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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXIX シメオン
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15 鳥たち

 ――それで……。

 マリーの姿が消えてから、咳払いをしたミルヒはおもむろに話題を切り替えた。とはいえ、一方でゲーリングのほうはというと今の今までの醜態を取り繕うためになんとか表情を改めようとして、いったんミルヒの言葉を片手を軽く上げて制してからうろうろと無言で執務室を歩き回って黙り込んだ。

 そういえば、この一年ほどで急激に肥満が解消されてきたが、そのせいで余った皮はいったいどうなったのだろう、と室内をせわしなく歩き回っているゲーリングを眺めてミルヒの方はそんなどうでもいいことを考えた。

 ミルヒの方がとりとめもないことを考えている頃になって、やっと自分の内心の整理がついたのか航空機総監の座るソファの前に腰を下ろしたヘルマン・ゲーリングは鼻から息を抜くとやはり無言で頷いてからミルヒを見つめ返した。

「英米連合の爆撃の標的についてだが、軍需工場などの拠点に狙いを定めていることは明白だが、我が方の対処が遅れていることもわかっている。ミルヒ元帥」

 大西洋を隔てたアメリカ合衆国の航空隊は、ブリテン島を中間拠点としてドイツ本国へと出撃してくる。特に、四発の重爆撃機は驚異的な性能を持っていた。その現実を直視しなければならない。

「幸い、ソビエト連邦との戦いも一段落しており、リヒトホーフェンの爆撃隊が割り当てられることになったのはケッセルリンクもさぞや心強く感じていることでしょう」

 もちろん両者の間に主導権争いがないということではない。

 だがそれでも、ケッセルリンクの率いる第二航空艦隊だけでは現在のアフリカ戦線は荷が重い。それだけの航空戦力が対ソビエト連邦戦に割り当てられていたのだ。

 いずれにしたところで、現状のドイツの国力で二正面戦争など狂気の沙汰だ。それがエアハルト・ミルヒの認識だ。ドイツは日に日に疲弊を重ねている。国家首脳部はいったいどこまでドイツを消耗させれば気が済むのだろうか、とミルヒは内心で苦々しさを禁じ得ない。

 戦争をやめるには……――。

 戦争を止めさせるには、どうすればいいのだろう。

 もちろん軍人として名前を連ねる以上は、戦うことは恐ろしくない。重い責任が自分自身に背負い込まされていることも理解している。

 最前線で戦うのは若い兵士たちなのだ。

 ドイツの将来を担う若者たちが命を懸けて戦っている。

 これから先の未来も、血で血を洗う戦いが繰り返されるのかもしれない。かつての欧州大戦でも「そう」だったではないかと言われればそれまでだ。しかし、それでも、戦争というものはどこかで区切りをつけなければならないのだ。

「当面の問題としては、アフリカ北部に展開するイギリス軍をたたきつぶすことですが、国防軍総司令部は今後の展望をどのように描いておられるのですかな?」

 ミルヒの問いかけにゲーリングはフンと鼻を鳴らしてからぎろりと不機嫌な視線を窓の外にくれた。

 どういう展望を持っているのか、と問いかけられてもゲーリングがその答えを持っているわけでもない。

 どうすればいいのかなど、ゲーリングのほうが知りたかった。

「現地の天然痘は小康状態だが、陸軍の部隊を大々的に投入するには危険が大きすぎるというのが総司令部の見解らしい……」

 天然痘という名前だけで、誰しも恐怖を覚えるだろう。

 それが最前線で戦わなければならない兵士たちであればなおさらのことだ。英米連合がパニック状態に陥ったのもその恐怖に基づいた。

 常に死と隣り合わせにある戦場に立ちながら、病原菌を恐れるというのもおかしな話ではないかとも思われるのかもしれないが、戦場で華々しく戦って命を散らすことと、病原菌によって苦しみと恐怖の末に死の道行きを辿ることでは話が違う。

