10 疑念をいだく者
「どう思う?」
国家保安本部のバルコニーで紙巻きタバコを指先に挟んでいるシェレンベルクは、立ち上る紫煙を見つめて思考の淵に沈んでいた。
そんな彼の耳によく知る男の声が響いたのはそのときだ。
第三局――国内諜報局長オットー・オーレンドルフ親衛隊少将。
「どうとはなんのことです?」
わざとらしく言葉を返したシェレンベルクにオーレンドルフが視線だけを滑らせる。
「先ほどの会議の作戦のことだ」
「……ラインハルト作戦の件ですか」
「そう」
窓ガラスに寄りかかったオーレンドルフは、夜空を見上げたまま鼻から息を抜くとタバコに唇を寄せるシェレンベルクに視線を投げかけた。
「うまく事が運ぶと思うか?」
「……そうですね、なにぶん処理の数が膨大です。遠からず限界が訪れるでしょう」
「そうだな、親衛隊経済管理本部では効率の良い処理を考えているらしいが、それらが滞りなく運ぶとも思えんし、そもそもどれだけの”数”になるかと考えると頭が痛い問題だな」
「”東部”ではどのように処理を進めていたのです?」
問いかけられて、オーレンドルフは片手で顎を撫でる。そうして首を傾げてからシェレンベルクの差しだしたタバコを指先でとった。
「処理と言ってもな、決まったやり方があったわけじゃない」
「オーレンドルフ少将はどのようにされていたんですか?」
「わたしのところでは、ただ埋めていただけだからな」
それ以上の処理は隊員たちの精神に大きなな負担を強いる羽目になる。できる限り、死体と接する時間は短いほうが望ましいとオーレンドルフは考えた。
「もしもそれらを掘り起こされたらどうするつもりなんです?」
「死人に口なしだ」
ぞんざいなオーレンドルフの言葉に、しかしシェレンベルクは顔色一つ変えずにバルコニーの手すりに寄りかかる。そうしてオーレンドルフを見つめ返してから鋭い光を瞳にたたえた。
「ですが、我々の足をすくおうとする者たちは、死者の口をも引き裂きます。しかも自分たちにとって都合の良いように」
冷静なシェレンベルクの指摘にオットー・オーレンドルフは黙り込んだ。彼は東部戦線では国防軍陸軍について南ウクライナで活動していた。そして「パルチザン」として彼が部隊を指揮して殺害した人数は軽く一万人を越えるだろう。
正式な実数など余り考えたくもない。
自分のその行為が人道的だったか、それとも非人道的だったのかと尋ねられても、オーレンドルフにはそれを判断する権限などありはしなかった。
命令だから殺した。たったそれだけのことだ。
仮に、自分がラインハルト・ハイドリヒの命令を拒否したとしても、別の誰かが実行に移しただろう。
それだけの意味しかない。
代わりなどいくらでもいる。
「それが問題だな」
ドイツが勝ち続けているうちは問題にならないが、万が一負けた場合、オーレンドルフは間違いなく責任を追及されるだろうことを想定している。彼が殺した人間が「パルチザン」だったと主張したところで、負ければオーレンドルフの証言など大した意味を持ちはしないのだから。
「だからこそ、我々は全力で勝たなければならない」
オーレンドルフの言葉にシェレンベルクは頷いた。
負ければ再び先の欧州大戦後のような屈辱的な地獄が待っているだけだ。しかも、当時子供であった彼らは戦勝国を呪えばいいだけだったが、今は違う。まさし自分の身に火の粉となって降りかかろうとしているのだ。
「……シェレンベルク大佐、貴官は勝てると思うか?」
その言葉にシェレンベルクは沈黙する。
勝てるだろうか?
オーレンドルフの言葉をシェレンベルクは反芻して世界情勢を頭に思い描いた。
現状としては、まだ連合各国がばらばらになっているとは言い難い。特に、ソビエト連邦とアメリカ合衆国が手を組んでいると言うことは危険極まりない。そしてその危機は未だに脱してはいないのだ。
このままの状況が続けば必ず戦況はじり貧となるだろう。
アメリカ合衆国がソビエト連邦のスターリン政権を援助し続ける限り、ドイツ第三帝国にとって危険な状況であることに変わりはない。
「……愚問です」
短くヴァルター・シェレンベルクが応じた。
「それもそうか」
言葉を返したオーレンドルフは考える素振りを見せてから目を上げる。そうして切り出した。
「わたし個人の意見だが、切迫した状況で自分だけ逃れようとする卑劣な者もいるかもしれん。最悪の場合、それにどう対処していくかだな」
「そのために国内諜報局があるのではないのですか?」
「そう」
相づちを打ったオーレンドルフは人差し指を顔の前に立てた。そうして、まるで聞かれることに警戒するように彼は声を潜める。
「それだ、シェレンベルク大佐」
少なからずオーレンドルフは国内の反体制分子を掴んでいる。それは地下組織や、抵抗運動の組織だけではない。
政治家や官僚、軍の高官や、親衛隊に属していながら裏切りを抱いている者。
そういった者たちの情報を掴んでいた。
「総統閣下のごく身近に裏切り者がいるのだとわたしは思っている」
「……それについては”異論”はありませんが」
シェレンベルクは言ってからわずかに眉を寄せた。
いったいどれだけの人間がそうした疑念を抱いているのだろう。
ドイツ第三帝国の総統、アドルフ・ヒトラーは良くも悪くも世間常識にとらわれながら、時に政治家と言う枠を大きく逸脱する。それが良いか悪いかはともかくとして、彼――アドルフ・ヒトラーの軍人としての経歴を考えると、それが正しい道だとは到底思えない。
しかし、それをヒトラーに進言できる人間がいないのが問題だ。
