6 巡らされる策動
――該当者に対しては特別な処置を実行し、さらに、傷病者、あるいは幼い子供やそれらを連れた母親などにも、然るべき医療施設への移送を行うことを命じるものとする。尚、これらの人数を正確に把握し、報告すること。
タイプされた命令書に自分の署名をして、公式な命令であることを示すスタンプを押す。
国家秘密警察局宗派部ユダヤ人課のアドルフ・アイヒマン親衛隊中佐は、一通りの書類にサインをしてから自分のデスクに寄りかかるようにして床に座り込んでいる少女を見下ろした。
階級は自分よりもひとつしたの親衛隊少佐。
高等教育は受けていないらしいが、それでも彼女は一部署を取り仕切る部長であり、さらに親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの個人幕僚部の構成員だ。
少女はアイヒマンのタイプする前の書類に視線を落としながら、その内容に対してなにかコメントするわけでもなく紙をめくる。
ぺらりという音だけがアイヒマンの執務室に響いた。
アイヒマンの副官の男が困惑したように彼を見つめるが、正直なところアイヒマンも困惑している。
ナチス親衛隊という組織は軍事組織ではないためその昇進形態などがやや曖昧だ。時に、かつてのラインハルト・ハイドリヒのように一足飛びに昇進する者も多い。アイヒマンの横にいる少女もまた、そんなスピード昇進を成し遂げた人間のひとりだ。
さらに、階級にこだわらず部署を任されるということもままあり、アイヒマンが中佐で課長であることに対して、かつてはシェレンベルクも少佐で部長。そしてアイヒマンのデスクの横に座り込んでいる少女も少佐で部長だ。
彼女が指揮を執る国外諜報局特別保安諜報部の国家保安本部内での部署の暗号名は第六局G部――ⅥGの異称で通っている。
ちなみにアイヒマンのそこは第四局B部四課――ⅣB4となる。
薄いベージュのツーピースを身につけた少女は、半袖のカーディガンを身につけて、膝丈のスカートを着ており、その前にあるのは壁だからなにもないから良いようなもので、誰かがいればスカートの中身が見えてしまいそうな程ざっくばらんに膝をたてている。
「暇そうで結構なことだ」
「別にそういうわけじゃないんですけど……」
嫌み混じりのアイヒマンの言葉に、マリア・ハイドリヒは顔を上げて小首を傾げるとほほえんだ。
「それにしても行儀が悪いんじゃないか?」
立てられた膝を指してアイヒマンが眉をしかめると、彼を見上げてからマリーは足を抱えて立てられた膝の上に顔を乗せると「うーん」と考え込んだ。
どうやら一部の高官を除いて、他の者たちは自分と同等であるという認識に落ち着いたらしく、アイヒマンらに対しては屈託のない無邪気な反応を返す。
つまるところ、そうなると彼女が正しく礼を持って接する相手というのは、ドイツ第三帝国内にあってそれほど多くないということになるのだが、まったくもって不愉快極まりないことに彼女は一部署を束ねる部長級の役職者なのだ。
それがアドルフ・アイヒマンにはおもしろくない。
おもしろくないものの、決まってしまった人事は覆しようもない。
要するに、彼の機嫌が悪化するのはそこに原因があった。
加えて彼女は先日相当官邸の不穏分子を逮捕した件で、第二級鉄十字章を授与されている。
憮然として唇を引き結んだアイヒマンは、デスクに頬杖をついて長く鼻から息を抜いた。
結局彼女は、自分の執務室になにをしにきたというのだろう。
怒鳴りつけて追い返したいが、部長級の人間相手にそんなことができるわけもない。そのうえ、マリーの下に配置されているのがふたりの法学博士――ヴェルナー・ベストとハインツ・ヨストときたものだ。
機嫌の悪さを隠しもしないアイヒマンは視界の端にちらつく金髪の頭に、何度目かの舌打ちをするのだった。
「そうですか?」
「スカートで膝を立てるもんじゃない」
アイヒマンのもっともらしい苦言に対してマリーは「はぁい」と返事をすると、書類を片手にしたまま立ち上がる。
それは先ほどアイヒマンが決済したユダヤ人の特別な処遇に対する書類の下書きだ。布地をたくさん使用したフレアースカートは膝丈で、床に座り込んでいたためについたかもしれない埃を軽く払うと、彼女はソファへと移動した。
背中の中央まで届くほど長いストレートの金髪に目を奪われたアイヒマンは一瞬後に我に返るとかぶりを振ってから溜め息をついた。
どうしてこんな子供の相手をしなければならないのだろう。
そもそも彼女の身分を証明するものが腕章と髑髏リング、そして服装によってついたりつかなかったりする鷲章のスカーフピンやSS徽章だけというのも余りにも異例すぎる。
規律に厳しい親衛隊長官らしからぬ采配がアドルフ・アイヒマンに疑念を募らせた。
――特例中の特例。
確かに年若い少女でしかないマリーが制服などを身につければ、それこそテロリズムの恰好の餌食になるだろう。
先頃の銃撃事件の時と同じように。
おそらくそれ以上。
だから彼女に制服をあつらえないのだろうか?