「だが、確実な一手が得られない以上、北アフリカの状況を前にして指をくわえて見ていろと言うわけにもいくまい」

 それが現実だ。

 どこかで状況を見極めなければならない。

 仮にいくばくかの犠牲を伴ったとしても。

 そのためにも戦略爆撃が不可欠であることもまた、ゲーリングは承知していた。しかし、相手は現在、伝染病の拡大によって休戦中だ。どうすることもできないというのが正直なところだった。

 フランスを拠点とする第三航空艦隊はドイツ海軍の海上護衛に割り当てられ、ケッセルリンクの第二航空艦隊とリヒトホーフェンの第四航空艦隊は北アフリカ戦線の対処のために展開された。

 戦争というのはそもそも約束事で成り立っているわけでもないし、国際法など破るために存在している。

 だから、相手が病人だからと気を遣ってやる必要もないわけだが、それらの問題が自らに跳ね返ってくるともなれば問題は違った。

「ところで、He177の開発についてだが……、ミルヒ元帥」

「あぁ、そちらでしたら、昨年の秋の命令を受けて急ピッチで進んでいます。ただ、無駄な労力を継続させたこともありますので、そこはなかなか……」

 そう告げてミルヒは首をすくめて見せた。

「ほかにも、相変わらずBf109の新型が、前線のパイロット連中には非常に評判が悪く、現在は改良を続けています」

 そう。

 ドイツ空軍は問題が山積みだ。

 大海原に投げ出され孤軍奮闘する海軍同様に、広大な空の上で戦い続けている以上、その危険は地上での戦いと比べるべくもない。

「……なるほど」

 うなるようにつぶやいてから頷いたゲーリングは、険しく眉をひそめてから太い指でソファの肘掛けを軽くたたいた。

「最近、ようやく第二七航空戦闘団のマルセイユが新型に乗ることに首を縦に振ったそうです」

 ハンス・ヨアヒム・マルセイユ。

 北アフリカ戦線にあって屈指のエースパイロット(エクスペルテ)のひとりである。

 エースパイロットとして認められる条件は、五機撃墜とされるが、ドイツ空軍にあっては五機撃墜どころか百機超えはそれほど珍しくない。それはドイツ空軍の練度もあるのだろうが、簡単に言えば相手の練度が低すぎるということでもある。

 どこの軍隊が金食い虫でもある空軍に練度の低い兵隊を採用するのかという意見もあるかもしれないが、事実は小説よりも奇なりとはよく言ったもので、ゲーリングの空軍と他国の空軍の差ははっきりと数字となって表れた。

 第二七戦闘航空団の部隊の新型機への移行が遅々として進まないのは、マルセイユらを含めたベテランパイロットたちの不信感が大きかった。

「ようやくか……」

 何度もテスト飛行を繰り返し、最近になってやっとエンジントラブルも減少してきたという話だった。

 ミルヒの報告に憮然として鼻から息を吐き出したゲーリングは、頬杖をついてから落ち着かなさそうに視線を辺りに巡らせると、最後にその視線を窓の外に放ってから大きなため息をついた。

「これからも、我が軍に有益な改革を期待する」

「承知いたしました」

 ゲーリングの言葉にミルヒは目を伏せてから応じると短く告げる。彼らの間に戦争が始まる前までに存在していた信頼関係は存在しない。ゲーリングはともかく、ミルヒのほうには存在していないと言ったほうが良いだろう。

「ですが、国家元帥。我々が有益と思っても、最終的に意見をひねり潰されてしまえば元も子もありません」

 ゲーリングとは旧知の間柄である故に、あえてミルヒは耳に痛い物言いをした。もちろんゲーリングをあえて不機嫌にさせたいわけではない。

 そういうわけではなく、ゲーリングが気分で言動を翻すようなことがあればミルヒにとってもそれは好ましい問題ではない。

「そんなことはせんよ」

 ミルヒにゲーリングは眉間の皺を深くしてから、唇をへの字に曲げる。

 つまるところミルヒに限らず、ゲーリングという男は分からず屋で無能な総司令官とみられているということなのだろうか。自問自答したゲーリングはますます機嫌を悪化させて胸の前で腕を組み合わせた。

