5 混乱の先
社会というものはいくつもの数え切れない歯車が組み合わさって構築されるものだ。それは「彼女」も同じ。
ナチス親衛隊という組織に、唐突に現れたひとつの歯車の存在。
すり減り、油の切れかかった数多くの歯車はいずれ訪れるだろう破滅に向かって加速していく。ガラガラとイヤな音を立てて、耳障りで不快な音をたてる。そんな世界に降ってきた他愛のない小さな小鳥は非力でかよわく、そして頼りないゆえにささくれた男たちの心の中にそっと入り込んだこと。
弱者、というものは誤解するが、力を振るう者たちも、「弱者」同様にやはり弱い部分を併せ持つ人間なのだ。そんな彼らをまとめあげたかつての存在――ラインハルト・ハイドリヒ。彼の存在なくして、今の国家保安本部はないと言っても過言ではない。
強烈なカリスマ性を持った男。その男がイギリスに逃れていたチェコスロバキア亡命政府の手によって暗殺されて以来、国家保安本部は急速にその力を失いつつあった。
東部、及び西部での戦局が悪化する中で、ドイツ本国と占領地区の警察機構を一手に握る国家保安本部内部の権力争いは熾烈さを増し、さらに急速に体制が腐敗していく。もっとっも特権を持つ故に崩壊の一途を辿っているのは国家保安本部だけではない。その母体となる組織そのもの――ナチス親衛隊が腐敗と汚職に晒されていた。
苛立たしいものを感じざるを得ない人事局長であり国家保安本部長官代理を務めるブルーノ・シュトレッケンバッハは知己であり、かつて互いに権力の階段を上ったライバルでもあるハインツ・ヨスト親衛隊少将の自宅を訪ねた。
東部戦線の極めて過酷な任務はヨストの精神をすっかり疲弊させ、国家保安本部の要職からも遠ざけられてしまうほど消耗しきっていた。要するに、とシュトレッケンバッハは思う。
体よくハインツ・ヨストは国家保安本部から干されてしまったのだ。もちろん、ヨストの東部戦線での失態も大いに理由にはなったろう。しかし、それだけではあるまい、というのがブルーノ・シュトレッケンバッハの見解だった。
そんなヨストは戦争が終わるまで閑職で忘れられたまま放置されるだろうと思われたのだが、国家保安本部第六局に籍を置くことになった少女の手で救われた。
特別保安諜報部長の次席補佐官の椅子だ。
「久しぶりだな、ヨスト」
「貴官は相変わらずなようだな、よく訪ねてくれた」
来訪した友人の肩を軽くたたいて出迎えたヨストは東部に送られる以前の彼に戻りつつあるようにシュトレッケンバッハには感じられる。
「六局の局長から部長補佐官に降格で相当へこんでいるんじゃないかと思ったが、そうでもなさそうじゃないか」
シュトレッケンバッハの言葉にヨストは苦笑すると旧知のライバルにソファをすすめた。
夫人がコーヒーを運んできて、改めてふたりだけになったのを確認してからヨストは脚を組んでから息をついた。
「正直、最初は落胆もしたが、東部での任務に比べれば、な」
「そんなだから国家保安本部から干されるんだろう」
「そうは言っても、これがわたしの性格だからな」
言いながら小首を傾げた彼はシュトレッケンバッハを見つめてから、指先で肘掛けを軽くたたいてみせる。
「そんな話のためにうちにきたのか?」
落ち着いたヨストの物腰に、一局の局長は「いや」と言いながらかぶりを振った。
別にコーヒーブレイクをしにきたわけでもなかろう、と言うハインツ・ヨストの指摘にシュトレッケンバッハは鋭い眼差しを滑らせる。彼の言うとおり、茶飲み話のためにヨストの自宅を訪れたわけではない。
「なかなか率直に話せる相手という者がいなくてな」
シュトレッケンバッハが言葉を選びながら告げると、ヨストはかすかに目を細めてからコーヒーカップをもてあそんだ。
「……つまり、うちの”部長”のことか?」
「SDの親玉……、あのふたりはどうにも狸だからな」
国内諜報局長、オットー・オーレンドルフ。
国外諜報局長、ヴァルター・シェレンベルク。
彼らから、シュトレッケンバッハの望む答えを聞き出せるとも思えない。それが彼の本音だ。
「わたしだってもとは六局の局長だ。彼らと似たような考えをするとは思わないのか?」
「だが、今は違う」
「なるほど」
応じたヨストは紙巻きタバコに火をつけながら首を傾げると考え込んで、シュトレッケンバッハに視線を戻すと煙を肺に吸い込んだ。
「もっとも、貴官が思うよりも大きな秘密を抱えているのかもしれんが」
そう言ったヨストにシュトレッケンバッハがうなずいた。
形の上ではヨストが所属する特別保安諜報部は国外諜報局指揮下の一部署にすぎない。
