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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXIX シメオン
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12 飛び交う思惑

 特別保安諜報部の執務室へと戻ったベストとマリーだったが、それからすぐに内線電話でベストは国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクに呼び出されて、マリーの食事と仕事を次席補佐官であるハインツ・ヨストに任せて再び執務室を後にした。

 いってらっしゃい、とマリーの無邪気な声がヴェルナー・ベストの背中に響いた。

 子供はのんきでめでたいことだ、とベストは内心であきれながらそう思った。

「失礼する、シェレンベルク少将」

「お呼びだてして申し訳ありません。ベスト中将」

 ヴァルター・シェレンベルク。

 昨年の六月ではしがない親衛隊中佐でしかなかったというのに、あっという間に昇進を重ねたエリート。シェレンベルクは国家保安本部にラインハルト・ハイドリヒの指揮下に配属されたばかりの頃から要領の良い男だった。それをベストもよく知っている。

 今や少将閣下だ。

 ベストはわずかに首をすくめただけで、シェレンベルクに勧められた椅子に腰を下ろした。

 ヨストから受け継いだ国外諜報局長の執務室は、ハインツ・ヨストが使っていた頃と大して変化もないように見える。そもそも変化がないのはヴァルター・シェレンベルクの態度についてもそうだ。

 謙虚で思慮深いのか、大胆な切れ者なのかつかみかねる。

 全てを計算し尽くしてシェレンベルクは振る舞っているのではあるまいか。

 親衛隊全国指導者でもあるハインリヒ・ヒムラーと、今は亡きラインハルト・ハイドリヒの寵児であるとはいえ、いくらなんでもヴァルター・シェレンベルクは昇進が早すぎる。

 片やエリートコースを邁進する若手の警察官僚であり、片やはすでに出世街道から完全に外れた親衛隊の法律家だ。将来性は言わずもがなだ。

「いや、わたしはそれほど多忙ではないから、気遣いは結構だ」

 シェレンベルクの気遣いにも似た言葉を一蹴してから、ベストは大仰に片足をくみ上げる。

 ことさらに威圧するような態度を、ベストはマリーに対して見せることはない。

 彼女の場合、威圧感を漂わせてみたところでさっぱり効果がないことは言うまでもない。だからマリーに対して格下の人間に対してするような威圧的な振る舞いをすることはなかった。

「マリーの自宅のアパートメントを盗聴していることは、ベスト中将もご存じのことと思います」

 丁寧な言葉遣いの裏側に、シェレンベルクは狩人のような鋭利な冷徹さを垣間見せながら、若手の警察官僚はにこやかな笑顔をたたえて執務机をはさんで、かつての上官にそう告げた。

「ふむ」

 味方を盗聴するなど良い趣味とはとても言いがたい。

 ベストはそう思う。

 自分の生活の全てが誰かに筒抜けだと知れば、普通の人間は平常心ではいられないだろう。しかし、シェレンベルクがマリーの自宅を盗聴しているということは、国家保安本部首脳部の高官たちばかりではなく、マリー本人もわかりきっていた事実だった。そしてベストとヨスト、そしてマイジンガーはマリーの口から盗聴の事実を耳にしていたから知らないわけがない。

 内心の不快感を押し隠し、表情も変えずに短い相づちを打ったベストは視線だけを上げてから、シェレンベルクが天板の上を滑ったファイルの乾いた音に耳をそばだてた。

「マリーの周囲に反体制派が集まっていることはご存じですか?」

「そんなこと今更の話ではなかろう。突撃隊(SA)もそうだし、陸軍参謀本部もそうだ」

 彼女の周りを飛び交う男たちは、決してナチス親衛隊の将校たちばかりではない。そもそもナチス親衛隊の人間ですら全員が全員「親ナチス派」であるのかと言われれば、それはそれで怪しいものだ。

 国家保安本部の人事局長を務め、ハイドリヒの副官とも呼ばれたベストにはそうした組織内部の事情にも精通している。

「ベスト中将の眼識には恐れ入ります」

 控えめに笑うシェレンベルクが表情のままに控えめであることなど、ベストは信じていない。

「褒めても何も出ない」

 あしらうように応じたベストは、フンと鼻を鳴らしてから頬杖をついて目の前の机の天板の上を滑ったファイルに指先を伸ばす。

「マリーの周りは”敵”ばかりだ。それがどうしたというのだ?」

 冷静に問いかけるヴェルナー・ベストに、シェレンベルクは口元に笑みをにじませると数秒の間を置いてから椅子の肘掛けに寄りかかってから座り直した。

「そちらは六局の盗聴班の報告書です」

「そのようだな」

 ルーン文字で「SS」と書かれた紙のファイルに挟み込まれているのは、手書きの報告書だが正式な公文書を示すための連番は記されていない。要するに、そうしたたぐいの報告書だ。

