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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
V トールハンマー
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9 ラインハルト作戦

 長テーブルの端に席を確保されてキラキラと目を輝かせているのは六局G部――特別保安諜報部長マリア・ハイドリヒ親衛隊少佐である。

 彼女の眼差しは自分の前の焼き菓子とミルクをたっぷり入れた紅茶に釘付けになっている。

 そんな少女の肩を小突いたのは世界研究局長フランツ・ジックス博士だ。

 わかりやすい表現をすると人の話を全く聞いていない少女は、指先で焼き菓子をつまみながら視線を上げる。

 ちなみに会議の席でコーヒーを飲めない彼女に配慮したのはシェレンベルクではなく、四局のアイヒマンだ。

 焼き菓子をかじったマリーは大きな青い眼をぱちくりとまたたいてから隣に座っているジックスを凝視する。まるで、どうして小突かれたのかわからないとでも言いたげな眼差しに、ジックスとは反対側の少女の隣に座っていたヴァルター・ハマーが頬杖をつきながらあきれた様子で大きな溜め息をついた。

 だいたい、年頃の女の子の前においしい焼き菓子を出せばその目が釘付けになってしまうのは当たり前ではないのか。

 アドルフ・アイヒマン親衛隊中佐のずれた気遣いのおかげでマリーは全く会議の内容を聞く気になっていない。

 両脇を倍近い年齢の男たちに挟まれているというのに、金髪の少女は相変わらずいつもの調子だ。

「食べます? ハマー中佐」

「いや、いい」

 ひらりと顔の前で手を振ったハマーはマリーの無邪気な声にもう一度大きな溜め息をつくと、頬杖をつきながらちらりと横目に隣に座る彼女を見やる。

 少々痩せすぎな気もするが、充分かわいらしい少女だ。

 もっとも彼としてはもう少し肉感的な方が好みではある。

「おいしいですよ?」

「……それはともかく、シュトレッケンバッハ中将の話を聞いたほうがいいと思うが」

 やれやれと幾度目かの溜め息をついたところに、マリーの斜め向かいに腰を下ろしている刑事警察(クリポ)局長のネーベが少女にウィンクをしてみせる。

 女性関係がそれなりに派手なアドルフ・アイヒマンが選んだ菓子だから美味なのは当たり前で、周囲の人間たちからしてみれば彼がどうしてそんなことをしたのかははなはだ疑問が残った。

 マリーとはだいぶ離れた席に座っているアイヒマンは、顔色ひとつ変えずにただペンを紙の上に走らせており菓子のことは気にも掛けていない様子だ。

「聞いているかね? マリー」

 シュトレッケンバッハに言われて少女は顔を上げるとわずかに眉を寄せた。

 この国家保安本部長官代理を務める人事局長からすると、ハイドリヒという姓を口にする気になれないというところがあるらしい。

「えーっと……」

「聞いていなさい」

 シュトレッケンバッハから小言をもらったマリーは、椅子に手をついて座り直すと「はぁい」と返事をしてからミルクの割合の方が多いのではないかと思われる紅茶に唇を寄せた。

「ハマー中佐、このお話し国外諜報局(わたしたち)に関係あるんですか?」

 そっと耳打ちするように問いかけるマリーは、ついとハマーの制服を軽く引っ張る。

「一応関係なくはないと思うぞ」

 主に東部で展開するアインザッツグルッペンの状況報告だ。その中には諜報部にとっても重要な情報もいくつか含まれていることもままある。

「そうですか」

 つまんない、とでも続きそうなマリーの声にヴァルター・ハマーはわずかに目を伏せた。最近になって新設されたばかりのG部――特別保安諜報部の部長を務める年若い親衛隊少佐はいったいなにを考えているのだろう。

 少なくとも、総統官邸の不穏分子をかぎつけるなどの真価を発揮しているわけだから無能者ではないのだろうが、国家保安本部に籍を置くようになってからまだ日が浅すぎるため正体不明な勘が強い。

 不思議な娘、というのがヴァルター・ハマーの見解だ。

 とりあえず、各局の局長級の人間が認めているから異議はないというだけだ。

 なにより、特別保安諜報部が設立された途端、総統官邸の不穏分子を一網打尽にすると言う一見横暴な、しかし勇気のある行動は一介の親衛隊将校にそうそうできるものではない。

 それは確かに認められるべきもので、真価の発揮としては充分だ。

 なにより、彼女が彼ではないということだ。

 今現在の世界情勢において、女性が男を押しのけて表舞台に立つと言うことはなまなかなことではない。

「現在”パルチザン”の掃討作戦及びその移送については、概ね当初予定されていたラインハルト作戦アクチオン・ラインハルトに則って行われており、ヘルマン・ヘフレ親衛隊大尉によって順調にすすめられています」

 ヘルマン・ヘフレという名前にマリーは焼き菓子に齧り付きながら目だけを上げたが、結局なにか考え込むように視線を流してから座り心地の良い椅子の背に深く座ると首を傾げたにとどまった。

