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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
V トールハンマー
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12 青嵐の先

 マリーの真意。

 それは大凡(おおよそ)推し量ることなどできはしない。

 たとえそれが法学の権威であるふたりの補佐官――ヴェルナー・ベスト、ハインツ・ヨスト両博士であったとしても。

 彼女がなにを考え、どうしてそういった決定を下すのか。

 大日本帝国に赴任しており、まだドイツに到着していないヨーゼフ・マイジンガーにしてもそうだ。

 まともな神経をしていれば、あのような不快な男を自分の部下に引き入れたいなどとは思わないだろう。

 ベストはマイジンガーのことを、残忍な方法を好む原始人、だと思っていた。元裁判官であり、知識人(インテリ)筆頭のヴェルナー・ベストにしてみればごく当たり前の評価である。

 マイジンガーはポーランド戦の際に、アインザッツグルッペンの指揮官代理を務め、その作戦中の狂ったような殺戮によって「ワルシャワの殺人鬼」とまで呼ばれている。

「奴は不快な男だ」

「そうですね」

 ベストの言葉に頷いた彼女は、深く椅子の背にもたれたままで、華奢な体から力を抜いている。

「ベスト中将、心配しないで。大丈夫ですから」

 にこりと笑ったマリーはそうして何事か考え込むように椅子をくるりと回して窓の方向へと向けると目を閉じた。

 傍目には眠っているのではないかと思われるほど静かで穏やかなその様子は、けれども時折かすかに瞼を開いていたから眠っているわけではないのだとベストは理解した。

「どうかしたのかね?」

「……いえ」

 ヴェルナー・ベストの問いかけにマリーは目を上げると、数秒の沈黙の後に応じながらかぶりを振った。

「わたしは君の部下であるから、君の決定に異存はないが、考えるだに正気の沙汰とは思えんな」

 告げられたベストの言葉にマリーが肩をすくめて見せた。

「心配してるんですか?」

「それなりにな」

 ハインリヒ・ヒムラーはユダヤ人に対して絶対的な敵意を抱いているが、その部下たち――国家保安本部(RSHA)に所属する情報将校や警察官たちは決してそうではなかった。簡単に言うのならば仕事だから取り締まるだけだ。

 自分の身に危険が及ばなければそれで良い。

 数多(あまた)の官僚たちがそうであるように、治安維持関係者たちにとっても政権の変動など大した問題ではない。自分たちがやることは常に決まっている。

 時折その政権によって対象者が変わるだけのことにすぎなかった。

 少女の横顔を見つめながらベストは考える。

 ユダヤ人の東方移送、あるいはその最終的な解決をヒムラーは望んでいるが、本当に彼はそんなことを望んでいるのだろうか。

 最終的な解決をするということは言葉で言うほど簡単なことではない。

 ほんのわずかでも残せばそれは禍根となって残るだろうし、世界とはヨーロッパだけではない。

 仮にヨーロッパからユダヤ人がいなくなったとしても、世界は広くそこに逃れたユダヤ人たちが抗議の声を上げるだろうことは考えられる。そもそも、ドイツ第三帝国の同盟国であるユーラシア大陸の東の果てにある大日本帝国はすでに一九三八年の五相会議(ごしょうかいぎ)において、ドイツの反ユダヤ政策には関与しないことを通達している。

 つまり、どうあがいても禍根は残りうるということだ。

 このままの方向の政策が進めば必ず、ドイツ第三帝国は世界的に孤立するだろう。

「禍根は残してはいけない。だけれども、すでに機を逃しているわ。ならば、どうやって世界中を納得させるか。それを考えるべきかもしれないわね」

 口元に手をあてたマリーがぽつりと呟くと、ベストとヨストが同様に少女に視線を向けた。

「……時間は限られているわ」

 マリーは口の中で独白すると、長い金色の髪をかき上げる。

 空を映した瞳は青い宝石のように煌めいているが、そんな眼差しを放つ彼女はいったいなにを考えているのだろう。

「君はなにを知っていて、なにをしようとしているんだね?」

「……そのうちわかります」

 国家保安本部(RSHA)に所属する多くの者たちは、必ずしも政治的イデオロギーがあるというわけではない。

 むしろそういったイデオロギーからは遠いといってもいいだろう。

 かつての国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒだけではなく、シェレンベルクやアイヒマン然り。

