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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
V トールハンマー
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4 鉄槌を下す者

 敵、と言う言葉の定義はひどく曖昧だ。外国の軍事的な脅威のみならず、国内の敵性分子、反体制分子だけではない。

 その日の仕事を終えたオットー・オーレンドルフは自分の執務室に鍵をかけると廊下へ出た。それほど急ぐ予定がこれからあるわけでもない。ゆっくりと歩を進めながら、窓ガラスから差し込む夕暮れの日差しに目を細めた。

 国家保安本部の中庭に面した廊下にさしかかったとき、オーレンドルフは目の前に広がった光景に思わず小首を傾げた。

 セーラーカラーのノースリーブのワンピースを身につけた少女が壁に背中を預けて、床に座り込んで眠っている。頭からずり落ちたマリンハットは無造作に床に転がっていた。

 あきれた様子で溜め息をついたオーレンドルフは思わず足音を忍ばせる。ゆっくりと近づいて帽子を拾い上げてからそれ以上どうすればいいのかわからなくて沈黙した。

 自分がいっそ無粋な男であるということを自覚している彼は帽子を手にしたままで途方に暮れる。

 こんなところで眠っているなど、本来であれば一喝してたたき起こすところなのだが、なぜだろう。そんな気分すらはばかられて再びオーレンドルフは溜め息をつく。

 ややしてから少女の隣に腰を下ろした彼はぼんやりと彼女が見ていただろう窓の外に広がる空を見上げる。

 危機感のかけらもなく眠るマリア・ハイドリヒ。

 その頭がやがてオーレンドルフの肩にもたれて寄りかかる。そんな少女をそのままにして起こすこともしない男と彼女の周りに流れるのはひどく穏やかな時間。

 ざわめきが遠くに聞こえるような気がして、オットー・オーレンドルフは立てた自分の膝に片腕を乗せたまま薄闇に支配されようとしていく空を見つめていた。

 それからしばらくして、人の気配を感じたオーレンドルフは顔を上げる。

 何をしているんだ、と言わんばかりの国家保安本部長官代理であるブルーノ・シュトレッケンバッハ親衛隊中将の視線にぶつかってオーレンドルフは苦笑した。

 隣で彼の肩にもたれて眠る少女を軽く揺らす。

「起きなさい、少佐シュトゥルムバンヒューラー

 まるで教師が生徒に対して告げるようなオーレンドルフの声にマリーはゆるゆると長い睫毛を上げた。

「廊下で寝てはならん、という規則を作るべきかな? オーレンドルフ少将」

 シュトレッケンバッハの嫌み混じりの言葉に、国内諜報局長は小さく肩をすくめてみせる。

「規則がないなら、彼女の行動は問題ないはずでは?」

「……ふん」

 鼻を鳴らしたブルーノ・シュトレッケンバッハは鼻白んだ様子で床に座り込んで眠っている少女を見下ろした。

 手の甲で目元をこすった少女は条件反射かなにかのように隣に座っている男の制服の袖に鼻をおしつけて差し込む日差しから目を背けようとするが、どうやら隣にいるのをオーレンドルフだとは認識していないようだ。

 わずかばかりの時間の後、彼女は制服から立ち上る香りが異なることに気がついたのか動作を止めて視線を上げた。自分の隣に座っている男と、向かいから覗き込んでいる男を交互に見比べる。

 オーレンドルフに起きなさいと言われても、単に寝ぼけていただけなのか彼女はいまひとつ状況を把握していない眼差しのままふたりの親衛隊高級将校を見上げた。

「規則があるとかないとか、そういう問題ではあるまい。国家保安本部のオフィスの廊下で暢気に居眠りとは良い身分だ」

「ここからの空がきれいなんです、シュトレッケンバッハ局長」

 にこやかに笑った彼女にシュトレッケンバッハは毒気を抜かれたようだ。

「どれ」

 言いながらシュトレッケンバッハも床に座り込んだ。

 国家保安本部に所属する幹部将校たちの年齢は一様に年若い。一局の局長であるシュトレッケンバッハも歳を重ねているとはとても言い難い年齢だった。

 ブルーノ・シュトレッケンバッハ親衛隊中将が四十歳、そして、オットー・オーレンドルフ親衛隊少将が三五歳だ。

「なるほど、なかなか良い眺めだな」

 窓枠の濃いコントラストと、空の対比はまるで空だけ切り取ったようにも見える。すでに日は暮れかかり星が輝きだしている。そんな暗がりに落ちていく空を見つめているブルーノ・シュトレッケンバッハは、鼻から息を抜くと無言のまま頷いた。