しか、その部長であるマリア・ハイドリヒの身につけるカフタイトル――RFSSが示す通り、現実は親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーの権限において独立した諜報活動を行い、その報告の一切は親衛隊全国指導者個人幕僚部長官カール・ヴォルフに上げられるということになっている。
もっともそれはあくまでも形式的なものであって、実際のところはどのような経路で報告があがっているのか不明だった。
「少なくとも、現役のふたりよりは聞きやすい、といったところか」
「すまんな」
「いや、かまわない」
シュトレッケンバッハの謝罪に、ハインツ・ヨストは片手を振って知己のそれを受け流す。
「それで、聞きたいことというのは?」
互いにライバルとして凌ぎを削ってきた身だ。
対等だという自覚はあった。
「……先ほども言ったとおり、貴官の部長のことだ」
特別保安諜報部長マリア・ハイドリヒ親衛隊少佐。一足飛びに昇進した異質な親衛隊将校だ。
「特別保安諜報部の部長がどうした?」
仮にも国家保安本部に所属している限り、人事局長であるブルーノ・シュトレッケンバッハのほうが事態を把握しているのではないか、とヨストが暗に問いかける。
彼はつい先日、東部戦線から帰国したばかりだ。
「わたしはここのところの国内の事情にはあまり詳しくはないからな」
「嘘をつくな、戦場のストレスで状況把握能力が地に落ちたと言うんじゃあるまいな?」
シュトレッケンバッハの言葉にヨストは小さく肩をすくめてみせる。
「国防軍の連中は、我々を正しく冷徹な生き物だとでも思っているらしい」
「そんなところだろう、ヨスト」
シュトレッケンバッハもポーランド戦においてアインザッツグルッペンの指揮を執り、国防軍陸軍のナチス親衛隊に対する見解を知っている。
そしてその逆もだ。
国防軍はナチス親衛隊を嫌悪し、ナチス親衛隊は国防軍を嫌悪する傾向があった。もちろんそれが全てではない。それでも、行動部隊に関する限り、互いに相容れないものを感じていることを指揮官を経験したふたりは知っていた。
その任務は過酷で、アルコールの力を借りなければ任務遂行が難航するほどのストレスに晒されるというのに、国防軍の将兵たちはそれを理解しようとしない。それが、ナチス親衛隊の将兵たちが国防軍を嫌悪させる。
――国防軍の奴らは、親衛隊に汚れ役ばかりを押しつけている。
「話しを戻そう。ハイドリヒ少佐のことだが、彼女はどこまで計算している?」
率直すぎるほど率直なシュトレッケンバッハの言葉に、ヨストは数秒だけ考え込む素振りを見せた。
「……そうだな」
まだ彼女と共に仕事をはじめて一ヶ月もたっていない。
つきあいが浅すぎて判断を下すにも情報量が少なすぎる。しかしハインツ・ヨストは知己の問いかけに真剣に言葉を選んだ。
情報量が少なくても、判断材料にはなる。
もちろん完璧な判断というわけにはいかないのだが。
「どこまで計算しているのか、と聞かれてもな……」
天井を睨み付けてヨストはつぶやいた。
「少佐はどうにも頭の切り替えが早いからな。貴官も見ただろう? 銃撃されたというのに翌日にはあれだ。気にはしているのかもしれんが、市井の年頃の少女たちのように引きずる訳じゃない」
「それのことだが、妙だとは思わないのか?」
シュトレッケンバッハに問いかけられて、ヨストはわずかに視線を流す。
「俺は精神科医じゃない」
ばっさりと言い切ったヨストがひとつ咳払いをすると、肘掛けに腕をついてから短くなったタバコを灰皿に押しつけた。
「普通の子供なら、女の子なら……。自分が狙われた翌日に平然としていることなどできないだろう。怯えて、挙動不審になるのが当たり前だ。だが、マリア・ハイドリヒ親衛隊少佐はまだ少女であるとはいえ、国家保安本部の一員だ。そう考えれば、落ち着いていても当たり前なのかもしれん」
考え込みながらゆっくりと言葉を吐きだしたハインツ・ヨストに、ブルーノ・シュトレッケンバッハは顎に指を当てたままで眉間を寄せると考え込んだ。
刑事警察局長アルトゥール・ネーベの言うところによれば、マリーは襲撃された直後、ひどく取り乱して泣き叫んでいたという。しかし、翌日にはけろりとした表情でいつもと同じように勤務していたこと。
それは彼女を護衛したSDのウルリヒ・マッテゾンも言うところだ。
彼女は恐怖心を持ち越していない。しかしもっと奇妙だと思うのは、天真爛漫とも言えるマリーの笑顔。
翌日のマリーを見かけたが、彼女は恐怖ばかりではなく怒りも困惑も、その瞳の中に浮かべてはいなかった。
「だが、俺も気にならなかったわけではない」
訝しげな人事局長の眼差しに、ヨストは自分の胸の高さで軽く人差し指を振りながら続けた。
「……というと?」
「翌日、聞いたのだ。君はまた狙われるかも、という可能性については考えないのかね? と」
そうしたら何と言ったと思う?
