14 籠絡
エアハルト・ミルヒが空軍総司令部に到着したのはその日の夕方だ。
ソビエト連邦との戦争は形式上では終結した。しかし、スターリンを排斥してその権力を奪取したフルシチョフはともかく、問題はスターリンとその一派が行方不明のままというのも気にかかる。
国家保安本部率いる政治警察を筆頭にして、ソビエト連邦の警察組織を一手に把握しつつある今を持って、その行方は知れないままだ。よもやフルシチョフがスターリン一派の中核派を含めて秘密裏に保護しているのではないかと疑いも持たれ、執拗な尋問が繰り返されているという。もっとも、その尋問方法など余り考慮したくもないというのが国防軍首脳部の面々の考えるところだった。
尋問というものは得てして対象の精神を削り取るほど執拗で、時に拷問さえも躊躇なく行使されるものである。それは国家保安本部などの政治警察によるものだけではなく、陸軍参謀本部の諜報部や、国防軍情報部による尋問もまた同様だ。
諜報局にあって、人権とはそれほど安く扱われるものである。
ことさらに悪名高いからとは言え、特に国家保安本部だけの尋問が残酷というわけでもない。つまるところ、ひとえに初代長官となったラインハルト・ハイドリヒの人格による一方的な偏見によるところが大きいのかも知れない。
もちろんどれだけ冷静に考えたところで、国家保安本部に対して偏見にも似た嫌悪感が好転するわけでもない。
国家保安本部――彼らが主にエアハルト・ミルヒの同胞であるユダヤ人の迫害のための手先と化したのだ。
それゆえに、彼らに対して好感をもてるわけでもない。
彼らは重い罪を背負っている。
「……――ゲーリング」
ため息でもつくように、ミルヒは口の中で名前を呼んだ。
暑苦しいほど理想にあふれ、ドイツという国を導こうとしたかつての戦友は変わってしまった。
権力に取り付かれ、自分の道を見失った。
どこで道を踏み誤ったのかと考えてみても、ミルヒにはもはやそれすらもわからない。ただ、最初からナチス党は反ユダヤ主義を掲げていたわけではない。反ユダヤ主義が、ドイツだけに蔓延する特別な病だったわけではない。
ヨーロッパの端から端まで。
まるで風邪のように蔓延する当たり障りのない偏見だったというだけのことだ。
ユダヤ人は、まるでロマのように長いキリスト教徒の歴史の中で迫害され続けてきたが、決してその流れが主流となることなどあり得なかった。時に、残酷な事件に巻き込まれることもまたあったのは事実だが、それらは一過性の事件でしかなかった。
まるで、中世に起こった魔女狩りの再来のようにも見える。
ありとあらゆる国家権力の中心に、ユダヤ人に対する迫害は堤防が決壊するように勢いよくなだれ込んだのはいったいいつからか。
ドイツ人として。
そしてユダヤ人として。
ミルヒの心は相反する「愛」に心を引き裂かれた。
権力もなければ、罪もない多くの人々が死の行進の列へと強制的に並べられる。それを見て見ぬ振りをしろとゲーリングはミルヒに命じた。
ミルヒはユダヤ人で、ゲーリングの鶴の一声で「アーリア化」することを認められたが、見ようによってはそれは多くの無辜の人々を見捨てることを意味していた。
彼の手元に舞い込んでくる多くの研究報告書にはそれを裏付けするものさえ存在した。
曰く――囚人たちの効率的な使用法。
多くの研究機関の医師たちの手によって航空機総監の彼の元に逐一届けられる報告書だ。
「……――わたしは、”君ら”の死を、無駄にはすまい」
空軍総司令部のゲーリングの執務室へと至る長い廊下を歩きながら、ミルヒはぽつりとつぶやいた。
目頭が熱くなりかけて、彼は強く片手で目をこすってから目前の中空をにらみつける。ゲーリングを含めた「ドイツ民族」の前で、ミルヒは思想に揺れることなど許されはしなかった。
戦争が終わって、平和な時代が訪れたそのときには、おそらく自分の選択は非難の的に晒されるのだろう。しかし、それでも今のミルヒには選択肢など残されてはいなかった。
自分自身が生き残るために、同胞を見殺しにしたのだと、罵られたとしても。将来における断罪も、なにもかもに覚悟を決めてそれでもエアハルト・ミルヒは「ドイツ人」として、そして「ユダヤ人」としてそこに続く道を力強く踏みしめる。