 ベストは素早く状況を把握すると、インクの濃淡のはっきりとした手書きの報告書にざっと視線を通す。

「彼女の周りにはいろんな種類の人間が出入りしていることは今に始まったことではない。敵も、味方も」

 「いや」とヴェルナー・ベストは思った。

 彼女の周りは敵ばかりだ。そもそも誰が味方で、誰が敵なのかもわからなくなりそうだ。

「それで、なにか問題でも?」

「問題というほどのものでもありません、中将」

 マリーの自宅に姿を見せたのはアルノルト・ゾンマーフェルトとマックス・プランク、そしてマックス・フォン・ラウエ。その中のひとりはウランクラブの指揮を執るヴェルナー・ハイゼンベルクを通じて、マリーの家庭教師の役割に収まっている老科学者のアルノルト・ゾンマーフェルトであることはベストにもわかりきった既成事実だ。

 そのアルノルト・ゾンマーフェルトが「白いユダヤ人」とも呼ばれていたことも、ベストにはわかっている。なぜなら、ハイドリヒの指揮下のもとでベストもその捜査に間接的ながら関与しているからだった。

 自分が必ずしも潔白だとは思っていない。

 言葉少なにシェレンベルクと言葉を交わしながら、ベストは報告書に綴られたアルファベットを瞳で追いかける。

 マリーの家庭教師を暇つぶしに引き受けているアルノルト・ゾンマーフェルトの本心は、おそらく今も昔も変わらないだろう。

 人間というのは、年をとればとるほど容易に主義主張を転換させることはかなわなくなる。それが人が頑固になるということなのかもしれない。

 そんなゾンマーフェルトが所属するのは科学の最先端の世界で、それは非常に国際的な広がりを持つ世界であることも多少はベストも知っている。なぜならば、彼らが交流を持つのはそれこそ世界中の科学者たちであるからだ。そしてゾンマーフェルトはドイツ屈指の知名度を誇り、さらに世界屈指の知名度を誇る。ドイツ人の「左派」の学者たちを代表する人物と言っても過言ではない。

 そんなゾンマーフェルトがマリーの家庭教師をしているとなれば、少女の周りにやはり同様の思想を持つ科学者が取り巻きとして増えたとしても不思議なことでも何でもないだろうし、マリーの自宅にゾンマーフェルトが訪れることと、その「友人」たちが訪れたこともベストは報告を受けている。

 いまさらシェレンベルクの報告書を見るまでもない。

「ラウエ教授とプランク教授が、ゾンマーフェルト教授と一緒にマリーの家に訪れたことについてかね?」

 率直にベストが問いかけた。

「ご存じでしたか」

 ぬけぬけとよく言ったものだ。

 穏やかなシェレンベルクの笑顔に、ヴェルナー・ベストが鼻白む。

 どこまでもこの優秀な若手の警察官僚は食えない男だ。

「わたしをなんだと思っている、シェレンベルク少将」

 むっつりとした様子で不機嫌そうな空気をただよわせた元裁判官の男に、シェレンベルクのほうと言えば一瞬だけ瞳にひどく冷徹な光を浮かべてみせる。

 そう――。

 彼は穏やかで人当たりが良いだけの事務屋ではない。

 ナチス親衛隊屈指の大スパイ。ヴァルター・シェレンベルクの諜報部員としての手腕と技術はベストも詳しく知るところだった。

「申し訳ありません。ベスト中将」

 冷ややかに彼は言った。

 彼をオットー・オーレンドルフやハインリヒ・ミュラーらのような通常の警察官僚と同列に考えては正しい物事を見誤る。だからシェレンベルクの態度はあくまでも真剣に受け止めるべきではない。

「政権首脳部からの攻撃が考えられる以上、慎重に振る舞うべきではないかと思っただけです」

「それも今更だろう」

 再びベストが一蹴した。

 レームの失態によって突撃隊が骨抜きにされ、実態としてはナチス親衛隊と険悪な状況に陥ったこと。そして、度重なる高官たちの更迭によって国防軍司令部が事実上その権限のほとんどを失ったこと。ありとあらゆる事象がナチス親衛隊を取り巻いた。