「しかし、仕事が終わったとは言え、こんなところで居眠りをしているというのは関心せんな」

 床に座り込んでいるひとりの少女と、ふたりの親衛隊高級将校。

 傍目には異様な光景にも見える。

「ごめんなさい」

 マリーはシュトレッケンバッハにそう言うと微笑した。

 青い瞳の、直毛の金髪。ゆるく内側に巻いているのが清楚な印象をかもしだす。

「休むなら家に帰りなさい」

 言いながら立ち上がったシュトレッケンバッハが少女の肩にぽんと手を置くと、促されるように彼女も立ち上がる。それを見やってから膝に手を当てながら立ち上がったオーレンドルフは「ところで」と口を開く。

「ハイドリヒ少佐、君の護衛官の選抜はすんだのかね?」

 なにげない会話の続きのように告げたオーレンドルフに、シュトレッケンバッハは視線だけを滑らせるように少女に向ける。

 先日、彼女はかれらが今いるこのプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセで狙われた。

 国家保安本部に所属する情報将校、警官、エージェント。全ての捜査関係者の誰よりも彼女が最も狙いやすい。

 誘拐するにしろ、暗殺するにしろ。

 最も抵抗が少ないだろうと予想できるのだ。

 彼女が標的にされるのはどう考えても利にかなっている。おそらく、自分が当局の情報将校のいずれかを拉致しろと命じられれば真っ先に彼女を狙うだろう。

 簡単な理屈だ。

 国家保安本部の一般職員など拉致したところで、組織にとっては大して痛手にはなりはしない。そんなものはいくらでも代わりが利く。

 不要ならば切り捨てれば良いだけだ。

 しかし、情報将校には代わりが利かない。

 国家秘密警察(ゲシュタポ)刑事警察(クリポ)の捜査官は山ほどいるが、親衛隊情報部(SD)は、その数はずっと少数なのだ。そしてそのSDの多くは文武に優れたエリートである。

 そんな情報将校を狙うよりも、非力な女性情報将校を狙ったほうがはるかに効率は良いだろう。

「……そのお話はまだ知らないんです」

 ふたりの男を見上げたマリーの言葉に、シュトレッケンバッハが顎に手を当てたまま低くうなった。

「しかしそうなるといろいろ問題が残るな」

「どうして問題なんですか? シュトレッケンバッハ局長」

「……君はつい先頃狙われただろう」

 きょとんとして目をまん丸にしているマリーに、シュトレッケンバッハがあきれたような眼差しを返した。

「そうですけど」

 ふたりの親衛隊高級将校に両側を挟まれて歩きながら、ビルの入り口にシェレンベルクを見つけて駆け出した。

「シェレンベルク……!」

「執務室に姿が見えないと思っていたら、廊下で居眠りかな?」

 人当たりの良いシェレンベルクの問いかけに、ふわりと笑った彼女は無邪気な瞳のままオーレンドルフとシュトレッケンバッハを振り返った。

「君に護衛官とつけるようにと言われてね。もう自宅の方にはやってある。今後は国家保安本部(RSHA)の公用車で通勤するように」

「……大丈夫よ」

 心配性ね。

 マリーの言葉にシェレンベルクは声を上げて笑ってから、三局局長の手の中にあるマリンハットを受け取ると挨拶をするように片手を上げた。

ヒトラー万歳(ハイル・ヒトラー)

