10 進むべき道
今更ヴェルナー・ベストは国家保安本部の官僚たちを中心に率いられるアインザッツグルッペンなどに関わるつもりなど毛頭ない。かつてはラインハルト・ハイドリヒの副官、あるいは法律顧問として人事局で辣腕を振るったものだが、ベストが育て上げた国家保安本部はもはや彼の手を離れて久しい。
高級官僚たちが会議の円卓で深刻な話題に頭を悩ませているその時に、同じ席に名前を連ねている少女のほうはそれなりに関心がなさそうな顔でテーブルに頬杖をつくと、目の前に準備されていたファイルに視線を走らせていた。
会議が始まる前にベストが考えたとおり、どうやらマリーにとってはそれほど面白くもなさそうだし、特別関心をひく内容でもないらしい。もっとも、彼女の同席を指示してきたのは、マリーの直属の上官でもあるヴァルター・シェレンベルクでもなければ国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナーでもない。
親衛隊全国指導者――ハインリヒ・ヒムラーの命令だ。
そのため理由を尋ねてきたベストに対して、シェレンベルクもカルテンブルンナーも明確な答えらしい答えを提示することはなかった。とはいえ若いシェレンベルクのほうはといえば「会議の席に彼女が同席したとしても、意見らしい意見はないと思いますが、その辺りは親衛隊長官閣下は余りお考えではないようです」とだけ、形式的ながら答えてくれたのはベストの顔を立てたというところだろう。
「ねぇ、ベスト博士」
マリーが頭上を飛び交うやりとりをほぼ聞き流しながら小声でベストに問いかけた。
「なにかね?」
「つまり、どういうこと?」
「聞いていなかったのかね?」
「聞いていたわ、どうしようもなく人手不足だから、秩序警察と統合して優秀な捜査官を発掘しましょうって話でしょう?」
マリーがピンク色の唇をとがらせた。
透けるように白い肌は血色が余り良くないが、表情豊かな彼女の笑顔を彩る唇や長い金色のまつげなどには目をみはるものがある。
健康的な、という言葉からはほど遠いが。
整った顔立ちと長い金色の髪と青い瞳。素材はそれなりに良いのだが、いかんせん見るにたえない小食のせいで育たなければならないところが全く育たない。
「よく聞いていたな、キャンディーをやろう」
マリーの隣の反対側の席に座っていたヴァルター・シェレンベルクが、制服のポケットに手を突っ込んでから、マリーの鼻先にあめ玉の包み紙をぶら下げた。
「……――子供じゃないわ、でもありがとう」
マリーはくるくると表情を変える。
あからさまな子供扱いに怒ったかと思えば、数秒後にはにこりと笑ってから青年の手からあめ玉を受け取った。
「でも、仮にヴェンネンベルク大将のところの秩序警察と統合するにしたところで、ヴェンネンベルク大将は余り快く思わないんじゃないかしら」
「なぜかね?」
マリーが口の中にあめ玉を転がしながら、もごもごと言葉を吐き出した。
意味深に問い返したベストの眼差しに、青い瞳を上げた少女は、顔の横に流れ落ちる金色の髪を指先で耳の上にかきあげると小首をかしげる。
「ベスト博士はずるいわ」
唇をとがらせてマリーが小さく抗議する。
困惑したような。もしくは、怒ったような彼女の唇をとがらせた表情がベストは好きだった。
好きな女の子ほど怒らせたくなる。
いろんな表情を見たいのだ。
「……ほう?」
とっくの昔に左遷されたしがない法律家など、今更会議の席でどんな発言を求められるわけでもなければ、なにかしらの権限があるわけでもない。今のベストにあるものは、マリーの首席補佐官としての立ち位置だけだ。
だから気楽な立場と言っても差し支えはないだろう。
誰もベストなどに期待はしていない。
本来であれば、男としてそれは口惜しく思うところであるだろうし、出世レースから脱落したのは高級官僚のエリートとして恥ずべきことだ。だが、そんなことに今更思いを煩わせたところでなににもならないことを、ベストはハイドリヒから学んだ。
かつて、ベストが補佐を続けた抜け目のない獣のような男は、「友人」など、必要としなかった。ハイドリヒが必要としたのは、使い捨て可能な部下という道具だけだ。それを知ったときに、自分もいずれはハイドリヒに食い尽くされるのだろうと覚悟さえして、あえて目の前に用意された出世街道を引退したのである。
そういう意味で、今の会議の席というのは法律家としてのベストが、必ずしも必要とされているわけではない。あくまでもマリーの「おまけ」だ。
「だって、わたしなんかよりもずっといろんなことをよくわかっているのに、わたしに意見を求めるんだもの」
非難がましい口調で両手をテーブルの上に伸ばしたままで、顔を伏せて抗議をする。
一部のマリーをよく知らない警察官僚たちは、少女のそんな態度にことさらに眉をひそめるが、陸軍参謀本部や国家元帥相手でも物怖じなどしない少女が、警察官僚とはいえ所詮はしがない中間管理職に気後れするはずもない。なによりも少女の態度を親衛隊長官のヒムラーが容認してしまっている以上、ヒムラーよりも格下の人間が異論を挟めるわけもなかった。
「怒らないし、笑わないから言ってみたまえ」
堅苦しい表情のまま、マリーを促したベストの声が漏れ出しそうになる笑いでかすかに揺れる。
「……――本当に?」
「もちろん」
マリーを相手にしていると、ベストはどうにも世間に対して悟りを開いた気分になってくるのはどうしたことだろう。
こんな子供のおもりを任された冴えない閑職の警察官僚。
