11 男たちと少女と理由
「ちょっと失礼する」
軽く会釈をして会議の席から立ち上がったヴェルナー・ベストはまっすぐに背筋を伸ばして会議室を出て行った。かつての人事局長という地位にあれば、ベストの会議中の態度は問題視されて然るべきなのであろうが、現在の彼の立場はと言えば閑職の警察官僚でしかない。なによりも具体的に国家保安本部と秩序警察の統合という話題であれば、国外諜報局の例外的に特殊な立ち位置にあるマリーの特別保安諜報部にとっては、ほぼ関係がない話と言ってもいいだろう。
確かに、人手不足という一点については、国家秘密警察と刑事警察に限った話ではない。経済界や政界の人間とより強いつながりを持つオーレンドルフの国内諜報局はともかくとして、シェレンベルクのひきいる国外諜報局に至ってはそれこそ、特殊な技術を要する部署だった。今更秩序警察の平々凡々な制服警官が統合されたところで、シェレンベルクの業務に何らかの影響があるわけでもなかった。だからヴァルター・シェレンベルクにとってはそれほど関心の高い話でもないし、ヒムラーの私設部隊とも揶揄される特別保安諜報部にとっても同じことだった。
頬杖をついておとなしく交わされるやりとりを聞いているマリーを横目に見やってから、シェレンベルクはファイルを気がなさそうにめくってから胸の前で腕を組み直した。
国家保安本部の官僚と捜査官とを含めて、その構成要員は約五万人程度である。そのうち、国外諜報局と国内諜報局に所属する情報将校は約二千人だった。簡単に言うと、ミュラーのゲシュタポやネーベのクリポなどよりも人手不足という災難に見舞われているのは、いっそオーレンドルフとシェレンベルクとの方であると言ってほうが良いだろう。
それとも、諜報部員たちは超人とでも思われているのだろうか?
もちろん諜報員たちに特殊な資質と、技術が必要とされるのは言うまでもない。しかし、その人員を発掘するための選抜に関わる人間も必要だ。戦時下であるとは言え、そうした情報将校の人員まで削減されるというのもいかがなものか。
シェレンベルクとオーレンドルフの不審げな眼差しに気がついたらしいカルテンブルンナーは、しかつめらしい顔つきのまま首を回すとゴホンとあからさまな咳払いをすると口を開いた。
「もちろん、諜報部員としての適性がある者は優先的に異動することになる」
とってつけたようなカルテンブルンナーに、シェレンベルクは表面的にはわずかに表情を緩めると「恐縮です」と告げたが、内心ではあきれかえった様子で首をすくめただけだ。
カルテンブルンナーには諜報活動のなんたるかが、そもそもわかっていない。そして、しがない弁護士上がりでしかないエルンスト・カルテンブルンナーには――ヴェルナー・ベストもそうだが――、その使い方もわかっていないのだ。
諜報部員というものは、「正しく」冷徹で、理性的でなければならない。自分も捨て、風見鶏であり、そして状況の変化を正確に見極められなければならないのだ。
諜報部員は国家の道具だ。
人としての心などを持ってしまえば、自分以外の他人を、道具として見ることなど不可能になる。
常に国家こそを最重要視できなければならない。
問題は、諜報部員としての個人がどの国家に従属していると考えるか、だ。
「秩序警察に諜報部員としての適性を持つ者がいることを期待します」
ごく形式的に、オットー・オーレンドルフはそれだけ言ったのは、カルテンブルンナーの顔を立てたといったところだろうか。
そんな言葉を交わしている間に、ベストが静かに席に戻ってきてしばらくしてから会議は終了した。
「ベスト中将」
「なにかな?」
ガタガタと椅子を引く音が鳴る中で、小柄な少女をエスコートするヴェルナー・ベストに声をかけたのは、現人事局長を務めるブルーノ・シュトレッケンバッハ親衛隊中将である。
彼はカルテンブルンナーが二代目の国家保安本部長官として任命されるまでの数ヶ月の間、人事局長と国家保安本部長官代理を兼任した。いわゆるハイドリヒ派の中心的存在で、一九三九年のポーランド戦においてアインザッツグルッペンの指揮官を務めた名実ともにエリートとしての名誉に預かった。
