7 深層心理
まるで蝶のようだ。
もっとも蝶にしては少々優雅さに欠けているような気もするが。
たとえるならば、ひらひらと自由に空を飛ぶ頼りない蝶。もしくは巣立ちしたばかりの小鳥の雛とでも言えば正しいのだろうか。
アドルフ・アイヒマン親衛隊中佐は深く椅子に腰を掛けたままで考え込んだ。
彼女がヴァルター・シェレンベルクの部下であるから気になってならないのか。それとも、親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーの個人幕僚部にその名前を連ねているのが気に入らないのか。アイヒマンには時に自分自身ですらも理解できなかった。
驚くべきスピード出世を重ねるマリア・ハイドリヒ。
彼女はアドルフ・アイヒマンよりも丁度二十歳ほど年齢が離れている。
だから、彼は特別に彼女に対して「女性らしい性的な魅力」は感じることもない。ただなんとはなしに、彼女のありように視線を奪われた。そうして見ているとマリーはその挙動が余りにも「お子様」すぎるところが多々感じられる。
おそらくそのために年の頃よりもずっと幼く見られるかもしれない。
もっともそんなことはどうでも良いことでしかない。だけれども、彼女は異質な子供。ただ悪意もなく、他意もなく、彼の執務机によりかかったままで床に座り込んでいた。
マリア・ハイドリヒの本心がわからなくて戸惑いに似たものを感じたこと。
強いて言うならば、子供らしい無邪気さとでも言えばいいのかもしれない。大人たちの政治的打算も、自分が受け取るだろう恩恵も計算もしていない。
だから彼女は屈託もなく国家保安本部の情報将校や捜査官たちと接することができるのだろう。
普通の人間であれば、そんなことはできようがない。
なぜならばドイツ国内、占領下の地域にあって国家保安本部とは恐れの対象だからだ。
社会のしがらみに捕らわれる事もない、子供の特権と言うには異質すぎた。それはなんと羨ましいことなのか。
とりとめもないことを考えながらアイヒマンは、小首を傾げてデスクの隅に置かれているコーヒーカップに長い指先で触れると室内に視線を泳がせる。
彼の思うところ、彼女の行動、あるいは活動に対する権限はアイヒマンを含めて多くの国家保安本部内の人間が思いもしないところから出ているに違いない。
けれどっも不思議なものだ。
不可解と言っても良いだろう。
彼女の急速な権力の拡大は、多くの者にとって大いに不快を感じさせるものだろうはずなのにそうではない。
もちろん面白くないとすら感じさせられることもある。
アドルフ・アイヒマンが、ブルーノ・シュトレッケンバッハの彼女の国家保安本部所属に対する反対に異を唱えたのはそもそも打算があったからだ。
高等教育を受けていない女性の情報将校が国家保安本部に任官することによって、組織内部の非インテリ系官僚たち――自分を含めて――日が当たるだろうと言うことを期待していた。
大学など出ていなくても優秀な人間は評価されて然るべきである、と。
しかし、反面、マリーが急速にその権限を拡大していくことがアイヒマンは心穏やかでいられなかった。
――彼女は特別だった。
大学を出ているとか、出ていないとか。そんなことではくくることができない。
子供じみているかと思えば、どこか老成した。
だというのに、いつからだろう。
アイヒマンは自分の目の前の誰もいない空間を睨み付けて小さくうなる。
彼女と顔を合わせることが不快ではなくなっていた。国家保安本部に所属し、勤務すると言うことはアイヒマンにとって多大なストレスとなっていた。ストレスに晒され続けてきたアイヒマンの心に、そして視界に入り込んだ小鳥のような少女。
彼女は昼休みになるとよく椅子を持ち出して眠っているのを見かけた。
彼女が何者なのかと考えるよりも先に、アイヒマンはマリーの存在にあきれながら眉尻を下げる。
無邪気で屈託のない彼女の剛胆さは、アイヒマンには不快ではなくなっていた。もっとも、マリーの上官であるヴァルター・シェレンベルクとはつくづくウマが合わないのだが。