ヨストが苦笑する。
「そう聞いた俺に彼女はこう言ったのだ」
――そのときはそのときでまた考えます。
にっこりと笑って、いつものように朗らかに。
「……ここだけの話しだが、彼女はおそらく化け物だ」
しばらくの沈黙を挟んでヨストはぽつりとつぶやいた。その双眸はシュトレッケンバッハを見てはいない。
「化け物と言っていいのかもわからんが、それでも、彼女は我々の理解の範疇など越えている」
それがヨストが出した結論だった。
思うところは山ほどあるが、それでも彼女の行動基準がドイツ第三帝国の利益のためということだけは理解できたから、彼は彼女の思考形態について考えることをやめた。
「シュトレッケンバッハ、ひとつだけ俺が忠告できるとしたら、うちの部長を理解しようと考えるな。理解しようとするだけ無駄だ。まともな頭じゃ理解なぞできん」
人差し指を立てて告げたヨストに、シュトレッケンバッハは黙り込むと無言のままで頷いた。
よく言えば切り替えが早い。
しかし、悪く言えば人間味に欠ける。
いつも笑顔をたたえているからこそ、人間味に欠けるとヨストは感じるのだ。
「おそらく、ベスト博士もそう思っているだろう」
ラインハルト・ハイドリヒが冷徹なために人間味に欠けると影で囁かれていた事とは真逆の意味で、マリア・ハイドリヒは人間味に欠けている。
まるでよくできた人形のようだ。
「なるほど。では次に誰かに彼女のことを聞くときは、医者にでも聞くとしよう」
「それがいい」
シュトレッケンバッハに苦く笑ったヨストは、タバコを一本差しだしてからマッチを箱ごと放り投げた。
「貴官も苦労するな」
「全くだ。だが親衛隊長官を押さえ込んだ姫君の手腕には目をみはるものがある」
人間味に欠けるゆえに、マリーは国家保安本部を掌握しようとするハインリヒ・ヒムラーの暴走を押さえ込んだ。もっとも、彼女の本意がどこにあるのかはわからない。
そして、そればかりではなく一度は内部分裂しかけたナチス親衛隊という組織を、マリーがつなぎ合わせたのだ。それがどういうことなのか、言うまでもなかった。
ナチス親衛隊は潔癖であれ、というのがハインリヒ・ヒムラーのモットーであるが組織であり金が絡む以上はそうもいかないのが人間の性だ。
気の滅入る話題に終止符を打ったシュトレッケンバッハはやれやれと笑いながら、ヨストに手渡されたタバコに火をつけると深く煙を吸い込んだ。
ハイドリヒ派のシュトレッケンバッハを含む国家保安本部の幹部将校を要職から外しにかかっていたヒムラーが、まるで蛇に睨まれた蛙のようにその行動を取りやめたのだ。シュトレッケンバッハにしろ、ヨストにしろマリーの行動によって首が繋がったといっても過言ではない。
「長官も、だいぶアテが外れたようだな」
「そのようだ」
ウィーンのエルンスト・カルテンブルンナーや、突撃隊のヴィクトール・ルッツェを巻き込んで、大きなうねりが生まれているのをシュトレッケンバッハは感じていた。
決してヒムラーの思惑通りになどしない。
権力が一カ所に集中しているとろくな事がないと相場が決まっている。優秀な人間のもとで集中しているならば良いのだが、ハインリヒ・ヒムラーはそうではなかった。
「ではわたしはこれでお暇させていただこう」
ヨストを訪ねた時と比べるとだいぶ肩の力の抜けた眼差しでシュトレッケンバッハはほほえむと颯爽と彼の自宅を出て行った。




