドッペルゲンガー
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1 天賦の才能

 ハンス・オスター大佐にとって「それ」は大した関心事ではなかった。

 言うなれば、ひとりの少女の生命(いのち)を救っただけという実にシンプルなものだ。彼からしてみれば、少女が親衛隊将校の棺の中に入っていたことなど些事にしかすぎなかった。彼は、上官である国防軍情報部(アプヴェーア)長官のヴィルヘルム・カナリスから命令を受けて、身元不明の少女の経歴を捏造しただけだ。

 かわいらしい少女を無為に死なせるのは忍びなかった。

 たったそれだけの理由。

 そんな事情からだったから、オスター自身にそれ以上の思い入れがあってのことではないし興味もない。

 マリー・ロセター。

 オスターが捏造した彼女の経歴と名前はマリア・ハイドリヒ。

 たまたま死亡した子供で容姿などがほとんど変わらず、捏造しても問題のない子供がラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将の遠縁の娘だったというだけのことだ。

 すでに死んでいた子供の人生を一から作り直すことなど造作もない。オスターにはナチス親衛隊の息のかかった情報網を躱すことなどわけのないことだ。

 外務省や、陸海空の三軍の情報機関など言わずもがなだ。問題がひとつ残っているとすれば、現在東部戦線に展開するラインハルト・ゲーレン陸軍大佐の指揮下にある東方外国軍課くらいのものだろう。もっとも、ゲーレンは今のところ東部戦線で手一杯のはずであったから、当面は気に掛ける必要もなかろうと思われた。

 オスターは一九三九年以前からの反ナチス派の国防軍将校で、彼が特にヒトラーの腰巾着とも言えるナチス親衛隊(SS)――特にラインハルト・ハイドリヒを快く思っておらず、彼の元に訪れた将校がナチス式の敬礼をするとぴしゃりと言い放った。

「ここではその敬礼はやめないか」

 それほどまでハンス・オスターが嫌っているナチス党の親衛隊という組織に、彼が経歴を捏造した少女がその庇護を受けたのだと伝え聞いた。

 よりによってあのナチス親衛隊だ……!

「カナリス提督はなにを考えておられるのか」

 鋭く舌打ちしたオスターは苦虫を噛みつぶすような表情になりながら、むっつりと押し黙った。

 ドイツのために、彼女の存在が必要だとカナリスは言っていたが、オスターには全く持ってその理由が理解できない。しかし、彼に理解できなくても、カナリスにはカナリスなりの思惑があるのだろうと考えた。

「……棺の中に潜むのが趣味の女の子、か」

 事の真相――彼女の経歴が捏造である、という意味で――を知るのはドイツ第三帝国にあってオスターを含めると三人しかいない。

 国防軍情報部(アプヴェーア)長官ヴィルヘルム・カナリスと、その首席補佐官ハンス・オスター。そしてナチス親衛隊将校であり国家保安本部国外諜報局長ヴァルター・シェレンベルクである。

 オスターは知る限りでは、マリー・ロセター――マリア・ハイドリヒに対して懐疑的な視線を向ける者が多い。

 ごく当たり前のことだ。

 自分が同じように外側から眺める立場であれば、彼ら同様に疑いの目を向けるに違いない。

 カナリスとシェレンベルク。ふたりのスパイマスターが彼女の後見をしているが、本当にただそれだけの存在なのかと疑問を感じる。

 そんなことを思いながらオスターは首を傾げた。

 まだ十六歳の少女がナチス親衛隊に名前を連ねると言うことは異例の事態である。いくらなんでも親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーがストレートに納得したとは思えない。

 ナチス親衛隊に対しては多少穿った見解をするものの、曇った視界が真実を見誤らせることをわかっているオスターはごく冷静に状況を分析していた。

 マリーの問題については取るに足りない事柄だと思っていたこともあり、オスターの持つ彼女に対する情報は少々不足している。親衛隊の情報をかぎ回らなければならないことは面白くなかったが、それでも今後の「活動」のためにそれらの情報は必要になってくるかも知れない。

 制帽をかぶったオスターはそうしてティルピッツ・ウーファーにある国防軍情報部のオフィスを出た。

「どこへ行くのかね?」

「プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセへ足を伸ばそうかと」

 オフィスを出ようとしたオスターに、カナリスが問いかけた。

「そうか、フロイラインによろしく伝えておいてくれるかな?」

承知いたしました(ヤヴォール)