「わたしは……」
裁かれるだろうことを厭わない。
自ら未来に裁かれるために進むのだ。
戦争を終わらせて、平和をもたらし、そしてドイツを平定し。その上で、現在の政権の批判のための基盤を作り、将来生まれてくる多くのユダヤ人の子供たちのために、新たなるドイツの誕生のために礎となる。
それこそが、ミルヒの贖罪だった。
許されはしない罪を知っている。
ヒトラーや、ヒムラー。ゲーリングやゲッベルス、リッベントロップはもちろん、多くの者たちが裁かれなければならない。だけれども、今はそのための犠牲が必要なのだ。それをドイツ人であるミルヒにはわかっていた。
複数のものを同時に手に入れられるほど、ミルヒには権力は存在しない。
「あ! ミルヒ元帥!」
思考に沈むミルヒの耳に甲高い少女の声が響いてきて、思わず空軍元帥を務める男は顔を上げた。
ゲーリングの天敵だ。
驚いたことに、ここのところヘルマン・ゲーリングが誰よりも苦手な相手と思っているのは政治家でもなければ軍人でもなく官僚たちでもない空気の読めない小さな少女だ。
発育が悪くてそもそも二次性徴すらはじまっているのかと怪しくも思えてくるが、多少は胸もあることから二次性徴は始まって言うのだろうと考えられる。四肢は細くて、まるで年端もいかない少女のようだ。
布をふんだんに使った膝丈のフレアースカートはどうやら二重になっているらしい。丸襟のブラウスの胸元に紺色のリボンを結んでその上から手編みのレースのボレロを身につけている。膝よりも短いドロワーズのレースとリボンがちらりとスカートの裾から見えてそれが清楚な色香をただよわせていた。
ぶんぶんと片手を上げてミルヒに手を振ってくる少女に、空軍元帥は首をかしげてから視線をさまよわせた。
「女の子が床に座り込んでいるなど行儀が悪いとは思わんかね」
ゲーリングの執務室の扉に背中を預けて、ぺたりと床の絨毯の上に座り込んでいる少女は、青い瞳でにこりと笑ってから首を伸ばして顎を上げるとミルヒを見上げた。長い金髪は小さな顔の両脇で三つ編みにされているところがさらに少女らしさを醸し出す。
「だって、ゲーリング元帥が空けてくれないんだもの」
くるくると表情を変える金髪の少女――マリーはふくれっ面になってからピンク色の唇をとがらせる。
フランス人たちのようなセンスを持ち合わせていないドイツ人がほとんどだから、彼女の出で立ちはいったい誰によるものだろう、とミルヒは不審を抱いた。
「しかし、それにしても床に座り込んでいるというのはみっともない」
「だって」
ぶーっと頬を膨らませたままのマリーは、差し伸べられたミルヒの分厚い手のひらに自分の手を重ねて立ち上がる。露出度の低い彼女の衣服の上からでも、マリーの異常な骨格の細さはミルヒにもわかった。
華奢でかわいらしく、初対面でも庇護欲を刺激される少女。
「ゲーリング元帥に用事かね?」
「別に大した話じゃないのよ? わたしがお話したかっただけなのに、ゲーリング元帥が空けてくれないんだもの」
不満げな表情も、子供のあどけなさを残していてそれがミルヒのささくれた感情を和らげる。これが駄々をこねる自分の娘だったらうっとうしいものも感じさせられるのかもしれないが、他人の娘だと思うとそうでもない。
もちろんこれが素行の悪い娘であれば、個人として好ましいとは思えないだろうが、マリーには素行の悪さはなかった。だから、ミルヒは少女に対して悪印象は感じなかった。
よいしょ、と言いながら立ち上がった彼女は今度はにこりと笑う。
「国家元帥は、君のことがどうにも苦手なようだからなぁ」
やれやれとため息交じりにつぶやいたミルヒはそれでもなんとも腑に落ちないものを感じる。
彼女は好ましい少女だ。
だというのにどうしてゲーリングがマリーに大して苦手意識を持っているのかさっぱりわからない。
「なぜかね?」
「知らないわ」
問いかけられてマリーはミルヒに首をかしげて応じた。
「……まぁ、そんなところだろう」
良い年齢の大人が小さな少女ひとりに振り回されるなど笑い話も良いところだ。もっともゲーリングにしてみればわりと深刻にマリーに苦手意識を抱いている様子だった。