いや、それだけではないのかもしれない。
そんなことをアイヒマンは考えるが、結局のところ判断材料の余りの少なさに思考を放棄するに至った。
「その書類がどうした?」
興味深げに書類を読みながら考え込んでいるマリーにデスクから問いかけると、少女は頷いてから指先で紙の角を弄んだ。
「いえ、面倒臭そうだなと思っただけです」
「……面倒?」
書類に記された「特別な処置」という言葉には言及しない彼女は、視線を上げて首を回すとアイヒマンを見つめてからそっと笑った。
いつも彼女はこうだ。
アイヒマンが見る限り、どんなときでも笑顔を絶やさない。
そういえばつい先日襲撃された時は、さすがに怯えて錯乱状態に陥ったらしい。剛胆に見えても普通の子供なのだろうか。
埒もないことに考えを巡らせながら、アイヒマンはデスクから立ち上がると少女の座るソファに背後から近寄るとその手の中から書類を取りあげた。
「大きな収容所はあちこちで稼働していますけど、それで処置とやらは追いついているんですか?」
彼女の言う言葉にアイヒマンが片眉をつり上げる。
――処置。
「追いつかせるよう指示を出している」
「そうですか」
感慨もなく応じたマリーは、取りあげられてしまった書類を視線で追いかけながら考え込んでいるようだ。
もっともアイヒマンなどからしてみれば、マリーは国外諜報局の人間であって彼はゲシュタポの人間だ。つまりマリーにはユダヤ人問題について口出しをする権利はないということになる。
その責任と、権限を一手に統括するアイヒマンはユダヤ人、及び強制収容所に収容される”人間”たちの生殺与奪を握っているということになる。その彼の執務室にマリーが訪れたのはつい一時間ほど前のことだ。
「君は、どこまで知っているんだ? ハイドリヒ少佐」
「秘密です」
即答した少女は、そうしてひらりと立ち上がる。
いつ見ていてもそうなのだが、マリーの動作は軽やかで小鳥のような印象も受けるのだが、なにせ人一倍と言っても良いくらい体幹のバランス感覚が悪い。
今も”そう”だ。
踵に重心をかけていたせいか、きれいに磨かれた床の上で背中から勢いよく後方へ倒れ込んだ。
そのまま放っておけば後頭部を打ちかねない勢いに、アイヒマンは咄嗟に腕を伸ばした。
彼の腕の中に落ちてくるのは華奢で頼りない体は思った以上に軽くて、アイヒマンは息を飲んだ。
「……危ないだろう」
「ありがとうございます」
驚いた様子で大きな青い瞳をまたたかせた彼女は、アイヒマンの腕に支えられながら立ち上がると踵の少し高くなっているサンダルを履いた足で床を踏んだ。
「君は足元が頼りないから余り踵の高い靴は履くべきではないと思うが」
小言のように始まるアイヒマンの言葉に、マリーが微かに笑った。
「シェレンベルクが選んでくれたんです」
彼女が呼び捨てにするのは、国外諜報局長と国防軍情報部の長官だ。
「……ふむ」
ヴァルター・シェレンベルクとアドルフ・アイヒマンは、同じように国家秘密警察に所属していた頃からウマが合わない。
ただでさえシェレンベルクは国家保安本部に入職したばかりの頃から、大学出身のエリート筆頭だった。
大学出身のエリートたちのことをあまり好ましく思っていないアイヒマンと、大学も出ていないアイヒマンを侮蔑の対象としてしか見ていないシェレンベルクではまるで水と油だ。