 聞くもの全てを物珍しがる子供かなにかといった印象を受けるマリーの様子に、文書を読み上げていたアイヒマンがことさら不機嫌そうな眼差しを向けるが、当の彼女自身はそんな視線に臆することもない。

「こんな大がかりな作戦の指揮を、一大尉がとっているの?」

 ややしてからぽつりとマリーが問いかけた。

「しかし、グロボクニク親衛隊少将の名代だ」

 指摘するのは人事局長ブルーノ・シュトレッケンバッハ中将だった。彼の言葉に口元に手を当てて考え込んだ少女は、星のようにきらめく青い瞳をまたたかせてから、片手で焼き菓子をとった。

 こんなときでも緊張感の欠片もないのはやはり彼女が大物だからなのだろうか。

「でもそれは、親衛隊長官閣下直下の命令なわけですよね?」

 オディロ・グロボクニク親衛隊少将は、ポーランド総督府領全体の親衛隊及び警察高級指導者であるクリューガー親衛隊大将の指揮下にあり、実質的なラインハルト作戦アクチオン・ラインハルトの執行者にあたる。もっとも、実際指揮をとったのはグロボクニクの副官であり、これがヘルマン・ヘフレだった。

 つまるところ東部戦線の行き詰まりが全ての元凶なのであるが、これはうまくいかない以上仕方がないことだ。

「……ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカなどを中心として現在作戦を遂行中であり、順調に労働力にならない囚人には特別な待遇をもって対処しております」

「体の弱い者や、病人には”病院”も稼働していると聞いたが?」

 第五局のミュラーの問いかけに、アイヒマンが大きく頷いた。

「はい、そうであります。現在、先頃行われました、ヴァンゼーでの会議の通り順調に各収容所は稼働しており、連日の移送には”的確な”対処をもって臨んでいる次第です」

 ですが、とアイヒマンは付け足した。

「ソビエト連邦の反乱軍、……いえ、革命軍と申しますか。彼らの持ちかけた取引というのがどうにも頭が痛く……」

 渋面になったアイヒマンに、オーレンドルフが足を組み直してじっとユダヤ人課の課長を見つめる。

 確かに現状、アイヒマンの束ねるユダヤ人課は東部戦線の問題の行き詰まりから、大きな問題を抱えている。

 各地のゲットー、及び強制収容所がすでにキャパシティを大きく超え始めているのだ。簡単に解決するための手段として考えられた東方への移送も、東部戦線の逼迫と共に思わしくなくなっている。

「難問だな」

 オーレンドルフがつぶやいた。

「どちらにしろフルシチョフ共の考えでは、万が一の場合を考えて火の粉を被るのはごめんだ、というところだろう」

 指先でとんとんとリズムを取るように会議用の長テーブルを叩くオーレンドルフは、じっとどこか遠い場所を見つめるような眼差しになる。

「奴らの気を引きたい軍のお偉いさん共がなにか考えそうだが、こちらがアカ共の手に乗ったときに、仮に奴らが手のひらを返した時が危険だな」

 東部戦線でアインザッツグルッペンを指揮したオーレンドルフが冷静に評価すると、国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクもそれに同意する。

「一番にスマートなやり方としては、自分達の尻は、自分達で拭いてもらうこと、ですか」

 言いながらシェレンベルクが首を傾げると、やはり東部戦線で行動部隊アインザッツグルッペンを率いたアルトゥール・ネーベが無言のまま頷いた。

 いざというときに、ソビエト連邦がドイツに全てをなすりつけて責任を逃れようとするだろう、とオーレンドルフもシェレンベルクも言いたいのだ。

 その言にはネーベやミュラーも同意見だった。

 安易にソビエト連邦の手に乗るべきではない。

 彼らはそう言いたいのだ。

 ヨシフ・スターリンも信用ならない相手だが、国家保安本部(RSHA)の高官たちにとってみれば、それはニキータ・フルシチョフ率いる革命軍も同じなのだ。

 たまたま敵が一緒というだけであって、手を結ぶ信用に値するかどうかはまた別の話である。

 大人たちが真剣に意見を戦わせているというのに、その場に同席しているたったひとりの少女は聞いているのかいないのかといった表情で焼き菓子を嬉しそうに食べているものだから緊張感などありはしない。

「マリー、君にはなにか意見はないのかね?」

 うんざりとしながら口を開いたシュトレッケンバッハに、マリーはミルクティーに唇を寄せながら小首を傾ぐ。

「別にありません」

 そう言ってからじっと天井を見上げて数秒考えたようだ。

「……強いて言うなら、反論の余地のない共犯者として巻き込み、逃げ場を絶ち、そこから追い込みをかけるのが最良かとは思いますが、できるなら、全ての所行を彼らに押しつけてしまえればドイツは安泰かもしれませんね」

