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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXIX シメオン
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13 空の悪魔の系譜

 廊下を大股に歩きながらヴェルナー・ベストは苦虫を噛みつぶしたような顔で憮然とした。

 マリーは確かに頭が悪い。

 いや、そうではない。

 別に言い訳をするつもりは全くないが、頭が良いことと、記憶力が良いことと、賢明であることは全く違う。中にはシェレンベルクのように類い稀な状況把握能力と分析能力と記憶力などの頭脳派もいるが、ほとんどの場合はそんなに特別な才能を持っているわけでもない。

 ヴァルター・シェレンベルクが特別なのだ。そう思わなくもない。しかし一緒に仕事をするとなれば話も変わるというものだ。シェレンベルクがなにをどう考えているかはともかくとして、才気あふれる青年官僚と比較して、たった十六歳の少女という水準から考えればマリーはそれほど人より劣っているというわけでもない。

 そんな思考に陥りそうになるベストは「なにかにつけて娘の肩を持ちたがる父親の思考のようではないか」と内心で憮然とした。

 決してマリーが内輪の人間だからと特別扱いしているわけではない。

 そうベストは自分に言い聞かせた。

「だいたい、あんな性格の悪いシェレンベルクと比べられる人間の方がかわいそうじゃないか」

 廊下を歩く人影がないのを良いことに、ベストはぼそりとつぶやいた。

 ベストは決して人前で自己をさらけ出すことはない。なぜなら、そうしたことが国家保安本部に在籍すると言うことにおいて危険であるからということに他ならない。

 誰もがヴァルター・シェレンベルクと「同じように」要領よく生きていけるわけでもないし、機転が利くわけでもない。もっともシェレンベルク本人は一般人のできの悪さなど知っているだろうし、わかった上でそれを利用し、そして見下しているのである。

 ヴァルター・シェレンベルクはそういう男だった。

 社会とは、国民たちによって運営されていくものではない。

 少数のエリートたちによって牽引され、運営されていくものだ。そしてその過程で、弱者は蹂躙されていく。

 それがこれまでの歴史の成り立ちであって、これからもそうなるだろう。

 腕時計で時刻を確認すると、朝の無意味な会議からすでに二時間が経過していた。

「ベスト中将」

 廊下を歩くヴェルナー・ベストは背後から声をかけられて、眉をひそめた。

「メールホルン上級大佐」

「ランツベルクから、官房長閣下の供述書の写しが今朝届いたのでヨスト少将に届けておいたが、今後の対策を講じる上で特別保安諜報部としても早急に目を通していてもらったほうがいいだろう」

「……承知した」

 マルティン・ボルマンはマリーを手込めにしようとした。

 それ自体には腹も立つが、問題はその前だ。

 彼が真に邪魔者だと思っていたのはいったい誰なのか。

 ボルマンの政敵の間には不穏な流言飛語も飛び交っている。政治警察としてそれは本来追求しなければならないたぐいのものでもあった。それが仮に体制批判につながるものであったとしても、状況を掘り起こして正確に把握しなければならないのだ。それが敵と己を知るということでもある。



  *

 昨年の秋から冬にかけて大規模な戦力の移動が行われてきた。

 なにより航空戦力の充実という意味では、ソビエト連邦を相手に展開されてきた戦力が割り当てられるということの意味は大きなものだ。

 エジプトで発生した天然痘の影響で戦況は昨年の夏以来膠着状態に陥っている。

 その現実にドイツ・アフリカ軍団のエルウィン・ロンメルも、第二航空艦隊のアルベルト・ケッセルリンクも同様に頭を抱えていた。

 無謀な進軍は我が身を危険に追い込みかねない。

 それが現実だ。

「アメリカの経済力は驚異的だ」

 ベルリンの空軍総司令部で航空機総監を務める空軍元帥は苛立たしげに指摘した。

 夜もなく昼もなく、大西洋に面するドイツの街は度重なる空爆に晒されている。四方を海に囲まれたイギリスが補給もなしにその戦力を維持することは困難だ。

 ドイツと対峙するための中心的な役割を担うイギリスには多くの亡命政府が名前を連ね、一丸となって凄絶な戦いを繰り広げていた。そして島国という立地でかろうじて孤軍奮闘を続けているイギリスを援助しているのはほかでもないアメリカ合衆国だった。