シェレンベルクはすでに鋭い観察眼で、ヒトラーの健康状態について大きな疑念を抱いていた。もっとも彼は医師ではないからその疑念に核心を持てる結論を出せてはいない。
「難しい問題ですね」
「全くだ」
オーレンドルフも口には出さないが、おそらくヒトラーの健康問題について危惧を抱いている人間のひとりだろう。
「ところで、学生運動の件ですが、マリーが独自で動いているようです。少将に報告させましょうか?」
「いや、いい。放っておけ」
彼女が独自に動いていることはとっくにオーレンドルフも気がついていた。なにやらミュンヘン大学の学生達と接触しているようではあったが、それが国家転覆につながるとも考えられないため、オーレンドルフは放置している。
彼女は「子供には子供の情報網がある」と言っていた。
子供であるからこそ、怪しまれずに対象に近づくことができたというのもあるかもしれない。しかし、彼女はすでに一度、テロリズムの標的とされた。今後も安全が確保されるとはとうてい思えないというのがオーレンドルフの考えだった。
*
ベルリンで活動していた地下組織や抵抗組織の一斉摘発が行われた、という情報は早々に永世中立国スイス連邦のベルン市にあるアメリカ合衆国戦略情報局欧州支部の部長、アレン・ダレスの元に届けられた。
「……どういうことだ!」
腰を浮かしかけたダレスは、思わず報告書を持参した補佐官を怒鳴りつけた。
「合衆国と連絡を取り合っていた工作員が数名を除いて全滅致しました。ソ連と連絡を取り合っているスパイもおりますが、現状、ソビエトがあのような状況ですのでどれほど合衆国との関係を重視するか怪しいところです」
「……クソッ」
ドイツの秘密工作員や情報将校は抜け目のない者も多い。
かつて、オランダのフェンローで、英国の諜報部員が拉致される事件があった。
拉致されたのが諜報部員であったため、それらの事件に対する関わりを独英共に否定したといういきさつがある。
「……しかし妙だな」
深く革張りの椅子に腰を下ろしたダレスは仏頂面を隠す余裕もないまま眉間に皺をよせて考え込んだ。壁に貼られたヨーロッパの地図を眺めた五十歳になろうという男は、椅子を軋ませたままで息を潜めた。
なにかが引っかかる、と言うのがアレン・ダレスの見解だ。
事態が大きく動き出したのはほんの数ヶ月前のことだ。
そもそもの事態のきっかけと言えばどこだったのか。
転機はどこにあったのか。
じっと万年筆を指先に握ったままで考える。当初、アメリカ合衆国の援助を得て、ドイツとソビエト連邦の戦争は概ねダレスらの予想の通りに運んでいた。だというのに、その予測にほころびが生じ始めたのはいつだったのか。
その「最初のほころび」を探り当てなければならない。
そうして長いことじっと考え込んだアレン・ダレスは、地図と窓の外を見つめた。もしも、万が一、全ての事態がいずれかの国の思惑通りに進んでいるのだとしたら、それは恐ろしいことだった。
少なくともその思惑はアメリカ合衆国を単に発するものではない。ましてソビエト連邦でもないだろう。
仮にソビエト連邦の革命軍が、反スターリンを掲げて国内の同志を鼓舞するために画策したのだとしても、それらはリスクが大きすぎる。
最初の変化がソビエト連邦赤軍将校、クリメント・ヴォロシーロフの暗殺事件だったことを考えると、一部の戦略情報局の職員達が言うように、ソ連が画策したのだとも考えられるが、それならばドイツと共闘する意味がない。
第一、最初からスターリンを狙えば良かっただけではないか?
軍隊を動員するほどの指導力があるのだから、スターリンを最初から狙うというのは無理な話ではない。
かなり危険を伴うことであるが、革命を起こそうという勇気があるならばスターリンを狙うことに否やはないはずなのである。しかしそうすることができなかった、ということはなにかしら事情があるのだろう。
「つまり……」
誰かが裏で糸を引いているという可能性だ。
そしてそれが誰かということが問題だった。
はじまりはクリメント・ヴォロシーロフの暗殺事件。しかし本当にそれがはじまりだったのだろうか?
そしてその情報をアメリカ国内にリークしたのは、一新聞記者だったこと。
情報機関を通さずに?
不可解なことばかりだ。それらを丁寧に紐解いていかなければ回答にはたどり着けないだろう。
執務机にのせた手で軽くリズムを取りながら考え込んでいるアレン・ダレスは鋭い眼差しで室内を見渡した。
「まだドイツ国内に潜入しているエージェントは残っているんだな?」
「しかし危険です」
「危険なことは承知している」
吐き捨てたダレスは不機嫌な表情のままで舌打ちを鳴らした。
ドイツとアメリカの戦争はすでにはじまっている。それはまだ諜報戦争というささやかな徴候でしかない。
それでもそのはじまりを、ドイツ第三帝国の諜報部員達と同じようにアレン・ダレスも認識していた。どちらが先に、より有利な形で仕掛けるか、その機会を彼らは狙っているのだ。
「誰か連絡のつくエージェントはいないか」
苛立たしさのまま卓を手のひらで強く打ったダレスの瞳に、穏やかな顔つきからは想像もできないほど厳しさが秘められていた。
手段を選んでいられないのかもしれない。
時は一刻を争うのではないか、そんなベテランのエージェントとしての勘がアレン・ダレスに焦燥を募らせた。
「ベルリン市内の数名ならまだ動けるようです」
「名前はわかるか?」
「大至急報告いたします」
「急いでくれ」
「はっ」