 ハインリヒ・ミュラーも任務に忠実な警察官僚ではあるが、ナチス党(NSDAP)の政治的思想に興味があるわけではない。

 悪い言い方をすれば権力に尻尾を振っているだけだ。

 もしくは、シェレンベルクやハイドリヒのように自分の限界を追及しているだけといった人間もまた存在する。

「中将は、国家保安本部の皆さんが嫌いなんですか?」

 ふとマリーがヴェルナー・ベストに言葉を振った。思考の淵に沈み込んでいたベストは、少女のその声に驚いた様子で顔を上げる。

「どうだろうな」

 盗聴器を警戒したベストが曖昧模糊(あいまいもこ)とした言葉で切り返すと、マリーが口元だけで静かにほほえんだ。

 かつて国家保安本部の人事局長を務めたベストは、インテリ嫌いのハイドリヒやゲシュタポ・ミュラーとやがて対立するようになっていった。ハイドリヒとは忌憚(きたん)のない意見を言い合うことができる友人だとすら思っていたというのに。

 口元を手のひらで覆ったベストは表情を取り繕うようにして目を伏せると、マリーがぎしりと椅子を小さく軋ませた。

「ベスト中将はなにを怖がっているんです?」

 彼女の物言いにはいつも不思議なものを感じさせられる。

 なによりも不可解だと思うのは、その瞳だ。

 青い瞳は、ベストが知っていたかつての彼と同じ色。けれども、ラインハルト・ハイドリヒよりももっと奇怪な形に歪んでいるものであるように感じられた。

 なぜそんなことを思ったのかと聞かれても、ベストにはおそらく答えられはしないだろう。

「……君は、行動部隊アインザッツグルッペンについて、どう思う?」

 強引に話題を切り替えた首席補佐官に、少女はひっそりと笑うと長い金髪の毛先を指先に巻き付けながら枝毛でも探すような仕草を見せた。

「中将が国家保安本部第一局の局長を務めていらしたとき、ポーランド戦で真価の発揮はされていませんよね」

 何が言いたいのかいまひとつわからないマリーの言葉の先をヴェルナー・ベストは待った。

「わたしは軍人ではない」

「そう」

 頷いた彼女はちろりと視線を上げて横に立って窓の外を見つめている元裁判官を見上げると、やがて視線を同じように窓の外に放ってから喉の奥で笑った。

「中将は軍人ではない。そしてわたしも」

 途切れ途切れの彼女の言葉はまるで絶妙なタイミングをはかっているようにも感じられる。それがなにやら不気味で、ベストはただ黙り込んだ。

「かつてのラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将は、大学出のインテリに”行動すること”を求めました。正直、わたしがそんなことをしろと言われても無理なことはわかっています」

