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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
V トールハンマー
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8 接近

 ヒトラーの官邸で毎朝行われる会議で国際刑事警察委員会(ICPC)総裁のアルトゥール・ネーベ親衛隊中将のなにげない一言から、ハインリヒ・ヒムラーはアドルフ・ヒトラーに呼び出されることになった。

 ヒムラーの副官であるカール・ヴォルフはふたりの権力者を無言で眺めていたが、正直なところ、ヒトラーの言い出したことに驚きを隠せない。

「わたしの警護隊から数名選抜しよう」

「総統警護隊から、ですか……?」

 ヒトラーの驚くべき言葉に、ヒムラーは腰を抜かしかけた。

 アドルフ・ヒトラー警護隊――RSD。

 その一部は武装親衛隊からも選抜されている。もちろん、この場合の武装親衛隊ヴァッフェン・エスエスというのは、大規模なその組織の中でもアドルフ・ヒトラーの名を冠したエリート中のエリート部隊「アドルフ・ヒトラー親衛隊――LSSAH」のことである。

 総統警護隊から選抜される武装親衛隊の護衛官。

「随分と彼女の護衛に関することでヒムラー長官が頭を抱えていると言うことは聞いておる。その点、わたしの親衛隊員であれば、身元も資格も問題あるまい」

「しかし、一介の情報将校に対してそこまでしていただくわけには……」

 口ごもるヒムラーにヒトラーはちらと視線を投げかける。

「……先日、わたしのもとに彼女が訪れてな」

 ヒトラーの口から飛び出した爆弾発言に、ハインリヒ・ヒムラーはまさしく腰を抜かしかけた。

 ――そんな話しは聞いていない!

 口から飛び出しそうになった言葉を咄嗟に押しとどめてヒムラーは思い切り眉をひそめてカール・ヴォルフを見やった。そんな親衛隊長官に対してカール・ヴォルフは顔色を変えることもせずに、自分の上官を見返した。

「君は知っていたのかね?」

 ヒムラーの言葉に、ヴォルフは「いえ」と曖昧な言葉を返す。

 マリア・ハイドリヒは不思議なもので、近所のおじさんを訪ねる気楽さで、政府高官の間を飛び回っている。彼女につきあわざるを得ないアルフレート・ナウヨックスも気の毒なものだが、一応、マリーがヒトラーのところへ行ってくる、という報告は受けていた。

 ヒムラーに報告するべきことでもないと思っていたから、報告はしていない。

 というのも、翌日の御前会議で「子供好き」のヒトラーから大変機嫌良く、「あの子は良い子だな」という話しを聞いただけにとどまったからだ。

 おそらく、多くの情報将校や警察官たちが彼女の花の家ハウス・デア・ブルーメンに訪れるときと同じで、政治的な話しはほとんどなかったのだろうと推察された。なにせ常々、ヒトラーが女性の政治参加や軍事的な事柄に口出しすることを嫌っていることを知っている。

 そのヒトラーが「彼女は良い子だ」と言ったということは”そういう”ことなのだろう。

「彼女は実に思慮深い娘だ。……しかも頭の回転が速い」

 そこまで言ってヒトラーはデスクに着いたまま足を組み直すと考え込むような仕草を見せた。

「彼女のような子女が親衛隊情報将校として働いている以上、我々もその志に答えるべきだろう。ならば、優秀な護衛官を提供するのも重要な仕事だ」

「はぁ……」

 ヒトラーの言葉にヒムラーは歯切れの悪い反応を返しながら考え込んだ。

 なにもないのならばどうして彼女はヒトラーに接触したのだろう。そもそも、官房長マルティン・ボルマンの邪魔が入りそうなものだが。

 マリア・ハイドリヒ、彼女は一介の親衛隊少佐でしかなく、ヒトラーの側近ですらない。そんな小さな少女がどうしてこれほどまで急速に権力の中枢に近づいていっているのだろう。