おかしな話だ。
「国家元帥閣下、失礼します」
「やぁ、ミルヒ元帥。よく来てくれた……」
よく来てくれた、と威厳に満ちた物言いをするヘルマン・ゲーリングの顔が、マリーを見るなり強張って、その語尾がかすれたのをミルヒは感じ取った。もっとも、それについて野暮な追求をすることのないのはミルヒの世渡りのバランス感覚だろうか。
「……まだいたのかね」
とたんに渋い顔つきになったゲーリングは、わざとらしく眉間に皺を寄せてからマリーを見下ろした。ドイツ人としてはそれほど上背の高いほうではないゲーリングだが、骨格ががっちりとしているためか、マリーよりもはるかに大柄に見えた。
「まだいました」
マリーはにこりと笑ってミルヒの腕に絡めた細い手に力を込める。
「女の子が床に座り込んでいては腰が冷えてしまうから、せめて椅子の一つも準備してやれば良かったのではありませんかな? 国家元帥閣下」
「……――」
せめて椅子でも、というミルヒの台詞にゲーリングは瞠目してから「なんで俺がマリーのためにわざわざそんなことをしてやらなければならないんだ」と言いたげな顔つきになったものの、結局それを口にするのは自分の威厳に関わるとでも思ったのか、閉口してから唇を引き結んだ。
ゲーリングはそういう男だ。
権力志向が誰よりも強い。
「わかった、そうしよう……」
口ごもりながらそれだけ言ったゲーリングは、部下である航空機総監のエアハルト・ミルヒの手前もあって、マリーに大人げない態度をとることができないのだろう。
「それで、ミルヒ元帥。話というのは?」
なにか重大な病気にかかったのかと思うくらいゲーリングはこの一年ほどの間にすっかりやせこけた。
影では対立する政争の相手からは、重病で死ねばいいとも陰口をたたかれている。ミルヒはその噂を知っていたが、それはゲーリング自身も承知の上のことだろう。政争というものは往々にして醜悪なものなのだ。
「アメリカ軍の爆撃部隊が日々、勢力を増してきていることについてなのですがな……」
そう言いかけてミルヒは自分の隣に座っている金髪の少女のことを思い出して口をつぐんだ。そもそも子供の手前で、戦争についての込み入った話をしなければならないというのも、機密を守るためにははばかられる。
「あぁ……、それはそうと、マリーが国家元帥閣下のところに来た理由のほうを優先すべきかと思いますがな」
「どうせ茶飲み話ではないのかね? マリー」
ゲーリングはしかつめらしい表情を取り繕ってから、マリーを見下ろした。これが平凡な少年少女であればゲーリングのような権力者からにらみつけられでもしたら萎縮してしまうのかもしれないが、マリーのほうはといえば剛胆なのか鈍感なのか、ゲーリングの威圧的な態度も効果がない。
「ひどいわ、偏見よ」
マリーがゲーリングの言葉に抗議するように唇をとがらせた。
「ゲーリング元帥はわたしのこといつも邪魔者扱いするんだもの。”わたしはゲーリング元帥のことをとても心配しているのに”」
マリーは異議ありとばかりに言葉を続けると、ソファに両手をついて小さく身を乗り出すと、ゲーリングを見つめて長い睫をしばたたかせる。
そんな彼女の横顔を見ていて、ミルヒは「おや」と気がついた。
彼女の表情は驚くほど真剣なこと。
空軍総司令官の国家元帥を務めるゲーリングは、彼女の存在が嫌いというところまでいかなくとも苦手でならないらしいが、そんな彼を少女は心から心配している様子だ。
では、彼女はどうしてゲーリングなどの肥満の男に対して心を砕くのだろう。
彼女くらいの年齢の少女が、ゲーリングなどを気遣ったところで何の得にもならなさそうだというのに。
「官房長のボルマンさんは、陸軍参謀本部の将軍さんたちをすごく邪魔者だって思ってたけど、それって別に陸軍の人たちだけを邪魔だって思っているわけじゃないでしょう? なら、ボルマンさんがいる以上次に標的にされる人だっているはずよ?」
もっともらしい台詞をもっともらしく告げるマリーだが、当の本人は自分が性的暴行を受けかけたという事実を理解しているのだろうか?