国外諜報局特別保安諜報部。
彼らはいったいどこからの指示と権限で動く組織なのだろう。
その母体となる国家保安本部第六局か、もしくは親衛隊全国指導者個人幕僚部か。
「相変わらずですね、アイヒマン中佐」
皮肉めいた声が聞こえてアドルフ・アイヒマンは咄嗟に立ち上がると踵を鳴らして右手を挙げた。
「ヒトラー万歳!」
アイヒマンの敬礼に応じるように片手を上げたヴァルター・シェレンベルク親衛隊大佐はこつりとブーツの踵を鳴らす。
「ヒトラー万歳」
それほど大柄ではないこの国外諜報局長はアイヒマンのデスクの前を靴音を鳴らしながら往復してから、ちらと横目を滑らせた。
彼はエリート中のエリートで、それはアイヒマンも認めるところだ。
毛嫌いすることと、認めることはまた違う。往々にして自意識過剰な人間ほど優秀な他者の実力を認めることができないものだ、とアイヒマンは常々思う。
シェレンベルクはいつもそうだ。
アイヒマンの前を進んで、アイヒマンには見えないなにかを見つめている。シェレンベルクが考えていることは、とてもではないが彼には理解できるような代物ではない。
「行動部隊からの報告に不審なものがあると聞いたのですが?」
シェレンベルクの物腰は、他のナチス親衛隊高官のような高圧的なそれではない。あえて言うなら物腰が柔らかい程だ。
しかしそれに騙されてはならない。
彼は国家秘密警察防諜部長をしていた頃から”そう”だ。
数多くの諜報活動に関係した生粋の諜報部員。その腹の内などアドルフ・アイヒマンなどには読み取ることなど到底不可能だ。
「こちらから伺うべきところをお越しいただいて申し訳ありません」
型にはまったアイヒマンの言葉に、シェレンベルクは声も立てずに唇の端をつり上げると笑みを浮かべた。
シェレンベルクのそんなところが、アイヒマンは嫌いだ。
腹の内が読めないばかりではなく大学出のこのインテリ筆頭が、アイヒマンのことを侮蔑していたことを知っているからだ。
確かに、とアイヒマンは思う。
――シェレンベルクとは違って自分には根気が足りない。学校も中退しているし、ナチス親衛隊の軍事訓練もいやでいやでたまらなかった。ナチス党のイデオロギーにはあまり関心がなかったが、オーストリアの弁護士の薦めからなんとなく親衛隊に入隊した。自分の人生などそんなものだ。そもそも軍人でもないのにどうして毎日毎日軍事訓練を受けなければならないのか……!
頭の片隅で自虐的なことを思いながら、シェレンベルクに一通のタイプされた書類の挟み込まれたファイルを差しだした。
「東部戦線に展開するアインザッツグルッペンの資料です」
「……ほう?」
四局B部四課のアイヒマンのところには連日前線で展開される行動部隊の報告が入る。それらを統括するのが彼の仕事だ。
アインザッツグルッペンは武装をしているが、最前線で敵部隊と戦う事がその仕事ではない。いわば戦闘のプロとは呼ぶことができない武装集団と言えるだろう。
ちなみに東部戦線で行動部隊が行動できるように国防軍と意見を交わしたのは他ならぬヴァルター・シェレンベルクだったから、彼らの行動の目的がなにかはよく知っている。
アイヒマンの署名の入ったそれに、シェレンベルクは素早く視線を滑らせて顎に手を当てた。
「ふむ」
「ソビエトの反乱軍が、我が軍と共闘をしているというのは聞こえていることと思いますが、問題は奴らの動きです」
「……ロシア人も同じ穴の狢ではあるがな」
アイヒマンに応じたシェレンベルクは眉一つ動かさないまま手元の書類を見つめて、指先で軽くリズムを取った。
「五十年前の破壊、ですか……」
アイヒマンの言葉に、シェレンベルクは頷いた。
十九世紀末にロシアで行われた大規模なユダヤ人迫害は、結果的に多くのユダヤ人たちを西方に向かわせることになった。そして、彼らは東欧、中欧に流れることになった。
「おそらく奴らは、彼らを保護するつもりなど毛頭ないかと」
「つまり、こちらと協力する誠意として、彼らを差しだすだろう、と?」
差しだされても困るんだがな。
