13 命の閃光
マリーは自分の未熟さをよく知っている。
子供の頃から幾度となく、死んだはずの男の意識を繰り返してきたからだ。
自分の未熟さも、無力さも。
彼女はよく知っていた。
人というものは不便なもので、どれほど個人に力があったとしてもそれ単体では役に立たない。
群れを作る動物の習性だろう。
「過去の自分」の失敗を踏まえて「彼」は切り捨てたのだ。それまでに自分が積み上げてきたものの中で不要なものを。「彼」がやり残したことを全うするために、不要であると判断された欲動の全てを。
そうしてマリーがそこにいる。
完成した魂。
純粋で無垢な、なによりも無邪気な死の天使。
失敗を繰り返さないために、同じであってはならない。「彼」の魂はそのために経験を生かして昇華してきた。そうしなければたどり着けない高みであるならば、人間としての欲望などにしがみついても詮無きことだ。
「いらないものは捨ててしまえばいいの」
まるで独白するような彼女の言葉。
それは想像以上に多くのものを内包しているようで、隣に座るシェレンベルクは首を傾げた。
不要なもの――。
その言葉はいったいなにを指しているのだろう。
不必要なものにしがみつこうとするのは確かにみっともないことだが、彼女の言葉ははたして何を言っているのか。
「……ねぇ、シェレンベルク?」
送迎用の公用車の後部座席。
その車内で少女が青年を呼ぶ。
「わたしもアインザッツグルッペンがなにをしているのか、見にいったほうがいいのかしら?」
問いかけた少女の言葉にシェレンベルクが驚いた。
彼も現場を見たことはないが、どちらにしたところで見ていて気持ちの良い現場ではないことは理解している。
なによりも十中八九、アルトゥール・ネーベやブルーノ・シュトレッケンバッハ、オットー・オーレンドルフ辺りの行動部隊指揮官経験者が反対するだろうと思われる。
多くのアインザッツグルッペンの経験者が酒の力を借りなければ遂行することすら困難だった任務の現場を、彼はちらりと想像した。
「子供の見るようなものじゃない」
シェレンベルクが言うと、無防備に彼に寄りかかった少女はそっと体から力を抜いた。
「……子供じゃないもの」
子供ではない。
マリーの魂は、知らないうちに幾度となく短い人生を繰り返していた。
「子供だ」
マリーの言葉に即答で否定したシェレンベルクは自分に寄りかかる少女を見下ろすと息を吐く。
「わからないのよ……」
自分という存在が。
マリーはそう言って目を閉じた。
――わからなくなるのよ。
力の抜けた少女の体を自分にもたれかけさえたまま、シェレンベルクはフロントガラスの向こうに過ぎていく景色を眺めながら思いに沈む。
マリーの言葉はどこからどこまでが本心であるのか。時にシェレンベルクですら見分けが付かなくなることがままあった。
ラインハルト・ハイドリヒ――金髪の野獣と恐れられた男の魂を受け継ぐ者。生まれ変わりなどと言う妄言も、オカルトめいた迷信もシェレンベルクは信じていない。
なによりも、ラインハルト・ハイドリヒとマリー・ロセターでは全く別個のパーソナリティを持っていると言ってもいいだろう。時折、シェレンベルクもぎょっとさせられるような発言をすることもあるが、とてもハイドリヒの「生まれ変わり」であるなどとは思えない。
死んだハイドリヒはハイドリヒであり、今、シェレンベルクの横にいる少女はマリーでしかないのだから。
そして、彼の推測では、マリー自身が自分の知識に振り回されている感がある。少なくともラインハルト・ハイドリヒはそんなことはあり得なかった。
知っていることと、知らないこと。
覚えていることと、忘れていること。
その間でマリーという存在が揺れている。
シェレンベルクの目にはそう映った。
翌日、マリーは私服姿のヴェルナー・ベストと共にミュンヘンを訪れたのは昼も過ぎた頃だ。
スーツのジャケットを腕に掛けて、シルクハットにステッキ。白いシャツは腕まくりをしており、きっちりと着こなしたベストとネクタイが清潔な印象を与えていた。
そんな彼と腕を組んで歩いている少女の歩調に合わせてやりながら、ベストはやれやれと溜め息をついた。
マリーの正気とも思えない提案に、国家保安本部長官代理を務めるブルーノ・シュトレッケンバッハ親衛隊中将と、親衛隊全国指導者個人幕僚部長官のカール・ヴォルフ親衛隊中将が真っ先に大反対をしたのだが、彼らが反論する以前に、当の親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーがマリーのそれを「是」としてしまったのだから、反論のしようがなくなってしまった。
「……しかし、つくづく狂気の沙汰だ」