 いや、本人にそのつもりがないらしいところがまた不気味だ。

 特別な権力に対する強い欲求があるわけでもなく、ただただ、自由に政府要人たちの周りを舞う蝶のように。

 時に、勘違いした女性にありがちな強欲さを感じないのだ。

 上流階層に食い込み、自分自身の権力を拡大し、その身を美しく飾り立てたい、という女の浅はかな愚かさを感じない。

 まるで道ばたに咲く花を覗き込んでいるような無邪気さ。

 ――そして、無邪気であるが故に残酷で末恐ろしい。

 こうしてマリーの護衛官として武装親衛隊の下士官が抜擢されたのだが、相変わらずというのか少女は自由気ままに振る舞っているようにも見えた。

 マリーが勝手にヒトラーを来訪したことに対して苦言を申しつけようとしたヒムラーだったが、少女の無垢な眼差しで見つめられると何も言えなくなってしまうのだった。

 全てを飲み込む青い瞳は、まるで湖底のようだ。


 人間ひとりの力など大した影響力はない。

 それらはひとつひとつが束ねられてこそ効力を発揮するものだ。

 ナウヨックスを伴っていつものようにベルリン市内を飛び回っているマリーは、ヴェルナー・ハーゼの元を再び訪れていた。

「……あなたがよく転ぶのは、足の筋肉が足りないからだな」

 ハーゼにそう言われてマリーは膝をそろえて椅子に腰掛けたまま小首を傾げる。

 彼女の後ろに立っているアルフレート・ナウヨックスは、自分の上官にあたる少女と軍医の男を眺めていた。

「もう少し筋肉をつけるよう鍛えた方がよろしい」

 じろりと頭の先から爪の先まで見下ろしたハーゼは遠慮の欠片もなくそう言った。医師にそう言われてもマリーは市井(しせい)の娘たちとはわけが違う。ナウヨックスは医師の言葉を聞きながらそう思った。

 つい先日も彼女はテロリズムの対象にされたのである。

 彼女がいつものように足を滑らせていなかったら、命を落としていたことだろう。そんなマリーが気軽に出歩くことなどできるわけがない。結果的に車で移動することが多くなり、彼女の四肢はいまひとつ貧弱なままだった。

 貧弱と言えば、彼女は菜食主義者というわけでもないのだろうが、どうにも食が細い。それが余計にマリーの体型の貧弱さに拍車を掛けていると言っていいのかもしれない。

 そもそも情報将校とは言え、彼女は軍人ではない。

ハーゼ博士(ドクトル・ハーゼ)、お気づきのことと思いますが、総統閣下の健康問題の件です」

 他愛のない会話を交わした後に、少女は切り出した。

「……うん?」

 彼はヒトラーの”お気に入り”の医師団のひとりである。

「閣下は随分とご自身の健康に気を遣っておいでですが、諜報部で不審な情報を入手いたしております。ハーゼ博士ほどのかたでいらっしゃれば、閣下の身の回りの不審者についてご存じかと思います」

「――それは、先日君が自ら踏み込んで一掃したはずでは?」

 総統官邸にゲシュタポを踏み込ませたことを指してハーゼが冷静に指摘をすると、マリーは困ったように柔らかな笑みを口元にたたえた。

「はい、ですが、総統閣下の権力の拡大に従い、その周囲にある者たちは腐敗を極めております。中には最もいやらしいやり方で総統に対して裏切りの態度をとる者もいます」

「そんな話しをわたしにしてどうなる? わたしはただの医師に過ぎない」

「この問題は、多くの場合国家の中枢により近いだけ、ということで済まされることではありません。わたくしども、国家保安本部(RSHA)にも限界がございます。そのためには、我々は多くの信頼できるかたの助力を望んでいます」

「……――」

 マリーの静かな声は、とても十代の少女のものとは思えない。

 その言葉の裏に、なにかを握っているのだと臭わせる。

「しかし大したものだな」

 ふと話題を変えるようにハーゼがぽつりとつぶやいて少女の胸元に視線を走らせる。

 ナチス親衛隊(SS)の制服を身につけていないため鉄十字章のリボンを佩用することができない。そのため小さな略綬がカーディガンにつけられているだけだ。

 腕章にはSD章とカフタイトル。

 カーディガンの前身頃をあわせているのは鷲章で、略綬が胸につけられているだけという異質な少女将校。階級は言わずとも誰でも知っている。

 なにぶん存在そのものが特異すぎたのだから。

「そうですか?」

「そうだろう、その歳で鉄十字章とはな。しかも君は女性だ」

 戦場にすら立っていないというのに。

 諜報部員が勲章を受けることはままある。彼女の上官であるヴァルター・シェレンベルクが良い例だ。

 そのうち戦功十字章でも受賞しそうな勢いだ。

 彼女の場合、武装も想定される反体制組織への突入に、異例の受賞となったのである。女性の鉄十字章受賞は珍しいことであるが決してないわけではない。

 有名な女性受賞者と言えば、空軍(ルフトヴァッフェ)に所属するテストパイロットのハンナ・ライチュがいる。

「いっそ制服を仕立ててもらったらいいのではないか?」

 ハーゼの言葉に、ナウヨックスが咳払いをした。

「……あぁ、危険か」

 か弱い女性が軍属であることを周囲に知らしめるとはそういうことだ。そんなことをしてしまえば、彼女はそれこそテロリストたちの恰好の餌食となるだろう。それを考えれば、彼女が制服など身につけて良いわけはない。