シェレンベルクは口の中でつぶやいて鼻から息を吐く。
「中佐はどう思う?」
シェレンベルクが問いかけるとアドルフ・アイヒマンは肩をすくめて見せた。
「えぇ、正直なところわたしとしても差しだされても困る、というのが本音です」
「そんなところだろうな」
短く言ったシェレンベルクは、眉を寄せたままで書類をアイヒマンのデスクに放り投げた。
昔から物覚えは良い方だ。
よほどの事がなければ忘れることはない。
現状ですら特にユダヤ人課では「処理」に頭を悩ませているのだ。占領区に点在する巨大な強制収容所はすでにパンク状態だ。
軍需産業や、土木作業などの作業要員として使える人間はその中の一部でしかない。問題は「使い道」のない人間をどうするかである。
「もっとも、わたしの権限では親衛隊経済管理本部に働きかけることはできませんので、”処置”についてはなんとも」
「言い逃れだな」
ふん、と鼻を鳴らしたシェレンベルクはそうして靴音を立て窓際に歩み寄った。一方のアイヒマンは困った表情のまま苦くわらうとわずかに首をすくめるだけだ。
自分はただの警察官僚でしかない。
「だが、一理ある」
国家保安本部のゲシュタポのユダヤ人課と、強制収容所を統括している親衛隊経済管理本部D部は全く別の組織だった。
簡単に言えばアイヒマンの任務は集めたユダヤ人を貨物列車で移送するまででしかない。
「……ソビエトも自力で処理をしてもらえると、本官としてはありがたいのですが」
ドイツにおけるユダヤ人問題は、占領地域が拡大するに従って明確なものになっていったこと。それをアドルフ・アイヒマンは知っている。
当初、東部の占領地区に移送するだけの予定ではあったのだが、占領地区に在住するユダヤ人が想定以上に多すぎたため政策が追いつかなくなっていった。その「問題」にアイヒマンは昨年から頭を抱えていた。
「ところでシェレンベルク大佐、彼女はいったい何者なんです?」
「彼女?」
「……マリア・ハイドリヒ少佐のことです」
「……あぁ」
マリーのことを尋ねられてシェレンベルクは両腕を組み合わせてじっと窓の外を凝視する。
「亡きハイドリヒ親衛隊大将の血縁の娘だ」
「――……」
なにか言いたげなアイヒマンの表情をあからさまに無視して、シェレンベルクは踵を返した。
「情報が分散しているというのも問題だな」
ぽつりとつぶやいたシェレンベルクはそうしてドアノブに手をかけた。
これは一度、国防軍情報部へと赴くべきなのかもしれない。そんなことを考えながら、彼はアイヒマンの報告書を思い出す。
ソビエト連邦の反乱軍はドイツと手を結ぼうとしている。
彼らの目的は現スターリン政権の打倒。そして、ドイツ第三帝国総統アドルフ・ヒトラーに対しての「誠意」としてユダヤ人を生け贄にしようとしているのだ。
いずれにしろ、いやらしい話しだ。
ユダヤ人問題の専門家とも言われているアドルフ・アイヒマンだが、実際の所としてはシェレンベルクやかつてのラインハルト・ハイドリヒ同様に政治的イデオロギーとは余り関係のない男だ。
アイヒマンに政治的な思想などないことをシェレンベルクは知っている。
国家保安本部に属する者は多かれ少なかれそういった傾向が強い者が多かった。
「シェレンベルク大佐、お気づきかと思いますが、東部の情報でしたら、国防軍情報部が多く握っているかと思われます」
アイヒマンの言葉にシェレンベルクは背中を向けたままで軽く片手を上げる。
わかっている、という彼の意思表示にアイヒマンは小さな溜め息をついた。結局のところ、自分という人間はシェレンベルクなどからしてみれば俗物でしかないのだろう。
「それと、ご存じかはわかりませんが、ハイドリヒ少佐が独自の行動をとっているようです」
「そのようだな」
マリーがアルフレート・ナウヨックスと護衛官を伴ってベルリンの親衛隊の高官たちの間を飛び回っていることはシェレンベルクも知っていたが、彼女の目的は直属の上官である彼も詳細を知りはしない。
「だが、特に我々の損失になるわけでもない、放っておいていい」
「承知しました」