ぼやくように言ったベストは再び溜め息をついてから、自分の腕に華奢な腕を絡めている少女の頭を見下ろした。
一見しただけではまるで仲の良い親子のように見えないこともない。
「国家保安本部の主導で国家転覆の謀をしているとでも勘ぐられたらどうするつもりだ」
どこか小言めいた響きになるヴェルナー・ベストの言葉に、少女は細い腕でベストの腕にしがみつくと閉じたままの白い日傘をくるりと回す。
「ベスト中将はとても心配性ね」
元裁判官の男は私服ではとても親衛隊将校には見えず、少女のほうも腕章も、略綬も鷲章もつけていないためやはり親衛隊に所属しているようには見えなかった。
品の良い紳士と、露出を控えた品の良いワンピースとボレロを羽織った少女は人目を引くがそれだけだった。
道行く人々はまさか彼らが国家保安本部に属する保安情報部の人間とは思えなかっただろう。
クスクスと笑っているマリーとは対照的に、ヴェルナー・ベストがそれでも不安を拭いきれないのは、なによりも彼が国家保安本部の、ひいてはナチス党のやり方をよく知っているせいだ。
血と暴力の粛正を彼自身が行使してきたのである。
「君は、本当に自分がなにをしようとしているのかわかっているのか?」
ドイツ人ならば、ナチス党のやり方を知らないはずはない。しかし、マリーは決して恐れることをしない。
まるで血の制裁を知らないとでも言うかのようだ。
「……わかっています」
わかっている。
「わたしの魂はドイツで生まれて、ドイツに還る。わたしは自分がドイツ人であるかどうかなんて考えた事もないけれど、それでもわたしはドイツの土に還るんですから」
まるで歌うように呟いた彼女の手から、日傘を取りあげたベストはマリーの腕をとったままで歩きだした。
「そうか」
これから彼らが接触する人物は、現在のドイツの体制下にあっていわゆる反体制分子にあたる。マリーがなにを考えて彼らと接触することを決めたのか、ベストにはさっぱり理解できなかった。
ミュンヘンのゲシュタポの管轄下にある拘置所を訪れたふたりは、当然のように不審げな眼差しを向けられたが、国家保安本部から連絡が届いていたふたりの幹部将校ということですぐに丁寧な対応がとられることになった。
平服の紳士が国家保安本部に所属する親衛隊中将であり、片やの少女は親衛隊少佐だ。どちらも親衛隊将校としての服装ではない。
本来、任務で訪れているわけだから所属を明確にする義務があるのだが、なにぶんマリーの立場がデリケートなため、ヒムラーの命令によって平服での訪問と言うことになったのだった。
「すでに面会の準備は整っております」
ヒトラー万歳、と敬礼をしたゲシュタポの捜査官にベストは応じるように軽く手を挙げる。一方のマリーはと言うと、じろじろとゲシュタポの下士官を見つめてからベストの腕にしがみついたまま視線をおろす。
そんな上官の様子を横目にしながら、ベストは面会の準備を手際よく進めた。部長が親衛隊少佐で、首席補佐官が親衛隊中将というなんとも逆転した立場だったがベストはわざわざ親衛隊の下士官などに懇切丁寧に説明したりはしない。
そんなことを下士官などに説明する必要などないのだ。
コンクリートの壁の取調室に通されたマリーとベストは、拘留中の中年の男が椅子に座らされているのを認めてから、互いに視線を交わす。
「ローベルト・ショルで間違いないな」
ベストが低く告げると、男はぐったりとした目を上げてから息をつく。
「安心しろ、盗聴マイクは切ってある」
静かな言葉に男――ローベルト・ショルはゆらりと顔を上げてヴェルナー・ベストを見つめてから、彼の背中に守られるようにして立つ少女を見つめた。
「我々は国家保安本部、国外諜報局特別保安諜報部の者だ」
我々、というベストの言葉にローベルト・ショルと呼ばれた男は反応した。取調室にはローベルト・ショル、そしてシルクハットの紳士と、その背後の少女しかいない。
金色の長い髪の印象的な少女は、青い瞳に光を閃かせながら男を見つめていた。
「死刑判決にでもしにきたのか……」
力なくつぶやいた彼は諦めたように顔を伏せて歯を食いしばった。ゲシュタポの拷問と暴力に彼は晒され続けていた。もしかしたら「拘留中」に死ぬかもしれない。そうした諦めも頭の片隅によぎった。
「我々をそんな下衆な輩と一緒にしないでもらいたいものだ」
言いながら、ショルの前にある椅子をひいたベストは先にマリーを座らせて自分はその後ろに控えるように仁王立ちになる。
手錠をかけられたローベルト・ショルはどちらにしろ動くことなどできはしない。
「はじめまして、わたしは国家保安本部、国外諜報局特別保安諜報部長、マリア・ハイドリヒ親衛隊少佐です」
単に彼女の癖なのだろう。