「先ほどはなぜ席を外されたのです?」
ポケットからタバコ入れを取り出して身振りだけで相手にタバコを勧めながら問いかけたシュトレッケンバッハに、ベストは肩をすくめてから彼のタバコ入れから紙巻きタバコを一本指先で抜き取った。
「マリーが腹が空いたということだから、ヨスト少将に電話をかけて軽い朝食を準備してくれるように伝えただけだ」
「なるほど」
短く相づちを打ってからシュトレッケンバッハは口の中で小さく「まぁ、あのヒムラー長官のことだからマリーの腹具合のことまでは考えてなかろうな」と付け足した。
ヒムラーはよく言えば素朴でお人好しだが、悪く言えば無教養で朴念仁だ。
マリーのことを誰よりも気に懸けているようで、実は重要なところは全く見えていない。
それはそれで、彼の下にいる人間は楽なことこの上ないのだが、本人が自分を多少は優秀だと思っているところはたちが悪い。
人間というものは分をわきまえることが肝心だ。
「会議が決まったのも急だったから悪かったね、マリー」
「いいえ、大丈夫です」
わずかに腰を落として小柄な少女に目線を合わせたブルーノ・シュトレッケンバッハがタバコをくわえたままの口許でにこりと笑うと眉尻を下ろした。
いずれにしろ諜報部にとってみれば国家保安本部の捜査部門と秩序警察が統合されたところで何かしらの利益があるとも思えない。諜報部にとっては、もっと広い範囲から諜報部員としての適性を持つ者を選抜することの方が重要なのかもしれないが、その選抜にしてみたところでシュトレッケンバッハやベストらにそうした目利きの才能があるというわけでもないことは、誰よりも当人たちが自覚している。
人事局長という地位と、諜報部員の適性を看破する適正というものはまた別物だ。
「今後、このようなことがあるときは前もって君の分の食事は用意させておくようにする」
そう言ってからシュトレッケンバッハは少女の金色の頭を分厚い手のひらでなでてやる。
「しかし、そんな特別扱いをしては不満が噴出しないかね?」
もっともらしくヴェルナー・ベストが問いかけると、シュトレッケンバッハはちらりと鋭い視線を軽く上げた。
「二十歳以下の職員の体調管理に対する項目でも付け加えれば文句は出まい」
「ふむ」
二十歳以下の国家保安本部の職員――つまるところマリーをことさらに限定した規則であることは明白だ。おそらくマリーだけを特例として限定するような規則を作ってくるに違いない。シュトレッケンバッハだけではなく、カルテンブルンナーもナチス親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーもマリーを特別扱いしている嫌いがあったから、人事局長による提案をすげなく一蹴することはないだろう。
とはいえ、上層部はともかく組織の下部には不満が滞留するものである。
タバコに火をつけてからベストは数秒考え込んでから、煙を吐き出してからふたりの親衛隊中将が言葉を交わしている様子を見上げている少女の双眸を下ろす。
「不満が暴発する可能性を考えて、マイジンガーとナウヨックスには警護を強化させよう」
どこでもそうだ。
いつも弱者が暴力の犠牲に晒される。それはどこにあっても変わらない。国家保安本部にあってもそれは同じで、弱い人間は蹂躙されるだけの運命しかなかった。
「……ナチス親衛隊と言うだけで、自分が偉いと思っている猿は多いからな」
容赦なく一刀両断したベストは、それからシュトレッケンバッハと手短な言葉を交わしてから別れて姿勢を正す。今では当たり前のようにマリーと共に歩くときは腕を貸すことにも慣れてしまった。当初は長い間、入院生活を続けていた彼女がすっかり足を弱らせてしまったことで頻繁につまづいていたことがきっかけだった。
余りにも頻繁に転ぶものだから、やむなく彼女に腕を貸すことにしてそれ以来とも言える。