 何が言いたいのかわからない。

 淡々と言葉を綴るマリーは、睫毛を揺らしてから顔を上げた。

 じっとベストを見つめる。

「……だろうな」

 体格からどう見ても軍人と同じような任務をこなすことを想像しようもない少女。

 彼女に軍事行動についていくことなど到底できはしない。

 無辜(むこ)の人々を殺害すること。かつて、ベストが国家保安本部に所属し、アインザッツグルッペンの行動を目の当たりにして、彼はそれを黙認した。

 黙認せざるをえなかった。

 それ以外の選択など、中間管理職のベストにはなかったと言ってもいいだろう。

「もっとも、君は真価の発揮など求められないだろうが」

 彼女は少女だ。

 しかも高等教育を受けていない。

 ならば、真価の発揮など求められたりしないだろう。

 アインザッツグルッペンをどう思うか、というベストの問いかけにマリーは肯定もしなければ否定もしない。それは今の大ドイツにあって最も頭の良いやり方だった。

 不要な発言は自分自身の破滅を招き寄せる。

「ドイツによる支配を確実なものにするためには、ある程度の恐怖も必要なことと思います。わたしはそれを否定しません」

「……殺されるかもしれないのに?」

 ベストのその言葉に、マリーがはっとしたように顔を上げた。

 ――この表情だ。

 どこか不安定な印象すら受ける彼女は、時折こういった感情の揺れを見せる。

「すまない」

 なぜか罪悪感に駆られてベストが言うと、マリーはややしてからうつむいて顔を横に振った。

「……いえ」

 ごくわずかな時間、恐怖とも驚きともとれる表情をたたえた彼女は、すでに普段と変わらない表情に戻っていた。

 彼女のその表情の一瞬の変化は、いったいなにを表現していたのだろうか。

「なんでもありません」



 その頃、ベルンではアレン・ダレスを中心としたアメリカ戦略情報局が情報の分析にかかっていた。

 早急にチームを招集し、ドイツ内外で起こっているだろう情報のリストアップをする。さらにそれを時系列順に並べ、構成してほころびの中心を見つけ出すのだ。

 それは簡単なことではなかった。

 発生した事象を並べ、眺めるだけならば誰でもできる。

 問題はその中に秘められた真実をいかに見つけ出すかということだった。

 ドイツにとってアメリカの存在が邪魔であることは、アレン・ダレスには最初からわかりきっている。それが、ほんの数ヶ月ほど前から、唐突に彼らの予測を大きく外れだしてきたのだ。

 おかしなことだった。

 誰かの意志が働いているのか。

 そしてその誰かの意志とは、どこから来ているのか。

 不気味な事象の連続にダレスは不快勘を隠せない。

 アメリカ合衆国の極秘の情報では、未だにソビエト連邦との同盟は継続中であるという。ならば、自分たちが全く予想していなかったことが起こりつつあると考えていいだろう。

 イギリスに亡命政府を設置しているチェコスロバキア政府によって、ベーメン・メーレン保護領の副総督にして、ドイツ警察機構のトップに立つナチス党員ラインハルト・ハイドリヒが殺害された。

 それは明白な事実だった。

 しかし、その直後に流れ出した奇妙な噂。

「殺されたのはラインハルト・ハイドリヒの影武者ではないか」

 恐怖の代名詞とも言えるラインハルト・ハイドリヒ。金髪の野獣と彼を呼んだのはその部下たちだ。

 そんな国内の人間からも「野獣」と恐れられ、外国政府からも危険視されるほどの男が生きている。その噂はドイツの敵である国にとって確かに恐怖そのもので、その情報の真偽は突き止めなければならない。

 ハイドリヒが生きているにしろ、死んでいるにしろ、この急激な事態の変化にはなんらかの原因となるものが存在している。

 ベテランの工作官としての鋭い嗅覚が、アレン・ダレスにぬめるような不気味な危険を察知させていた。

 誰かの意志――。

 それはいったい誰の意志なのか。

 イギリスのチャーチルか、ソビエト連邦のスターリンか、それとも反スターリン派の政治指導者として祭り上げられたニキータ・フルシチョフのそれか。ドイツのヒトラーなのか。

 煙るような深い霧が彼の視界を妨げていた。

「ドイツの国家保安本部で大規模な権力争いが始まったのは確かなようです」

 そう報告を受けてダレスは「ふむ」とうなると、視線をやって言葉の先を促した。

「国家保安本部の長官、ラインハルト・ハイドリヒが死んでから、ヒトラーの腰巾着のヒムラーが自分の権力拡大に乗り出したようですが、今のところそれ以上はまだ……」

 ハイドリヒが死に、そのためにチェコスロバキア領内で報復攻撃がナチス親衛隊の手によって一斉に行われたこと。多くの人間が殺害され、迫害を受け、さらに強制収容所に移送されたと聞く。

 ダレスの情報網も節穴ではない。

 今、ドイツとその占領地区でなにが起こっているのかは把握しているつもりだった。けれどなにかが彼の指の間からすり抜けている。水が手のひらからこぼれていくような感触に、ダレスはぶるりと身震いをした。

 予想もしなかったようなことが起ころうとしている。それが恐ろしくて、アレン・ダレスは無意識に首の後ろを手のひらで撫でた。

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