2 テリトリー
目の前で盛大に転んだ少女に対して、日々の肥満と運動不足がちなことによる体力低下のたたったアドルフ・ヒトラーには咄嗟に俊敏に行動して彼女が後頭部を強打するところを救ってやることなどできはしない。仮に、ヒトラーの体力が万全で、運動神経が申し分なかったとしても、執務机という障害物を挟んだ状況で彼女を救出してやることなど無理なことだっただろう。
ヒトラーは「不慮の事故だ」と微妙な居心地の悪さを感じながら、内心で自分自身に言い訳すると診察室からテオドール・モレルが姿を現すのを待った。
――彼女が転んだのは自分のせいではない。
本来、国家元首でもあるアドルフ・ヒトラーが一個人の診察を廊下で待っている必要などないのだが、なぜかそわそわした胸騒ぎを感じた彼は総統官邸にある診察室に続く扉の脇に椅子を準備させてそこに座っていた。
腕を組んだままでじっと考え込む。
本来、アドルフ・ヒトラーには壮麗なほどの派手好みはない。
おおよそ彼の側近たちが勝手に計画したものだと言ってもいいだろう。
「道具」はシンプルであればいいのだ。
診察室からドアノブの回る音が聞こえてきて、数秒遅れて立ち上がったヒトラーが主治医を務めるテオドール・モレルの姿を認めたまさにそのとき、「ハイル・ヒトラー!」というしゃちほこばった声を耳にして、モレルを見てから声のする方向に視線をやった。
組織として。
金髪の少女――マリーがナチス親衛隊の国家保安本部の所属と言うこともあって、ヒトラーは当然のように、ヒトラーの親衛隊の長官を務めるヒムラーに連絡をいれたのだ。
訪れたのは二人の高官だ。
ナチス親衛隊全国指導者、ハインリヒ・ヒムラー。
ヒムラーの主治医であり側近ともひそかにささやかれるカール・ゲープハルト親衛隊中将。
「これはモレル博士、どうですかな。患者の様子は」
形式的なヒトラーに対する挨拶もそこそこに、カール・ゲープハルトは素早く進み出るとモレルの背後に開いた扉の内側へと視線を走らせた。
「今し方、目を覚ましたばかりですが、これから痛み止めの処方でもしようかと思いましてな。いったん研究室へ戻ろうかと思います」
「そういう話でしたら、以降は本官が彼女の診察を引き継ぎいたしますので、ご心配されなくても結構です。彼女の既往歴は全て本官が把握しておりますし、投薬の記録もこちらにあります」
モレルが言い終わらないうちに、てきぱきと言葉を綴っていくゲープハルトがヒトラーの主治医を押しのけようと、腕を上げたときに背後から動揺したようなか細いヒムラーの声が響いた。
「ゲ、ゲープハルト中将……」
「……――なにか……?」
自分の患者が中にいるのだからそちらを優先して然るべきだ、と考えかけてらゲープハルトは内心で「しまった」と舌打ちした。
テオドール・モレルに対する良い噂を業界内で聞いていないことと、マリーが転倒して後頭部を強打したという事件がゲープハルトの心をあからさまに逸らせた。
ここは総統官邸である。
つまるところ、モレルの機嫌を損ねることは余りゲープハルトにとってもヒムラーにとっても、そして患者であるマリーにとっても好ましい状況に発展しかねない危険性が秘められている。
ヒトラーの主治医――皮膚科のテオドール・モレルは自尊心が高く権力欲の塊だ。もちろん、この世に「男」として生まれて自尊心がかけらもないという男など存在するわけもないわけだから、モレルの感覚が普通のものなのだ。
それはゲープハルトにもわかっている。
脳外科などはまだまだ発達段階にある分野でもあり、ゲープハルトにとっても専門外と呼べるのだが、それにしたところで皮膚科のモレルに比較すればまだまだ多くの患者たちを目にしてきたという自負があった。
それでも……――。
国家元首アドルフ・ヒトラーの主治医と、ヒトラーの親衛隊長官のハインリヒ・ヒムラーの主治医では立場が大きく異なることもまた事実だ。
モレルのゲープハルトに対する不満げな眼差しを受けて、ヒトラーの眼差しがやや不愉快げなものに変わったことに、一方でハインリヒ・ヒムラーが青白い顔のままなにかを訴えかけでもするかのように幼なじみの意志に視線を送ってくる。
「……総統閣下」
