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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
V トールハンマー
48/410

11 Reichsführer-SS

 ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ。

 かつてのナチス親衛隊の実質的なナンバーツーであり、実力者である。その権力は一説にはハインリヒ・ヒムラーすらも凌ぐのではないかと囁かれていた。

 ハイドリヒ亡き後、親衛隊及び国家保安本部の権力争いは熾烈を極めていたのだが、それらは思いも寄らぬ人物の存在で困惑と共にゆるめられることになる。

 その存在がマリア・ハイドリヒ。

 ラインハルト・ハイドリヒの遠縁の娘で、ごく幼い頃に死んだものと思われていた。その彼女が、異例の早さで国家保安本部の中枢に接近しつつあったが、それを親衛隊全国指導者であるヒムラーですら止めることはできはしなかった。

 いつからか、ヒムラーは彼女を恐れるようにすらなっていたのである。

 そんな彼女――愛称マリー――は、自分の身が危険であるという自覚があるのか、それともないのか。周りの人間たちの危惧はともかくとして、本人は至って伸び伸びと振る舞っている。それは単に護衛官たちを信頼しての立ち居振る舞いなのか、それとも頓着しないだけであるのかどちらなのだろうか。

 彼女は国家保安本部内にいるときの半分以上の時間は、補佐官のどちらかを伴って各局長たちや部長の間を歩き回って何かしらの情報収集にあたっているようだった。

 もちろん天下の国家保安本部内を年若い少女が歩き回っていることに対して良い顔をしない親衛隊将校や下士官たちも存在するが。これについては各局長を筆頭に高官達がほぼ黙認状態であったため、納得がいかない者は陰口こそたたきこそすれ、公然と文句を言うことなどできるわけもない。

 なによりも、時折プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセを訪れる親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーがマリア・ハイドリヒの存在を容認しているとなれば、異議の唱えようなどどうしてできるだろう。

 この日もそうだった。

 ハインリヒ・ヒムラーに呼び出されたマリーはいつものように軽い足取りでその執務室へ入っていった。

 スキップでもしそうな勢いだが、マリーがうっかりスキップなどしたが最後、蹴躓いて転倒する未来しか思いつかなくて、アルフレート・ナウヨックスは上官の少女に対しては口酸っぱく注意を促すのだった。

「いいですか? 少佐殿は運動神経が人並み以下なんですから、決して軽率な行動をしてはいけませんよ」

 よく聞かなくても上官に対する物言いではなかったから、それを耳にしたヴェルナー・ベストが良い顔をしなかったが、マリー本人は気分を害した様子もなく、ナウヨックスにクスクスと笑う。

「わかっているわ、大丈夫よ」

 そうは言ったところで、ひとりで出歩いて大丈夫、とプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセを出ようとしてテロリズムに遭遇し、アルトゥール・ネーベに縋り付いて大泣きしたのはどこの誰か。

 再び彼女が危険な目にあうのではないかと思うと、正直ナウヨックスは気が気ではなかった。なにせ、彼女が危険な目にあえば、護衛官も兼ねている彼の責任が問われることになる。

 気にかかって当たり前だ。

 ヒムラーに呼び出されたマリーは一体なにを話しているのだろう。執務室の扉を振り返ってナウヨックスは片目をすがめる。

 「子供好き」のハインリヒ・ヒムラーだが、彼女が十代の少女であるから特別扱いしているというわけでもないのだろう。生粋の秘密工作員であるアルフレート・ナウヨックスはヒムラーの瞳になにか得体の知れない恐れのような感情を見て取っていた。

 親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーはいったいたった十六歳の小娘のなにを恐れているのだろう。