出世レースから脱落した駄馬。
そうした評価さえもどうにでもよくなってくるというのが本音だ。
ひそひそと小声で言葉を交わすふたりの声は、会議室全体には届かない。ともすれば、高官たちの交わすやりとりの中にかき消えてしまいそうだ。
「だって、ベスト博士。ヴェンネンベルク大将の秩序警察は制服警官だし、みんながみんな秘密警察を快く思ってるわけじゃないわ。そんなことネーベ中将の刑事警察を見たってわかるわ」
面白くなくても職務は遂行しなければならない。
ドイツ人であれば、ドイツの規則には忠実であるべきだ。
国家保安本部に属するミュラーの国家秘密警察と、ネーベの刑事警察は世間一般的には似たような「政治警察」としてひとくくりにされることが多いが、実のところその実態は大きく異なった。
ミュンヘンの秘密警察を中核として構成されたハインリヒ・ミュラーの部隊に、たまたま犯罪捜査の専門家である刑事警察の捜査官たちが多くリクルートされただけのことだ。そしてそのふたつの組織の中枢は今現在も隙あらば互いに凌駕しようとしてしのぎを削っている。
そんな国家秘密警察と刑事警察よりも、その高官たちはともかくとして――もっと一般庶民たちに寄り添っている秩序警察ともなれば話が違う。彼らは時に国家保安本部の捜査官たちをも出し抜き、一般市民たちの権利を守ろうとして戦いを仕掛ける度胸を持つのもまた見るべきところなのかもしれない。
なぜならば、彼ら自身が生え抜きの精鋭ではなく、一般市民たちが「就職先」として選んだ彼ら自身であるからだ。
ラインハルト・ハイドリヒとクルト・ダリューゲによる覇権争いはともかくとして、秩序警察は制服警察として誰よりもドイツ市民の傍らにある。
「ヴェンネンベルク大将が秩序警察と国家保安本部とが足並みをそろえることに面白く思っていないように、政治警察に主導権を握られることを快く思っていないとわたしは思いますけど」
「ふむ」
唇に人差し指を押し当てた少女の様子に、ベストは飛び交う議論をさておいて小さくつぶやきながら相づちを打った。
「それなりに的を射ているな」
国家秘密警察と刑事警察が対立構造にあるというのは今に始まったことではない。さらに同じナチス親衛隊内にあっても親衛隊本部同士も激しい対立関係にあった。
「しかし、国家保安本部と秩序警察の合併を決定したのは”我々”ではない。ヒムラー長官が決定してしまえば、我々には拒否権はないだろう」
「……そうかしら?」
なにが「そう」なのか、ともベストは思ったが、マリーが言うところを想像すれば、ヒムラーがナチス親衛隊の官僚たちの意見に振り回されて前言撤回するのはそれほど珍しい話とも思えない。
国家保安本部の会議の席だからアルフレート・ヴェンネンベルクがいないのもおかしな話でもないが、なにせその席にはカール・ヴォルフもいるのだ。議題が秩序警察と国家保安本部の併合についてであるというのに、そこに問題の秩序警察長官がいないというのも奇妙な話だ。
テーブルに顎をつけたまま眉間にしわを寄せた少女は、金色に光る長い髪を背中に散らして上目遣いにベストを見上げる。
「つまり、もう決まってるってこと?」
「いつものことだ」
会議というのは名ばかりだ。
ただ上層部が決定した内容を告知するためだけに行われたに過ぎない。
冷ややかに思えるほど冷静な声色で、ヴェルナー・ベストはかすかに眉をひそめてから議論の飛び交う室内を一望する。
「決まってるんだ」
マリーがぽつりとつぶやいた。
とても同意しているとは言いがたい少女の様子は、まるで「決まっているなら会議をするだけ無駄ではないか」とでも言いたげだ。
確かに、決定している内容であるならば、わざわざ朝早くから警察官僚を集めて論議をするようなことでもない気がする。
言って見れば人件費の無駄だが、いかんせん官僚の給料は決まっている。いくら残業をしたところで、戦場でもない以上、超過勤務手当てが出るわけでもない。
ふーん、と声を上げた少女はおもむろに体を起こすと、自分の隣の席に座っているベストの肩に寄りかかって円卓を見渡した。
発言を求めるように片手を上げた少女は、両目をしばたたいてから口を開いて国家保安本部長官の名前を呼んだ。
「カルテンブルンナー博士ー」
天下の国家保安本部長官をのんきな顔をして「カルテンブルンナー博士」と呼びかけるのはマリーくらいのものだろう。
「なにかね?」
「おなかがすきました」
他意もなく彼女が言った。
確かに、国外諜報局などの生粋の諜報の人間にとってみれば、警察組織の合併など知ったことではない。
「国家保安本部の会議では先のヴァンゼーの会議のように、朝食付きの和やかな会議というわけにもいかんからな」
おなかがすいたと訴える少女の無邪気な物言いに、カルテンブルンナーが目尻をおろしながら穏やかに応じた。
「もう少しですむから我慢をしなさい、いいね」
「はーい」
靴を脱いで自分の膝を椅子の上に引き上げた少女は、その膝に顎を乗せてから頬を膨らませて不満げながらもカルテンブルンナーに了承した。
「わかりました」
高官たちがぞろりと顔を並べる会議室で、気後れもせずに空腹を訴える彼女は肝が据わっているとしか言い様がない。
おおかたベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクが迎えに来た時間が早すぎて、マリーは朝食をとることができなかったのだろう。ヴェルナー・ベストはちらりとそんなことを考えてから、時計を見やった。