 踵を鳴らして敬礼をしたハンス・オスターに、ヴィルヘルム・カナリスは穏やかに笑うと、軽く手を振ってから低い声を吐きだした。

「それとシェレンベルク大佐に会ったら、そのうち我が家に茶でも飲みにこいとでも言っておいてくれ」

 そう言い置いて、カナリスは自分の執務室へと引っ込んでしまった。

 シェレンベルクとカナリスが親しい間柄であることを知っているオスターは軽く肩をすくめてから帽子を直す。

 若い士官の間では制帽を斜めにかぶるのが流行っているようだが、ハンス・オスターはそんな流行に乗るような若い世代でもない。

 そうしてプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセを訪れることになったオスターは、少女が確かに国家保安本部に在籍していることを知って少なからぬ落胆を感じた。

 まさか本当に子供のような彼女がナチス親衛隊などに所属しているとは。

「ⅥGの部長殿でしたら、中庭にいると思われます」

 生真面目にナチス式の敬礼をした国家秘密警察(ゲシュタポ)の捜査官に鬱陶しげな眼差しを向けてから、ハンス・オスターはオフィスの中庭へと足を進める。ややしてからベテランの情報将校は中庭に置かれたベンチから白いストラップシューズをはいた足が生えているのを認めてわずかに目を細める。

 ⅥG――国家保安本部(RSHA)国外諜報局特別保安諜報部。その部長におさまったという年若い少女。

 寝ているのかと思ってベンチを覗き込むと、マリーはベンチにうつぶせに転がったままで国家保安本部中央記録所のファイルを見つめていた。

 紺色のセーラーカラーのワンピースと、白いストラップシューズの少女は人の気配を感じて顔を上げた。

「……オスター大佐オーバースト・オスター

 大きな瞳を見開いた少女は、手の中の書類から顔を上げてじっと老練な情報将校を見つめると、行儀悪く折っていた膝をおろして、ベンチに肘をつくと体を起こした。

 これが年頃の娘であれば魅力もあったろうが、痩せすぎの少女では魅力もへったくれもあったものではない。

ハイドリヒ親衛隊少佐シュトゥルムバンヒューラー・ハイドリヒ、だそうだな」

 皮肉混じりのオスターの言葉に、しかし少女は気分を害した様子もなくニコニコと笑うと、ベンチに座り直して自分の隣を軽く手のひらでたたいた。

「どうぞ」

ありがとう(ダンケ)

 一応、オスターは大佐(オーバースト)であり、親衛隊少佐シュトゥルムバンヒューラーのマリーよりは階級が上にあたるのだが、命令系統としての権限を彼が持っているわけでもなかったから、マリーの反応に眉をひそめるがそれだけだ。

「随分と暢気なお嬢さんだ」

 しかしスカートでそんな恰好をするのはあまり関心せんな。

 そう続けたハンス・オスターに、マリーはわずかに頬を赤くした。

「……ごめんなさい」

 単に上下関係に対して剛胆なところがあるのか、それとも単純に無知なだけなのか、いまひとつわかりかねる反応を返す彼女の物言いは、まるで一般庶民の少女と変わらなくも見える。

「まぁ、気持ちに余裕があるのは悪いことではない。余裕がなくなると大概ろくな結果にならんからな」

 言いながらオスターは制服のポケットからタバコを取り出しかけて、彼は自分の隣に座っているのが十代の少女であることを思い出したらしい。

 オスターの手がタバコに伸びているのを認めてマリーは優しげに微笑して、中央記録所のファイルを閉じる。

「灰皿はないですけど……」

「君が持っていたらそちらのほうが問題だな」

 やれやれと告げると、マリーは膝の上にファイルを乗せてからオスターを見上げた。

「カナリス提督の補佐官の方が、国家保安本部(RSHA)にどんなご用件ですか?」

「君と国防軍司令部(OKW)で話しをしてからしばらくたつからね、親衛隊情報部に配置になったというからついでに様子を見に来たんだが」

「そうだったんですか」

 ご迷惑をおかけします。

 そう言って笑っている彼女はとても親衛隊の情報将校には見えなかったが、それでも腕章にはSDであることを示す菱形の袖章が縫い付けられている。

「本当に君はSDになったんだな」

 強い力で少女の上腕を掴むと、彼女は痛みを感じて悲鳴を上げた。

「……はい」

 少女の青い瞳は、ラインハルト・ハイドリヒを嫌悪していたハンス・オスターには既視感を感じさせられる。捏造した経歴はハイドリヒ家に連なる者であることを示すが、そんなものをオスターは信じていない。