 彼女がそれほどまで巨大な秘密を握っているとでも言うのだろうか。それも、一介の秘密工作員のナウヨックス程度には知る事のできないほどの巨大な秘密を。

 かつて彼の上官であったラインハルト・ハイドリヒと同じ仕草を見せる少女。

 彼女が何者であるのか。

 それをアルフレート・ナウヨックスは知らない。しかしそんなことは意味があることではないとすら思わせる。

 ヒムラーが国家保安本部を訪れる度に顔色が悪いが、マリーと話した後は大概さらに青白くなって執務室を出てくる。そんな光景を、国家保安本部(RSHA)の高官たちは見慣れてしまった。

 小一時間ほど、ヒムラーとマリーだけでなにやら話し合いが持たれたようだが、その間、盗聴器のマイクはヒムラーの指示で切られていた。

 いつものように青白い顔で部屋から出てきたヒムラーに対して、マリーは相変わらずの屈託のない笑顔でちょろちょろと彼の背後を歩いている。

 一見しただけなら、コメディーでも見ているような気分になるふたりの落差に、ナウヨックスは失笑がこぼれそうになる。

 まるで疲れ切ったアヒルの親鳥の後ろにくっついているヒヨコかなにかのようだ。

「……君の意見はよくわかった」

 ”君の”。

 ハインリヒ・ヒムラーはそう言った。

 マリーを待っていたアルフレート・ナウヨックスは、ヒムラーの台詞に対してぴくりと片眉を跳ね上げた。

 ナウヨックスはかつて、ハイドリヒの腹心とまで呼ばれたエージェントである。その彼がハイドリヒとヒムラーが討論を交えるところに何度か遭遇していた。

 そんな彼だからこそ、マリーの異質さを感じ取った。まるで時にはただの子供なのではないかとも感じることもままあるが、それだけでは説明のできない不気味さを確かにナウヨックスは感じていた。

 ヒムラーは、マリーに対して「君」と読んだ。

 つまるところ、それはヒムラー自身が、彼女を同格に近い存在であると言うことを認めたと言うことになる。

「……だが、敵は手強いぞ」

 歩きながら独白するように言ったヒムラーにマリーは、横に追いつくと自分よりも背の高い男を覗き込むようにしながら長い睫毛をまたたかせる。

 ヒムラーの声は動揺しているが、少女はそれに対して臆することもなく青い瞳を煌めかせていた。

「ですが、閣下はご自分の立場をお忘れです。本来であれば閣下は国防軍陸海空に継ぐ第四の軍隊を統括される司令官。親衛隊司令部が一丸となれば、ドイツの内外に敵はおりません」

 彼女は暗に、親衛隊内部の派閥争いや、権力争いが組織の統率を不可能にしているのだと指摘している。

 かつては、それをラインハルト・ハイドリヒという男が圧倒的な支配力で押さえ込んできた。しかし、その彼が死んだ今、ナチス親衛隊をつなぎ合わせる力が及ばなくなったのだ。

「……だが、わたしは……」

 言いかけてヒムラーは口を(つぐ)んだ。

 そうして辺りを見回すと溜め息をこぼす。

「わたしは、君の遠縁の叔父上が死んだ時、目の前が真っ暗になったのだよ……」

 それは彼の本音だろう。

 ヒムラーは、ハイドリヒのカリスマに依存しながら、反面、彼を恐れてもいた。ドイツ第三帝国――ナチス親衛隊のナンバーツー。彼ほど強烈なカリスマを持つ男は存在しなかった。