 おそらくナチス親衛隊の権力が肥大化すればするほど、アドルフ・ヒトラーの疑惑の目は次なる粛正の対象になるのだろう。

 なぜなら、ナチス親衛隊を嫌悪し、憎悪する者たちは少なくない。

「党の官房長……、ボルマンが今度は親衛隊(SS)の力も陸軍の連中と一緒にそぎ落としにかかったと見た方が良いだろうしな。貴官は頭の回転が良い男だが、おかげでマリーが巻き込まれた」

 一息に言い放ってから、目の前に差し出されたファイルを閉じてから、シェレンベルクへと向けて指先で弾いて天板の上を滑らせると突き返す。

「貴官はマリーのことをなんだと思っている」

 朗らかで明るい。

 本来であれば権力や、権力抗争のたぐいとは切り離される場所にいるはずのマリーを、国家保安本部の関与する抗争に巻き込んだのは目の前にいる一見すれば魅力的な青年なのではないかと不審を抱いた。

 一方で、「マリーのことをなんだと思っている」と問いかけられたシェレンベルクのほうは、底の見えない眼差しで相変わらず冷ややかな笑みを浮かべたままで、執務机に指先を踊らせると「さて」と独白してから小首をかしげた。

「諜報部員に、そのような問いかけをすること事態野暮な話ではありませんか?」

 ヴァルター・シェレンベルクという男は、上官であったハインツ・ヨストを追い落とし自ら国外諜報局長という地位に上り詰めながらも、正しく諜報部員という立場にとどまった。

 それが管理職として必要な資質であるかどうかはともかくとして、シェレンベルクはあくまでも完璧な諜報員だ。

 ラインハルト・ハイドリヒのように傲慢で悪辣で、どこまでも利己的に自己を通すわけではない。よくよく観察してみればシェレンベルクもハイドリヒと似たような権力志向の野心家でもあるが、ハイドリヒという先達の失敗を目にしているからかやり方が周到だ。

 おそらくシェレンベルクのような男であれば、仮にドイツがアメリカやイギリスなどの戦争に負けてもうまく世の中を渡っていくことができるのかも知れない。なんとも皮肉な話であるが、ベストにはシェレンベルクのような世渡りをする自信はなかった。

 ヴァルター・シェレンベルクは、特別だ。

「まぁ良い、シェレンベルク少将。話の要点を聞かせたまえ」

 ベストは内心で思考を巡らせてから、会話の相手を煙に巻くような態度しかしてこない青年の言葉の先を促した。

「恐れ入ります」

 会釈をするようにぺこりと頭を下げてから、シェレンベルクはベストに対して再び口を開いた。

「この報告書に関しては、中将にご覧戴いたとおり非公式なものであって”公的な”文書ではありません。ですから、万が一、政権首脳部から謀略の疑惑ありとされたところで信頼に足る証拠にもなり得ませんが、我々であれば夜と霧の法令の適用によって対象を拘束するには十分な証拠となります。ですので……」

「なるほど」

 シュトレッケンバッハも言っていた。

 彼女を高官たちが特別扱いすればするほど、格下の人間たちの不満は泥のようにたまっていくだろう。

 ナチス親衛隊の男たちは、そうでなくても暴力的で女など腕力で組み敷いても良いものと思い込んでいる節がある。

 もちろん権力の側に「自分たち」がいる以上、そんな下士官や兵士たちの戯言につきあうつもりなど皆無だが。

 危険性はぬぐえない。

 暴発するための材料は整っている。

「自分たちよりも特別扱いされているのが、こんな年端もない子供であると周知されると厄介だ」

 ヴェルナー・ベストは不愉快そうに眉をひそめた。

 強姦魔はどこに潜んでいるかわからないし、男が女を辱めるにはなによりも最も手っ取り早いやり方だ。

「ひとつ答えてもらいたいが、貴官にとって”彼女”はまだ道具としての使い道が残っているのかね?」

「さて……、お答えいたしかねます」

 ヴァルター・シェレンベルクはベストにそう告げて笑った。

「なるほど、承知した」

 かつりと靴の踵を鳴らしてベストが立ち上がり、執務室を出て廊下に出ると扉を閉じる寸前に、シェレンベルクの感情のかけらも感じさせない声色が響いて消えた。

「餌は、馬鹿なほど使いやすいとも言いますので」

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