 先の欧州大戦にあって、他人事と傍観を決め込んだアメリカは世界的に見ても圧倒的な国力を維持して今に至る。人間というものは他人の土地で戦争をしていると、戦争をしているという実感すらも沸かなくなるものなのかもしれない。

「イギリス連邦を拠点にして、アメリカ軍は我々の軍事力を削ぐために日夜爆撃機を送り込んでくる」

 戦略爆撃機――。

 アメリカ空軍の保有する驚異的な重爆撃機で、その名を「空飛ぶ要塞」とも言われる。アフリカ戦線における第二航空艦隊の奮闘でかろうじて撃退されていたが、それもいつまで続くのかと尋ねられたところで答えようもないだろう。

「敵も馬鹿ではない」

 陸続きであることを理由に馬鹿のように物量だけで攻め込んでくるソビエト連邦とは違う。アメリカの国防軍はもっと賢明だった。

「……イギリスの、索敵網も馬鹿にはできませんぞ。ミルヒ元帥」

「うむ」

 第四航空艦隊の指揮官、ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンの指摘に航空機総監のエアハルト・ミルヒはうなずいた。

 第二航空艦隊のケッセルリンクは間違いなくドイツ空軍でも際だった傑物のひとりでもあるが、戦場というものはひとりの天才によって勝敗が決するものでもない。

 無能のゲーリングと戦略眼の皆無な閣僚たちの政策のためにドイツ国防軍はその戦略すらも迷走している。

「司令部はなにを考えているのです?」

 不愉快極まりないと言いたげなリヒトホーフェンの言葉にミルヒは唇をへの字に曲げて黙り込む。

 司令部がなにを考えているのか。

 そんなことはミルヒ自身が知りたい。

 敵軍と相対するのは司令部ではなく兵隊なのだ。そして陸軍の歩兵たちだけならともかく、空軍のパイロットというのはたった数ヶ月で使い物になるようなものでもない。陸軍を含めて特殊技能を持つ将兵を育てるには手間も時間もかかるものだ。

「現状は極めて逼迫しています。しかし、飛行教官を戦地に送り込むべしとの命令には賛同いたしかねます」

 教える人間がいなければいったい誰が飛行士を育てるのか。

 技術が失われるのはあっという間だ。

 ドイツ空軍が一九一八年の失墜から立ち直るためには多大な労力が必要とされたように、それは簡単な道ではない。

「そもそも現状打開のために第四航空艦隊が派遣されることになったのではありませんか?」

「アメリカの航空機の恐ろしさは、誰よりも我々が知っているはずだ。リヒトホーフェン元帥」

 アメリカとイギリスの技術は、それだけではドイツの敵ではないが、束になってかかられればドイツにも為す術もなかった。

 特にアメリカの航空機は、その性能面において日進月歩で進化を続けているではないか。この分ではドイツ本土に対する爆撃が本格化するのは時間の問題だろう。

「イギリスに比べて我が国の索敵網が劣っているということは明らかだというのに、軍需省の連中は総統におべっかを使うためのくだらないオモチャの開発にばかりかまけているではないですか」

 見た目の派手な兵器ばかりに研究費を回したところでどうなるというのだろう。

 最近になってゲーリングは重爆撃機に急降下爆撃性能を求めることを取り下げたらしいが、昨日今日で状況が改善するわけでもない。

「第二航空艦隊の迎撃部隊はこの困難な状況にあって良くやっています。ミルヒ元帥」

 思考を巡らせて、ミルヒの名を呼びかけたリヒトホーフェンはそこで一度言葉を切った。

「我々指揮官は彼らの期待に正しく応えなければなりません」

 戦場で命のやりとりをしている兵士たちばかりに負担を強いて、彼らを率いる司令官たちはベルリンで権力闘争を繰り広げているなどなんたるゆゆしき事態だろう。それがリヒトホーフェンとミルヒにしてみれば苦々しいものがこみあげずにはいられない。