 シェレンベルクの敬礼に応じたブルーノ・シュトレッケンバッハとオットー・オーレンドルフも敬礼を返す。

 そうして国家保安本部の前に留められたベンツの後部座席に押し込められた少女はそうして帰宅した。

「気になりますか?」

 ふたりの前から辞したシェレンベルクとマリー。

 彼らを見送ってからオーレンドルフがシュトレッケンバッハに問いかける。そうすると人事局長は片目をかすかに細めてから自分の右手の平を開くとじっとそこを見つめる。

「……”まともな”子供ではないというのはわかる」

 今まで国家保安本部の幹部将校として多くの人間を見てきた。

 その中でも、マリーは異質だった。

 自分の立場にも、相手の階級にも捕らわれることはない。いや、相手に敬意を払っているようにすら見える。

 一見しただけではただの子供でしかなく、あくまでも子供としてしか振る舞っていないというのに。そこにある違和感だった。

「そうですね」

 シュトレッケンバッハの言葉に相づちを打ったオーレンドルフは、ベンツの行き去った方向を見つめたまま頷くと視線を落とす。

「普通の子供が、国家保安本部で顔色ひとつ変えずにいることなどできはしないものです」

 マリーには将校としての自覚もいっそ怪しいもので、階級が上の者たちにすら臆さない。まるで自分がどう評価されているかなど興味がないとでも言いたげなその様子は、無神経であるようにすら見える。

 ゲシュタポの恐ろしさはいっそ伝説にすらなっているというのに、彼女にはそんなことにすら関心がないらしかった。おそらく本当に関心がなかったのだろう。

「まぁいい。当面、彼女は敵ではない。万が一、敵になったら考えればいいだろう。まともではないにしても、今はどう有効に活用するかだ」

 結果的に国家保安本部に籍を置くことになったマリア・ハイドリヒの処遇に対して、未だにシュトレッケンバッハは迷いを持っていた。

 親衛隊全国指導者――ハインリヒ・ヒムラーの命令だから、甘んじているだけでそうでなければ大反対するところだ。

「シュトレッケンバッハ中将、彼女はもしかしたら全てを計算しているのかも知れません」

 ひとつの可能性。

 それを口にしたオーレンドルフにシュトレッケンバッハは片眉をつり上げた。しかし結局なにも言わずにそのまま、オーレンドルフに背中を向けた。

 シュトレッケンバッハは背中にオーレンドルフの視線を感じながら自分の執務室へと歩みを進める。

 この東部戦線帰りの国内諜報局長は、以前と比べると明らかに精彩を欠いていた。シュトレッケンバッハ自身も、一九三九年のポーランド戦の際に行動部隊アインザッツグルッペンを率いて、民間人の虐殺の指揮を執っている。

 だからこそ、オーレンドルフが精彩を欠いていた理由もわかっているつもりだった。それでも国家保安本部の幹部将校である以上は、それを精神的に乗り越えなければならないのだ。

 シュトレッケンバッハの知己のひとりである前国外諜報局長ハインツ・ヨストも、東部戦線でのアインザッツグルッペンの任務が精神に負担をかけ、危うく再起不能になりかけたところをマリーに救われた。

 それほどまでに、アインザッツグルッペンの指揮という任務は精神の不均衡を呼び込むものだった。

 オーレンドルフもこのままでは精神的に潰れてしまうのではないかと、シュトレッケンバッハは若干の心配をしたが、どうやら彼の今の様子を見ている限り、その心配はいらないようだ。

 天真爛漫で、朗らかなマリー。

 彼女の存在が陰鬱な国家保安本部の空気を絶え間なく流れる小川の流れのように変えていく。アインザッツグルッペン。そして日頃の任務でささくれた男たちの心を彼女の笑顔が癒していく。

 柔らかな少女の声に、オーレンドルフやヨストの顔つきがだいぶ変わってきたことをシュトレッケンバッハは看破していた。

 仮にも国家保安本部の幹部将校がその程度のことで潰れてしまうほど軟弱では困るのだが、それでも、人の心とはえてして弱いものだ。

 時に癒しも必要だということは知っている。

 ならば、最大限に「彼女」の存在を利用するまでだと、シュトレッケンバッハは考えた。

 執務室のドアノブに触れたシュトレッケンバッハは思考を巡らせてから、眉間を寄せると唇を引き結んだ。

 利用できるものはなんでも利用すれば良い。

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