柔らかな響きを持つ声は決して高圧的ではなく、相手に対する尊重を崩さない。
名乗ったマリーはあからさまに不審をたたえた男を見つめ返してからいつもの如くニコニコと笑っていた。
「彼は首席補佐官のヴェルナー・ベスト親衛隊中将」
「……――」
「答えたくなければ、答えなくて結構です。これから通達することに対してあなたに拒否権はありません。あなたのお子さんのことです」
声色の変化も見せずに言い切った彼女は、ベストから手渡されたファイルをめくってから囚われの男を凝視した。
「我々の通達に対して、”あなたがた”がどうされるか。それ次第で、あなたがたの一家に対する処遇が決まります。おとなしく従っていた方が身のためです」
一家。
その言葉にショルは思わず腰を浮かしかける。その瞬間、ヴェルナー・ベストが一喝した。
「……座りたまえ!」
彼女の告げた言葉の内容をローベルト・ショルは正確に理解する。少女の告げた「一家」とは言葉通り「一家族」という意味ではない。
この場合、親戚を含めた「一族郎党」を指しているのだ。
「あなたのご家族であるソフィア・マグダレーナと、ハンスに特別保安諜報部への勤務を命じます」
「……なっ」
マリーの言葉に、ローベルト・ショルが呆然として顔色を変える。
確かに、ショル家は親ナチス的とは言い難い思想を持っている。それはローベルト・ショルの子供であるハンスとソフィアも同じだ。
そのふたりの息子と娘に対して、目の前の親衛隊将校のふたりは国家保安本部への勤務を命じたのだ。彼にはふたりの親衛隊将校がなにを企んでいるのか理解できない。
もっともマリーの考えが理解できないのはベストも同じだ。
「なにを企んでいるのかって顔ですね」
ローベルト・ショルにほほえみかけながら、マリーは優しげに告げると口元に手をあててころころと笑って見せた。
へたなことを言えば命がない。
それをわかっているローベルト・ショルは迂闊な発言ができずに言葉に迷った。マリーの言葉になんと返せば良いのかわからないのだ。
平服の紳士と、品の良いワンピースの少女が確かに国家保安本部に所属する情報将校であるならば、軽率な発言は命に関わる。
「そうですね、不穏分子に紐でもつけておくのが最良だとでも言っておきましょうか」
マリーはそう言った。
確かに、ベストにしてみれば反体制分子に紐をつけて監視するのは正しいことであるのだが、おそらく彼女の目的はそんなところにありはしないだろう。
「……ナチの、犬になれと言うのか」
「どうとっていただいてもかまいません」
言葉使いそのものは柔らかいが言っている内容には容赦がない。ベストはマリーの二面性を見たような気がしてわずかに片目を細めたがそれだけだ。
「あなたがたに拒否権はありません。二週間以内に準備を整え、ふたりをベルリンのプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに出頭させてください。あなたは一度拘留をとかれますが、ふたりが出頭しない場合、お宅にゲシュタポが伺うことになるかと思いますので、ご注意を。ふたりが出頭した場合、あなたは晴れて無罪放免となるでしょう」
死刑宣告のようなマリーの言葉に、ローベルト・ショルはおののいた。
ニコニコと春の日差しにも思える笑顔で告げられた言葉は、ゲシュタポの尋問官の怒鳴り声よりも恐ろしい内容を含んでいた。
まるで、息子と娘を人質として差しだせとでも言われているようだ。
そうして囚人の前を立ち去ったマリーは、ベストに差しだされた腕に自分の腕を絡めて華奢な体を押しつけた。
拘置所を出ながら、ふとヴェルナー・ベストが問いかける。
「国家保安本部の秘密をばらしたらどうするつもりだ?」
そうなったら死の制裁を与えるまでだが、不穏分子を局内に取り込むことには賛成できない。
「ですが、彼らは役に立ちます」
なにがどう役に立つのかと、マリーは言わない。そんな少女の体を片手で支えてやりながらベストが考え込んでいると少女らしい甘い香りを漂わせるマリーは顔を上げて首席補佐官を見上げながらこう言った。
「政治的なイデオロギーなど、わたしには興味はありません。わたしが望んでいるのは、彼らがわたしの指揮下に存在していることによって生まれる影響力です」
言い方によっては冷たく聞こえるかも知れないマリーの言葉選びに、ヴェルナー・ベストは思わず自分を見上げてくる少女を見やると、彼女は相変わらずな穏やかな表情のままだった。
このとき、初めてベストは自分の上官となった少女がなにやら奇怪な形をしたモンスターではないのかと思うようになる。
「……君は」
言いかけてヴェルナー・ベストは言葉を失った。