言葉に詰まったゲープハルトがやっとそれだけ口にすると、モレルがこれ見よがしにゴホンと咳払いをしてみせる。
「……彼女は一介の親衛隊員であって、今回の一件は閣下の主治医のお手を煩わせるようなことでもございませんので」
言い訳でもするようにもごもごと言葉を綴ったヒムラーを睨みつけたモレルは、不満そうな顔のままでヒトラーの決定を待った。
国家首脳部に属するのはヒトラーとヒムラーであって、モレルやゲープハルトなどではない。医師たちには、どんな決定が下されようとも、結果的に彼らの決定に従うことしかなかった。
小心者のハインリヒ・ヒムラー。
彼の権力は、彼が束ねる高級官僚を含めたナチス親衛隊の知識人たちによって約束されたものだ。逆に言えばヒムラーがいなければ、ヒムラーの指揮下の高級官僚や知識人たちは発言権を得られず、その逆に部下たちの知性と手腕がなければヒムラーの権力は存在しない。
「彼ら自身」にとって、互いは互いの権力を高めるための最良の道具であること。
その図式を、テオドール・モレルは知っていたし、だからこそ軽蔑的な眼差しを向けてもいた。彼らは自らの才能と手腕だけで現在の地位にいるわけではない。
「……モレル博士は、どう考える?」
長い沈黙を破ったのはヒトラーだった。
「ゲープハルト親衛隊中将のもとに、過去の診療記録がそろっているということであれば、申し分もありませんし、彼女の主治医を務めてきたのもまたゲープハルト親衛隊中将でいらっしゃるならお任せすることにも否やはありません」
時に医師同士というものはこういうものだ。
名誉と地位のある知識人のひとりとして、互いが牽制しあい相手に自分の領分に踏み込まれることを傍から見れば異常に思えるほど忌み嫌った。
「モレル博士がそう言うなら、彼女に関する診察は今後ゲープハルト中将に任せたいと思うが、どうだね? ヒムラー長官」
どこの馬の骨ともわからない子供などゲープハルトに一任するから、国家元首の主治医という立場に君臨する自分の邪魔を決してしようとするな。
そうしたモレルの態度は明白にカール・ゲープハルトには伝わってきて、ナチス親衛隊に名前を連ねる高名なエリート内科医は鼻白んだ。
モレルなどにマリーの診察を任せて、必要のない余分な投薬でもされれば抵抗力もなければ体力も雀の涙の少女の体が悲鳴を上げるばかりだろう。医師としての立場から考えれば、おおよそヒトラーの血の気の失せた白い顔と異常な肥満も気にかかるところではあったが、ゲープハルトはヒムラーの幼なじみとは言えヒトラー付きの医師ではない。
早い話が「知ったこと」ではないのだが、世の中というもの勢力の衰えた国家元首が人前に立つと言うことはそれほど好ましい事態でもないような気がする。
国家を代表する人間のひとりとして、壮健で力強くあらねばならない。
そんなことを頭の片隅にちらりと考えてから、その場にいる人の男たちには気づかれない程度に小さく左右にかぶりを振った。
ヒトラーの健康問題など、モレルに任せておけば良い。
せいぜい、医者などという人間は政治活動にのめり込んだところで、良い結果など見いだせそうにもないものだ。
ならば己の領分をわきまえるべきである。
「そういうことでしたら、失礼いたします」
ゲープハルトは小さくモレルに頭を下げた。
一方でモレルとヒトラーから凝視される形になったハインリヒ・ヒムラーのほうはというと、余りの居心地の悪さにゲープハルトの後ろについて、モレルの診察室に向かって踏み出そうともしたが、結局、扉から先は医者の領域であると言うことに思い至って、首をすくめたままで小さなため息をついた。
「ヒムラー長官、なにも貴官が緊張することはないだろう」
ヒトラーに告げられて、ナチス親衛隊全国指導者を務める小心者の男は、きょろきょろと辺りに視線を巡らせながら挙動不審の動作を繰り返した。
レームの突撃隊の指令下にあった頃から、ヒムラーの印象には大きな変化は見られない。生活はそれなりに質素で、巨大な権限を振りかざす権化といった印象からは遠く隔たっている。
国家社会主義ドイツ労働者党の幹部であり、国家首脳部の幹部でありながら、ヒムラー同様に影が薄いのはおそらく、かつてイギリスに単独飛行を行ったルドルフ・ヘスくらいのものかもしれない。
ヒムラーはそんな男だ。