もっとも、今のマリア・ハイドリヒの首席補佐官を務めるヴェルナー・ベスト博士が、国家保安本部に採用する者を大学出身の法学に素養がある者とする提案をした時に、当時の長官であったラインハルト・ハイドリヒのみならず、ゲシュタポ局長のミュラー、そしてアイヒマン同様に、シェレンベルクも提案に対して反対したものだ。これについては未だにアイヒマンにはシェレンベルクの本意はさっぱり理解できない。
「シェレンベルク大佐か……」
マリーから奪った書類を小脇に挟んだまま、アイヒマンは顎に片手を当ててぽつりとつぶやくと、彼の執務室を出て行く少女の後ろ姿を見つめた。
不慣れなナチス式の敬礼は余り小気味良くはないが、うっかりきびきびとした動きをしてまた転んだら目も当てられない。
なにより彼女の態度をそれで良しとしているのは、直接の上官であるシェレンベルクばかりではなく、親衛隊全国指導者たるハインリヒ・ヒムラーもそうなのだ。
一介の課長でしかないアイヒマンなどが口出しをするべくもなかった。
「つまり、国家保安本部の情報官がまた狙われたということなのかね?」
神経質な声にハインリヒ・ヒムラーが縮こまった。
ナチス親衛隊の情報将校が狙われることは少なくはない。
どの国家もそうだ。
互いに戦争をしている以上、敵対する国の情報を手に入れようとすることはごく当然のことで、それが厳しければ殺害に及ぶこともままある。
「……そうなります」
ヒムラーの言葉に、ドイツ第三帝国の国家元首アドルフ・ヒトラーは眉間に皺を寄せたままで小さく頷くと沈黙を横たえる。
それからややしてから「そうか」とつぶやいて、わずかに機嫌悪そうに窓の外を眺めた。
「噂では、例のハイドリヒ嬢だそうだが」
「……失態を申し訳ありません」
「失態を責めているわけではない」
不機嫌なヒトラーの声に、ヒムラーはハンカチで額に浮かんだ冷や汗を拭う。こんな時にラインハルト・ハイドリヒが健在であれば、なにかしら良案をヒムラーに伝授してくれるのだが、そんな冷徹で冷静な優秀な国家保安本部長官は今はいない。
もちろんラインハルト・ハイドリヒの存在を煙たいと思ったことは多い。
ハイドリヒがいる限り、ヒムラーの思うようになることは少なかった。
しかしそれでも、ハイドリヒは多くの意味で世渡りのうまさでヒムラーの決定を実行し続けてきた。
「年若い少女が親衛隊の情報将校である以上は、敵だとてそこを狙ってくるのは必定。ヒムラー親衛隊長官、自分の部下の身の安全にもう少し配慮すべきではあるまいか?」
「善処いたします」
「期待する」
背中で組んだヒトラーの左手が小刻みに震えている。
それにヒムラーは気がつかない振りをして、目をそらすとわざとらしくブーツの踵を鳴らした。
ごく最近のことだ。
親衛隊全国指導者個人幕僚部の長官カール・ヴォルフ親衛隊大将を通じてヒムラーはある報告を受け取った。
マリア・ハイドリヒ親衛隊少佐がナチス親衛隊の軍医ヴェルナー・ハーゼ親衛隊少佐に接触を持ったらしい。
ヴェルナー・ハーゼはヒトラーの個人的な医師団の一員だ。
そんなハーゼにマリーがどうして接触したのか。
それがわからない。
考えても考えても答えの出ないことばかりで、ヒムラーは敬礼をするとヒトラーの執務室を出て行った。
ハインリヒ・ヒムラーは、このまま事態を放っておけば残された時間がわずかであることを知りはしなかった。