「ハーゼ博士、問題はわたしの身の安全のことではありません。博士でしたら、わたしがこちらにお伺いした理由をお察しのはずです」

 自分のことなど気に掛けるべき問題ではない。

 ばっさりと断ち切るようにそう言ったマリーに、ヴェルナー・ハーゼは眉をひそめた。

「……自分の立場を利用して、閣下を貶め、そして利用しようとする者が存在しています。博士が大ドイツのことを思われるようでしたら、我々諜報部はいつでも助力させていただきます」

 生真面目な彼女の言葉に、ハーゼは無表情のままだった瞳にわずかに不快な色彩を乗せる。

 マリーの言葉の裏にあるものを彼は感じ取った。

 まだ、アドルフ・ヒトラーの周りには「裏切り者」がいる、と。

「それで、君はわたしの他にも誰かしらと接触しているということかね?」

「……はい」

 彼女はほんの半月ほどの間に多くの親衛隊将校と接触を持っていた。

 彼女と、彼女が接触した将校たちとの会話の半分は他愛のない世間話だ。しかし、その中に時折混ぜられる真実はひどく重い。

「誰に、と聞いても答えてはくれなさそうだな、君は」

 やれやれと応じたハーゼにマリーはふわりと笑って見せた。その笑みはまるで告げる気などさらさらない、とでも言っているようだった。

「とりあえず、なにかね? わたしは総統閣下の身の回りのことに気を配ればいいと?」

「はい、よろしくお願いします」

 階級は同じく親衛隊少佐シュトゥルムバンヒューラーなのだが、ヴェルナー・ハーゼは医師という立場もある上に、すでに四十代だ。十代半ばのマリーを見ていると教師として子供の相手でもしているような気分になるらしい。

 膝に肘をついて頬杖をしたハーゼは溜め息混じりに天井を見上げた。

「ひとつだけ確認しておきたい。君が言っていた諜報部(SD)が全力で助勢してくれるという言葉を信じてもいいものか?」

「もちろん」

 マリーが即答した。

 けれども、とヴェルナー・ハーゼは考える。

 暗殺された国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒの抜け目のなさを考えると、彼女の所属する国家保安本部に全幅の信頼を置いてもいいのか怪しくなってくる。

 彼らは本当に信頼できるのだろうか?

 信頼しても良いのか。

「東部にしろ、西部にしろ、戦線は逼迫しています。現状をもって国政の腐敗が続けばそれは”背後からの一撃”となり得ます。かつてドイツ民族至上主義攻守同盟の掲げた背後からの一撃と同じで、内容が異なるだけ。黙認すればユダヤ人ではなく、我々自身がその背後からの一撃を容認する形となるでしょう」

 つまり。

 それはドイツ第三帝国の崩壊に他ならない。

「亡きハイドリヒ親衛隊大将が戦っていたものは、ユダヤ人相手だけではありません」

「なるほどな。では君が亡き親衛隊大将閣下オーバーグルッペンヒューラーの意志を継ぐのだとでも?」

「そんな大層なこと考えておりません。わたしはわたしのできることをするだけです。ですから、わたしは自分の権限の及ぶ範囲内で、ハーゼ博士にお願いを申し上げに来たのです」

 ニコニコと笑っている少女に、ハーゼは視線をローテーブルの上におろすと腹の前で指を組み直す。

 発言の内容は、年頃の少女の言葉であると考えると少々どころかかなり物騒極まりない。

 けれども、マリーの告げる言葉思慮深く、大の大人ですら考えさせられる。彼女は誰よりも深謀遠慮を巡らせているのではなかろうか。

「……ふむ」

 相づちを打って考え込んだハーゼは、そうしてから無言で頷くとマリーを見つめ、それからその視線を背後に控えるナウヨックスに向けた。

「そういうことであれば承知した。わたしの権限の及ぶ範囲内で良いのなら、充分に気を配ろう」

「お願いいたします」

 自分の年齢を自覚しているのか、彼女は決して年長者のハーゼに対して粗暴な振る舞いをしない。これは、彼女の上官であるヴァルター・シェレンベルクからの受け売りかなにかなのだろうか?

 大概の親衛隊将校という者は、自分が他者よりも権限を持っているとわかると、あからさまにつけあがる者が多い。これでは、かつての突撃隊の粗暴な男たちと大して変わらない。

 ヴェルナー・ハーゼは常々そう思っていたものだ。

「では、長居をしてしまって申し訳ありません。ハーゼ博士」

 体重を感じさせない身軽さで立ち上がったマリーの片腕をとるようにして支えたナウヨックスは顔立ちの甘さと相まってまるで姫君を守る騎士かなにかのようだった。

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