「いえ、本官の指令下にある親衛隊員が総統閣下には大変な失礼を働いたようで……」
ヒトラーの護衛の目をまんまとすり抜けて、アドルフ・ヒトラーを早朝から起こしに行っていたなど、聞いただけでもぞっとするし、その報告を国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナーからほとんど受け取っていなかったということにもぞっとする。
つまるところ、それはヒムラーの管理不行き届きを指摘されてもおかしくないことでもあった。
額ににじむ脂汗を指先で拭ってから、萎縮した様子でうなだれてしまった。
せっかくナチス突撃隊のエルンスト・レームを陥れてやっとの思いで手に入れた権力だというのに、権威というものはかくも容易に失墜するものだ。
現在という時代は、歴史書に記された時代ほど法なき法がまかり通る時代というわけでもないが、だからといって個人の命が法律によって確実に尊重されるというわけでもない。ヒムラーらが生きる時代とは、そんな不安定な時代だ。
「だが、別にテロリストが侵入したわけではあるまいし。そもそも警護が厳重とは言えなかったのは彼女の責任でもあるまい。もっとも、冬の間中、彼女には毎朝決まった時間にたたき起こされたからたまったものではなかったがね。そのうち夜更かしをほどほどにするように学習したよ」
いくつになっても学習は必要なものだな。
付け加えてから、目元を下げるようにしてかすかに笑ったヒトラーは恐縮しきっているヒムラーから視線を移動して、モレルの診察室から金色の髪の少女を支えるようにして出てきたカール・ゲープハルトを見やった。
「……寛大なご処置を、感謝いたします。我が総統」
ヒムラーは大組織の長官としてのどから声を絞り出すようにしてやっとそれだけ言うと、ヒトラーに対して敬礼した。
「帰って彼女の診察もあるだろうから、早く帰りたまえ。ヒムラー長官」
「はい、失礼いたします」
ヒトラーの前から辞したヒムラーは、しばらくしてからモレルとヒトラーの視線を感じないところまでたどり着いてからようやく肩を落とすと、なぜだか腹の底から安堵とも怒りとも呼べない感情がふつふつとわき上がってくるのを感じて、唇をへの字に曲げた。
そもそもたかがヒトラーの主治医ごときに偉そうな顔をされるのは愉快ではない。マリーが無事だったと安心して彼女の目を見たら、不用意な行動を咎めようと思っていた気持ちも影を潜めてしまって結局、口にしたのは別のことだった。
「どうだね? 後遺症などの心配はないのかね? カール?」
「専門の設備もないから診断をつけるのは難しいが、ぱっと見たところ言語障害もないし記憶障害も筋力や知覚には問題がなさそうだから、様子を見れば良いだろうな」
「……――つまり、問題はない、と?」
「ただし、頭を強く打っているから今日は家に帰して自宅安静にした方が良いだろうな」
特別な既往歴がある年寄りではない。
体力はないが健康な子供なら、それで十分だ。
総統官邸から出て公用のベンツに乗り込んだ親衛隊長官と、その側近の医師と、彼らに連れられたひとりの少女はこうして国家保安本部に戻ることになった。
もっとも、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに位置する国家保安本部に戻ったら戻ったで、心配の余り揉み手をしてエントランスで右往左往して待ち構えていたカルテンブルンナーに、同じような説明をする羽目になったゲープハルトだった。
放っておけばマリーが無事であることに感激して力一杯ハグでもしそうな国家保安本部長官と少女との間に、するりと割って入ったのは赤い毛並みの印象的なシェパードだ。
「では、そのまま帰宅して自宅療養をするように」
かろうじて感情を抑えたカルテンブルンナーはそう言って、今度はゲシュタポのミュラーに新たな命令を出すために自分の執務室へと踵を返した。
それから自宅へ戻ったマリーのアパートメントに、護衛の名目でミュラーから命令を受けたゲシュタポの捜査官の青年が微妙な面持ちで現れるには一時間も要さなかった。
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