「わたしはそんなに無能な男に見えるのかね?」

「――……」

 ミルヒは無言で返した。

 必ずしも無能であるというわけではない。

 ゲーリング自身も先の欧州大戦では二十二機を撃墜したエースパイロットである。だが、だからといってそれ故に有能だと言い切ることもできはしない。

 ゲーリングの逆鱗に触れることは危険だった。

 ミルヒの政治生命にも関わる問題だ。ただでさえ、ミルヒはゲーリングのナチス党における発言力と影響力によって命を救われたという恩義もある。

 だから、露骨にゲーリングを非難するようなことはしたくなかった。

 彼の思いやりを信じたかった。

 個人の兵士としての能力と、政治家としての能力は違う。だからゲーリングが退役当時、一介の大尉でしかなかったこともミルヒにはどうでもいいことだ。人にはそれぞれの人生というものがある。

「まぁ、いい。総司令官はわたしだ。わたしが決定を下すのだからな」

「はい、もちろんです」

 ドイツ空軍(ルフトヴァッフェ)の総司令官はヘルマン・ゲーリングだ。空軍総司令部の内部にもいろいろな意見が飛び交っている。それらを総合的に評価、判断して空軍の方向性を決めるのがゲーリングの仕事だった。

「俺は、道を誤った」

 しばらくの沈黙の後、ゲーリングはつぶやいて視線を落とした。

「俺は道を踏み誤ったから、二度とそのような間違いは繰り替えさんと約束しよう」

 もっとも、と付け加えてからゲーリングは乾いた笑い声を上げてみせる。

 まるで自嘲するかのようだ。

「……もっとも、わたしが今更そんなことを宣言したところで誰も信用などせんだろうが」

「道は踏み誤ったとしても、やり直せばいいだけです。正しい道を、見極めればよいのです」

 聖人君子でもあるまいし、誰もが正しい道をまっすぐに選び取ることなどできはしない。なによりも軍人である彼らが間違いを犯していないわけがない。

 軍人であるということそのものが罪人なのである。

 人殺しだ。

「戦略爆撃については、ガランドからも陳情を受けている。だから、わかっている」

 ゲーリングはそう言ってから、不満そうにまぶたを下ろして半眼になった。

 それからしばらく考え込むような顔つきになったゲーリングに、エアハルト・ミルヒは息をつくと「それでは」と言いながら立ち上がった。

「……わかっていると思うが」

 切れ切れにゲーリングが声を上げる。

「はい」

「無責任な噂のたぐいを野放しにするようなことには気をつけてくれたまえ」

「承知いたしました」

 ミルヒが苦笑した。

 良くも悪くもゲーリングは自尊心の塊だ。

 部下たちから無能者呼ばわりされることは我慢ならないに違いない。

「では、本官はこれで失礼します」

 予算は限られているし、問題は山ほどあった。それでも空軍首脳部としてよくよく考えて判断を下さなければならないことがある。

 ゲーリングの執務室を出たミルヒは、豪華な扉を閉じてから目の前の廊下の先を見つめてから長くため息をはき出した。

 ヒトラーと出会って、権力を手中にして、ゲーリングは変わった。

 いや、そうではなく。ゲーリングは元々そうした権力指向型だったのかもしれない。それでもかつてミルヒが知っていた男はもっと好ましい男だと思っていた。

 もしかしたらゲーリングは最初の妻でもあるカーリンを亡くしてから変わってしまったのだろうか。

 違うのかも知れない。

 今更なにが間違っていて、なにが正しいのかももはやわからないが、とにかく戦争に勝たなければ話にならない。

 戦争を始めた側にいる以上、勝たなければならないのだ。それを先の欧州大戦で「ドイツ人」は学んだはずなのだ。

 だから……――。

「我々は勝たなければ……」

 ヒトラー政権がユダヤ人に対して最悪の選択をしているのだとしても、その凶刃から逃れた者として責務を果たさなければならないのだ。

 命がある限り。 

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