「そういえば、ミュンヘン大の学生運動に接触を持ったと聞いたが、なにを考えている?」

「お耳が早いんですね」

「そりゃ、ベスト中将グルッペンヒューラー・ベストを伴ってわざわざミュンヘンまで出向いたと聞いているからな。知らない方がおかしいだろう」

「……それもそうですね」

 口元に片手をあててクスクスと笑い出した彼女の手の下にあるファイルが気になりもするが、それには触れない。おそらく聞いたところで答えが聞けると思っていなかったからだ。

「それで君はこんなところで仕事かい?」

「はい、お天気が良かったので」

 確かに天気は良いが、いくら国家保安本部の中庭とは言えこんなところで極秘書類を読むというのも問題があるのではないだろうか。

「確かに天気は良いが、こんなところで誰かに見られたらどうするつもりだね?」

「そんな人いませんから大丈夫ですよ」

「……そうとは言い切れんだろう」

 告げられてマリーは小首を傾げるとオスターを見上げた。

「そうですか?」

 人を信じているのだろうか。それとも考えが浅いのかどちらかだろう。少女の返答にオスターが絶句したまま閉口すると、マリーは中庭に通じる入り口にフィールドグレーの制服を身につけた青年を見つけて立ち上がった。

「やはりここでしたか」

 親衛隊情報部に所属する秘密工作員であり、つい最近まで武装親衛隊「アドルフ・ヒトラー親衛隊」に属して東部戦線で戦っていたアルフレート・ナウヨックスだ。彼の活躍した秘密工作はポーランド侵攻の口実となったグライヴィッツ襲撃作戦や、フェンロー作戦などが有名だ。

 ドイツ第三帝国において腕利きの秘密工作員のひとりである。

「あれほど中央記録所のファイルを外に持ち出さないようにと、シュトレッケンバッハ中将閣下がおっしゃっていたじゃありませんか」

「……だって」

 口ごもるようにナウヨックスに抵抗する少女は、ぷくりと頬を膨らませて唇を尖らせるが、その瞳はひどく穏やかでとても怒っているようには見えなかった。

「天気が良かったから、じゃ、シュトレッケンバッハ中将閣下は納得してくれませんよ、少佐殿。ばれないうちに執務室へ戻りませんと」

 小言のようにも聞こえるがそうではないことを、ハンス・オスターは看破する。おそらくこの関係こそがふたりの平常の関係なのだろう。

 そこまで言ってから、アルフレート・ナウヨックスはハンス・オスターに視線をやった。気がついていなかったわけではないが、とりあえずマリーへの小言を優先したらしい。

ヒトラー万歳(ハイル・ヒトラー)

 ナウヨックスのその言葉に、オスターは眉間を寄せるが結局それにたいして言葉を吐き出すことはせず、陸軍式の敬礼を返して立ち上がる。

「フロイライン、シェレンベルク大佐に伝えてほしい」

「はい」

「カナリス提督が、そのうち訪ねてほしいとのことだ」

「わかりました」

 そう応じてオスターに会釈した彼女は、屈託もない瞳のままで軽く手を振って見せた。軍隊の敬礼も、ナチス式の敬礼もしない彼女に思わず手を振り返したオスターは、ナウヨックスに連れられて背中を向けたマリーに数秒してからぎょっとしたように我に返った。

 マリーに引きずられていたこと。

 少女に対してオスターは手を振り返していた。

オスター大佐オーバースト・オスター……!」

 ふと声に我に返る。

 自分の手のひらを見つめていたオスターは、少女の声に顔を上げれば駆け寄ってくるマリーの姿を認める。

 その背後でナウヨックスがなにやら焦った表情をしていたが、そんなものは気にならなかった。ただ、咄嗟に自分の腕の中に飛び込んできた小鳥のような少女を抱き留めただけだ。

「オスター大佐、またね」

 無邪気な少女に無意識に表情を綻ばせたオスターは、彼女の体を軽く抱きしめる。

「そうだな、時間があればまた」

 ハグを返したマリーはそうして、ナウヨックスの元に戻ると今度こそ本格的にオスターの前を立ち去っていった。

 急に走らないでください、また転んだらどうするつもりなんですか。そんなナウヨックスの言葉が聞こえたが、オスターは護衛官らしい秘密工作員の男の声を聞きながら踵を返すと息を吐き出した。

 ――またね、オスター大佐。

 ひらひらと手を振っていた笑顔のマリーがかわいらしいと思ってしまったのは、自分が年齢を重ねたせいなのだろうか。誰だって無邪気に笑っている見目麗しい少女を見ていていやになったりしないだろう。

 好ましいと思ったのはその手の感情だ。目元をゆるませた彼はそうしてプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセを後にした。

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