「君は危なっかしい」
それは彼女の歩みに限った話ではない。
立ち居振る舞いの全てが危なっかしいと言えばいいのかもしれない。
無防備で、屈託がない。彼女は良くも悪くも人を疑ってかからないところは、見ている大人の方が不安を感じるというものだ。
世間には婦女暴行の事件が横行しているのだから。
女子供というものは、常に弱い立場に晒された。
「そうかしら?」
「……――そうだろう」
昨年は暴漢に襲われて骨折もしたし、出張先のストックホルムでは狙撃の標的にもされた。加えてプラハでは宿泊先で襲撃にあったし、別件では危うくマルティン・ボルマンの毒牙にかかるところだったではないか。
こうまでも危険に晒されているわけだから、もう少し自分の身の回りの危険に神経を使っても然るべきではないか。
「わたしだって気をつけているわ」
ベストの腕に捕まる自分の手にぎゅっと力を込めてから、マリーはいつものように唇をとがらせる。
「本当に?」
「本当よ」
マリーは気をつけているつもりなのだろう。
しかし、彼女が気をつけたところでプロの狙撃手に遠目から狙われればひとたまりもないのは現実だ。おそらくそれが彼女ではなく、ベストやヨストであっても同じだったろう。だからこそ自分の身の周りの安全には気を使いすぎるほど気を遣ってもおかしくはない。
つまるところ、マリーが仮に気を遣っていても襲撃にあうと言うのであれば、彼女に危機管理能力が欠如しているということを示している。
「君は注意力が足りないから心配だ」
「そんなこと言われても……」
かわいらしくぷくりと頬を膨らませたマリーに視線をおろしたベストは声もなく苦笑した。
彼女の困った顔をベストはかわいらしいと思う。
年頃の青年や少年たちではあるまいし、マリーの膨らんだ頬を指先でつつきたくなる気持ちを抑えながら表情を改めた。
マリーを好ましいと思っていても、それはいわゆる恋愛感情とは違って、親が子供をいとおしく思うようなものだ。そうやって自分の気持ちに納得した。
誰だってかわいらしい女の子を見て不愉快になる者はいないだろう。
「ヨスト少将には部屋に朝食を用意してもらっているから、それで朝食にしたまえ」
「ありがとうございます、ベスト博士」
ベストは自分の腕に少女の胸が押しつけられた。
おそらく無意識だろう。
無邪気にベストの腕に抱きついてにこにこと笑っている少女からはかすかに花の香りがしたような気がした。
いつも朗らかで明るいことは良いことだ。しかし、これが良い大人の自分だから良かったようなもので、見境のない若い男だったらいったいどうなることやらわからない、というのもベストの本心だった。
「君は警戒心が足りなすぎる」
「でも、危なくなりそうなときはベスト博士が守ってくれるんでしょう?」
執務室に続く廊下を歩きながら、マリーはあっけらかんとそう告げていつもと変わりなくにこりと笑って見せた。
「わたしは君のお目付役だからな」
ありとあらゆる攻撃から、彼女を守ることがベストの最たる役目であること。
一年ほど前にパリから招集されたベストは、ヒムラーの理不尽な命令に憤慨した。パリの民生本部が閑職だったことは明らかだったが、それ以上にさらに閑職に飛ばされなければならないへまなどしたつもりはない。
国家保安本部の国外諜報局に連なる小規模な部隊――特別保安諜報部。
その部署長はひとりの少女だというのだ。
「否やは認められない。ベスト中将」
「……と、おっしゃいますと?」
「”貴官のための”ポストだ」
「つまり女子供のおもりをせよと? 理由をお聞かせください。ヒムラー長官」
「理由は……」
ハインリヒ・ヒムラーはあのとき、ヴェルナー・ベストに対して言いよどんだ。またも左遷かと内心で落胆したが、それはそれで良かったというのが今の感想だ。
「ベスト博士とヨスト博士がお仕事をできることを知っていたから、わたしがヒムラー長官にお願いしたのよ」
廊下を歩きながらマリーは朗らかにそう言った。