「……マリー。君は自分が犯されそうになっていたという事実をもう少し重く見るべきではないのかね?」
自分が性欲に狂った男たちに囲まれているという重大な事実をもう少し認識するべきだと、常識的なことをゲーリングがわざわざ彼女に言ってやるのは、もちろんマリーを脅かすためなのだが、当の本人は男の言われた言葉がいまひとつ理解できないのかぽかんと馬鹿みたいに口を開けた。
「いつでも誰かが君を守ってくれるというわけでもなかろう」
つけつけと説教じみた物言いになるゲーリングに、ミルヒは苦笑した。
なんだかんだ言ってもゲーリングは確かにナチス党首脳部の一部の無法者たちとは異なるところを持っている。彼は見た目に反して女性に対しては誠実で紳士的だ。
政敵でもあるボルマンに、か弱い少女が慰み者にされることは我慢がならないのだろう。ゲーリングはボルマンのそうした不誠実な一面を嫌悪してもいる。
「君はもう少し自分の身の周りに気をつけたまえ」
太い腕を組み直してフンと鼻から息を抜いたゲーリングは、次第に頬が赤くなっていくマリーを見下ろしてから唇をへの字に曲げた。
別に彼女を心配しているわけではない。
そう言いたげだ。
「君を心配しているのは、国家保安本部の連中だけじゃあるまい」
「ゲーリング元帥も?」
マリーが機嫌悪そうな顔になったゲーリングに花が咲いたように笑いかける。
「……――」
女性に対しては誠実な男は伏せた両目の片方だけをちろりと上げてから、一瞬後にさっと視線をそむけて表情を改める。
「ゲーリング元帥は心配してくれないの?」
マリーが繰り返した。
「あぁ、もう。わかったから、もう帰りたまえ! 君と話すことなどわたしにはないし、風邪でもひかれたら親衛隊の連中がやかましいから国家保安本部まで帰るんだ」
「ねぇ、ゲーリング元帥」
それでもマリーは執拗に彼の答えを追求した。
のっしと立ち上がったゲーリングは少女の細い手首を乱暴につかむと、ぶつぶつと口の中で文句を繰り返しながら執務室の扉の向こうにマリーを押し出した。
「当たり前だ、誰だってボルマンみたいな気持ちの悪い男が君みたいな女の子が陵辱されるのを心楽しく思うわけがないだろう」
つっけんどんに言い放ったゲーリングの余りにも直接的な言葉の悪さに、ミルヒなどは眉をひそめたが言外ににじむような彼女に対する気遣いを感じさせられて眉尻を下げた。
ゲーリングはゲーリングなりに、少女を心配してもいるのかもしれない。
ボルマンのことが気に入らないだけかもしれないが。
「……なにかあったら、わたしが困るし帰りなさい」
「ゲーリング元帥」
マリーの声がミルヒにも聞こえた。
「ちゃんとわたしが守ってあげるから」
だから帰るんだ。
憮然として言いながらそうしてゲーリングの執務室からマリーが追い出されて、室内にはミルヒと執務室の主だけが取り残された。
「風邪でもひかれたらわたしが困るんだ」
時計をちらと見やったゲーリングが、踵を返しながらそう言ったことにミルヒはわずかに頬を緩めると鼻から息を抜いた。