 さらりと冷徹な意見を告げたマリーは、ひとつあくびをしてから子猫のように目を細めると隣に座っているヴァルター・ハマーの時計をせがむ。

 すでに会議が始まってから四時間が経過していて、マリーが飽きても無理はない。焼き菓子をつまみながら話しを聞いていたが本格的に飽きてきたようだ。

 ぶらぶらと机の下で足を揺らしている彼女は、テーブルにとうとう突っ伏してしまった。それからしばらくそんなマリーをそのままにして会議は続いていたのだが、ふてくされて眠ってしまったマリーに一同が気がついたのは夕方も過ぎた頃で、三十代の部長局長級はあきれかえったが、ミュラーとネーベの両警察局長は顔を見合わせて苦笑しただけだ。

 昼からずっと会議を続けているのだ。

 マリーが飽きても仕方がない。

 そもそも当初の予定では会議がこれほど長くなる予定ではなかった。軽い報告と、今後の予定の話し合いで終わるはずだったのだが、ソビエト連邦の持ちかけた「取引」の件で話しが長くなった。

 会議が終わり、内線電話で特別保安諜報部を呼び出すと程なくして、会議室にアルフレート・ナウヨックスが現れた。

 屈強な体つきの秘密工作員の男は、ゲシュタポ・ミュラーから状況の説明を受けて脱力する。そうしてあきれかえりながらも、自分の上官にあたる少女を抱き上げてさっさと会議室を出て行った。

「しかし、的を射ているな」

 ミュラーが自分の顎を撫でながらぽつりとつぶやいた。

 そんな厳つい顔の警察官僚を見やってネーベが唇を引き結んだ。

「……確かにな」

 ――巻き込み、追い詰め、追い込んでから捕獲する。

 狩りの基本だ。

「フロイラインの主張は的を射ている」

 ネーベがミュラーの言葉を繰り返し、そうして続けた。

「しかし、問題はどうやって追い詰めるか、だ」

 ソビエト連邦も間抜けではない。なにしろ巨大な組織をどこから切り崩すべきなのか。現在の状況としては二つに分裂しているから想定よりは容易だろう。

 かつて、ラインハルト・ハイドリヒが、赤軍大粛正の引き金を引いたことをネーベは思い出した。これによって、ソビエト連邦の正規軍は壊滅的な被害を被り弱体化することになった。これがもう少し遅ければ、ドイツの仕掛けた戦争においても有利に働いたのであろうが、なにしろ十年近い歳月が流れてしまった。

 その間に、ソビエト連邦は力を蓄え、将校の質をもなんとか高めることに成功した。もっともそれでも前時代的な銃剣突撃と言った印象は否めない。それでも、ソビエト連邦という国の広大な土地は驚異に値する。

 かつて、ナポレオンがその広さと、冬将軍の前に敗退したように。

「特殊部隊を使えないか?」

「……それは我々の管轄ではない」

 ミュラーに応じたネーベは、少女を抱いたナウヨックスが消えた扉を見つめたまま厳しげな光を瞳にちらつかせた。

「ミュラー中将は彼女をどう思う?」

 問いかけられてミュラーはテーブルの上のコーヒーカップを取りあげながら、視線を滑らせる。

「どう、とは?」

「……彼女はまるで、接着剤のようだな」

 一度ばらばらになりかけていた国家保安本部という組織のひび割れをつなぎ合わせる。それがどういう思惑であれ。

 泣いたり笑ったりしている彼女を守りたくなる。

 どこの誰とも知らない女子供を守るよりは、最も身近にいる女性をまもってやりたくなるというのは、人間として誰しも感じることだろう。

 一度感情を傾けてしまったら、目をそらすことなどできはしない。

 立場の違いはあれど、守ってやりたくなるのだ。

「そうかもしれん」

 ネーベの例えにミュラーは頷いた。

 驚くほど広範囲にある人間たちを「マリー」という存在がつなぎ合わせている。ウィーンのカルテンブルンナーや、突撃隊(SA)のヴィクトール・ルッツェ。それ以外にも劣等感の塊のようなアイヒマンや、ナチス党の古参戦士であるオットー・オーレンドルフですら彼女を無視できない状況になりつつあった。

 それがどういうことなのかはミュラーやネーベにはわからなかったが、それでも、自分達も彼らと同じように彼女の笑顔を守りたい、とそう思ったのだ。

「まぁ、人のことは言えんがな」

 苦笑したネーベは自分の内側に育ちつつある、あるひとつの感情に気がつかない振りをしてきていた。もちろんその”感情”とは、マリーに対するそれではない。

 ドイツ第三帝国の刑事警察局長として、そんな感情抱いてはならないと言い聞かせながら生きてきた彼は、突然彼らの前に現れた小さな少女の存在に心を救われた。

「わたしは、少なくとも彼女に癒されていたいと思うのだよ……。ミュラー中将」

 銃撃されたあの日、少女は彼の腕の中で悲鳴を上げて錯乱状態に陥った。強く自分に縋り付いた細い腕の感触が余りにも頼りなくて、その腕を守ってやらなければと、そう思ったこと。

「誰ともわからない娘を守るより、わたしには国家保安本部(RSHA)に所属する小さな少女を守る方が価値がある」

 まるで独白めいたネーベの言葉に、ハインリヒ・ミュラーはわずかに片目を細めて見せた。

「……そうだな」

 そうして数秒してから彼はネーベに同意して頷いた。 

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