 まるで胃酸がこみあげてくるような忌ま忌ましさに、ドイツ空軍屈指のふたりの指揮官は渋面を隠すこともできはしない。

 いったい自分はどこで戦っているのか。

 いったい自分は誰と戦っているのか。

 政治闘争など犬にでもくれてやればいいとすら考える。

「戦闘機隊総監のガランドのことですが」

 リヒトホーフェンがミルヒに話題を振った。

「……ゲーリング元帥は自尊心の塊だから、部下たちからことさらに過ちを過ちだと指摘されるのは快くないのだろうな」

「しかし、これは部下たちの命がかかっていることです。ミルヒ元帥」

「わかっている。それに、ゲーリング元帥だってそれがわかっていないはずがないはずなのだ。……”国家元帥閣下”は先の欧州大戦でほかでもなく最前線で戦っていたはずなのだから」

 司令官の部下たちが最前線で命を落とすのだということを知っているはずだ。

「かのマンフレート・フォン・リヒトホーフェン大尉が戦場で命を落とされたように」

 知っているはずなのだ。

 マンフレート・フォン・リヒトホーフェンの名前がでて眉をしかめたのは、その従弟であるヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンだった。

 赤い三葉機を駆った空の悪魔。

 現在の単葉機と比べればおおよそ扱いにくい機体で、赤い悪魔は先の欧州大戦最多の戦績をたたき出したのである。

「兵士の命の尊さを知っているはずだ」

 重々しくミルヒはつぶやいてから、腹の前で両手の指を組み合わせてからすっと視線をヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンからそらして執務室の天井を見つめる。

 ヒトラーの率いるナチス党が実権を握ってから、なにもかもが変わってしまったことをその肌で実感しているのはもしかしたらリヒトホーフェンよりもミルヒの方なのかも知れない。

「わたしは、アーリア人として認定されたことを名誉に感じているわけではない」

 言葉を選ぶようにつぶやいたミルヒは、それから窓の外に視線を移してから押し黙ると春の昼下がりの日差しにため息をはき出した。

 ひとりの人間の力など限界がある。

 こんな殺伐とした世界では、自分の命を守るだけでも大変なことだった。だから、それをリヒトホーフェンは「恥知らず」と罵ることなどいったい誰ができただろう。

 エアハルト・ミルヒは確かにユダヤ人だった。

 ユダヤ人に対する弾圧を推し進めたのはナチス党で、そのナチス党の中核に位置するゲーリングも半ば公然とミルヒのような身内のユダヤ人を保護し、宣伝省のゲッベルスもかつてつきあいのあった女性はユダヤ人だった。

 世間というものは得てしてそんなものだ。

 理想的なドイツ人と詠うヒムラーの言う「金髪碧眼で長身」のドイツ人というのも、大概い胡散臭い。ヒムラーは黒髪だし、ヒトラーはアジア人のようにのっぺりとした顔で短身だ。ゲーリングだってドイツ人としては恰幅はともかく身長の方は大柄なほうではない。

「国家元帥がなにをお考えなのか、わたし自らお聞きしてみよう」

 もしかしたら、その行為自体がゲーリングの不興を買うのかも知れない。

 しかしそれでもいいのではないか、とミルヒは思った。

 ユダヤ人としての矜恃も、人間としての人道も。

 ミルヒは見て見ぬ振りをした。

 それをミルヒが恥じていることをリヒトホーフェンは見て取ってから言葉もなくうなずいた。

「人命を無駄にせずにすむような兵器があれば願ったり叶ったりなんですがね」

 苦笑したリヒトホーフェンに、ミルヒは表情を改めると首をすくめる。

「仮にそんな大層なものがあったとして、たかだか一国の秘密にできはすまい。敵は情報戦を駆使して、情報を入手しようとするだろうし、新型兵器に対する対抗策を講じてくるはずだ」

 敵も馬鹿ではない。

 ドイツができればアメリカにも可能だ。逆に経済的な余裕がある国家であれば予算を重点的に新型兵器開発に傾けることが可能だ。つまるところ、仮にアメリカに可能だからドイツに可能かとなれば、実のところそう単純な話ではない。

 戦術的な手腕とは一線を画し、航空省の重鎮を務めた経験を持つミルヒであればこその分析でもあった。

「現状、アメリカが及び腰になっているからともかく、本腰をいれて介入してくるともなれば我が国はひとたまりもないだろうな」

 ため息交じりにミルヒはそう言った。

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