 ヒトラーであれ、ハイドリヒのカリスマを凌ぐかどうか怪しいものだ。

 もっとも根本的にはカリスマの方向性が違うとでも言えばいいのだろうか。

「……長官が、信念をもって親衛隊(SS)を導いていけば、国家首脳部にも好ましい影響力を望めるかと」

 マリーの言葉に、ヒムラーはひどく苦しげな表情をしてから、肩を落とした。

「わたしは、君を信頼してもいいのかね?」

「例の件は、さしたることではありません」

 言ってからにこりとほほえんだ彼女は、長い金色の髪に指先を絡めて首を傾げる。

 ヒムラーの背後には国家保安本部という絶対的な警察機構が存在している。それはヒムラーにとっては大きな武器だ。

「し、しかし……」

 ポケットから取り出したハンカチで冷や汗を拭うヒムラーの目が泳ぐ。

 突撃隊(SA)の一組織でしかなかった親衛隊(SS)をたった十年ほどの間にこれほど強大な権力機構へと育て上げたのはヒムラーだ。

 その頂点に君臨する。

「内外の敵に立ち向かうために、長官の権力が必要なんです」

 大きな瞳に空を映して、マリーは告げた。

「……わたしは、まだ高みへ昇ることができると思うかね?」

「長官が望みさえすればいくらでも」

「君はまるで叔父上のようだな」

 はっきりと確定的な言葉は口にしないが、それでもヒムラーとマリーがなにかしらの重要な事項を話し合っていたと言うことは、ナウヨックスにも理解できた。

「ありがとうございます」

 いつものようににこりと笑う。

 そんなマリーの笑顔にナウヨックスは全身総毛立つ。

 それは理屈ではない。

「……だが、今動くのは得策ではない。情報は時に故意に流しておく必要性もある」

 顔色の悪いヒムラーがそう言うと、マリーは無言で頷いた。

 ヒムラーはもっともらしい台詞を吐くが、どうせハイドリヒ辺りの受け売りだろうことは想像に難くない。

 ナウヨックスはちらと頭の片隅で考えながら、マリーの背中を視線で追いかけた。

 転ばなければ良いのだが、ヒムラーと共に歩いているとなると、下級将校でしかない自分が追いかけるわけにもいかない。

 ナウヨックスがそう思っていた矢先だ。

 なににつまづいたのか、マリーが思いきり前方に倒れ込んだ。これが転んだのが幼児であったなら、それこそ泣き出すレベルの転び方だ。

 言わんこっちゃない、と大股で駆け寄ったナウヨックスの目に、フレアースカートがめくれて中にはいているショート丈のドロワーズが見えた。

 素早く他の者の目に入らないうちに少女の体を抱き起こして、スカートを直してやると思わず小言が口をついた。

「何につまづいたんですか、少佐殿シュトゥルムバンヒューラー

 おそらく絨毯の毛足にひっかかったのだろう。

 そんなことをナウヨックスは推察しながら、マリーの前で片膝をつくと怪我をしていないかと確認する。

 どこまでも世話のかかる上司だが、この屈託のない少女をナウヨックスは嫌いではなかった。好きなのか、と問われれば「そうではない」と言ったかもしれないが、それでも「嫌い」ではなかった。

 フィールドグレーの制服を着た長身の青年が少女の前にひざまずいている――単に身長の関係なのだが――というのは、絵になる光景でヒムラーは自分の傍らで繰り広げられているほほえましい小言に目元を和らげた。

「ごめんなさい、ありがとう」

 華奢で小さな少女の頭を軽くたたいたヒムラーは、ずり落ちた眼鏡を直すと顎に手を当てて考え込んだようだった。

「君の言っていたことは前向きに考えよう。今日明日に結論をというわけにはいかんが、わたしは総統閣下に対する裏切りを容認することはできん」

「……はい(ヤヴォール)親衛隊長官閣下ライヒスヒューラー・エスエス

「わたしも、君を信じてみようと思う」

 ぽつりとヒムラーが言った。

 ナウヨックスが視線を上げると、ヒムラーは踵を返してカール・ヴォルフを伴って国家保安本部を後にした。

 はたしてどんな話しを持たれたのかは、ナウヨックスにはわからない。おそらく首席補佐官のヴェルナー・ベストも、次席補佐官のハインツ・ヨストも知らないだろう。

 マリーとヒムラーの間だけで交わされたそれに、ナウヨックスはふとかつてハイドリヒとヒムラーの間で行われたという秘密会議を想起させるのだった。

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