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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXIX シメオン
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9 変革すべき一面

 マリーを国家保安本部へと送り出したアルノルト・ゾンマーフェルトは帰宅するために、自分の少ない荷物をカバンに詰め込んでから教科書とノートと鉛筆が乗ったテーブルの上に視線を走らせた。

 国家保安本部から訪れた彼女の迎えは法律学者のベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクだった。

 世俗的な情勢には余り敏感ではないが、それでもシュタウフェンベルクの慎重な態度と物言いから、青年が親ナチス的な立場にいる人間ではないことはさすがのゾンマーフェルトもかぎ取った。

 それは「白いユダヤ人」と揶揄されたゾンマーフェルトだからこそ感じ得た感覚だったのだろう。

 マリーの奇妙な立ち位置から考えれば、国家保安本部に在籍するというシュタウフェンベルク伯爵が自分の意志でそこに所属しているわけではないということは明かだろうし、その辺りはマリー自身に問いかけてみれば、素直な彼女であれば何の疑問も持たずに答えてくれるだろうということは明白だ。

 そうしなかったのは時間に余裕がなかったからだ。そして、一方で彼女の自宅が、彼女自身の意志にかかわらずゾンマーフェルトにとっての「敵」の渦中であったからでもある。

 敵の領域にいる以上、考えなしの発言をするということは自ら命を縮めるようなものだ。

 だから、口は固く閉ざしていなければならない。

 胸の奥にわだかまる複雑な思いを口にすることもせずに、年季の入った帽子をかぶるとマフラーを首に巻いてマリーのアパートメントを出た。

 口は災いのもと、だ。

 おそらくベルトルト・フォン・シュタウフェンベルク伯爵の思いも同じだろう。安易な発言は命取りになる。そして、人間というものは死んだらおしまいだ。

 自分のような年寄りは死んだところで社会的な影響は小さくてすむかもしれないが、若者はそうではない。

 反体勢派という同じ立場にいるからこそ、アルノルト・ゾンマーフェルトには理解ができた。同じ道を歩むはずのマックス・プランクやマックス・フォン・ラウエらのように、ゾンマーフェルトも決して少数派であっても「ひとり」ではない。



  *

「おはようございます」

 赤毛のシェパードのリードを引くのはベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクだ。一見地味なベージュのジャケットに布地をふんだんに使われたフレアースカートを身につけた少女の出で立ちは上品で、四十歳前後の男性陣たちにしてみれば印象も良いだろう。

「あぁ、おはよう」

 すでに出勤していた次席補佐官のハインツ・ヨストが手帳をめくりながら視線を上げた。

「昨晩、急に会議が入ってね。君の家には電話がなかったからシュタウフェンベルク伯爵閣下に急遽、送迎の方をお願いしたのだ」

 組織外の知識人――しかも、貴族の――に対して最低限の礼儀を払って言葉少なにマリーに説明したヨストは、シュタウフェンベルクが執務室を後にするのを見送ってから、ロートのリードを首輪から外してやった。

 この警察犬はよくしつけられて大変行儀が良い。

 個体として賢く、判断力に優れているというところもあるかもしれない。

 とにかく赤号(ロート)は国家保安本部に所属する警察犬の中でもぬきんでて優秀だった。八時半にもなれば警察犬の訓練を担当する特別保安諜報部の訓練士がロートを訓練に連れ出すだろうが、それ以外の時間は大概マリーの執務室の隅でおとなしく座っていることが多かった。

「何の会議があるんですか?」

「親衛隊長官が急に来ることになったらしい。詳しくはしがない中間管理職のわたしには知らされてはいない」

「そうなんですか」

 健康オタクのヒムラーのことだから、毎朝早くからせっせと仕事をしているに違いない。

 ちなみに民間企業でも公的機関でも同様だが、勤勉な上司ほど迷惑なものはない。

「三階の会議室でベスト中将が待っているから行ってきなさい」

 ちらりと壁に掛けられた時計の針を眺めたヨストは、少女が椅子に座ったばかりであることを承知の上で促した。

「はーい」

 数秒考え込んでから首をすくめた少女は、椅子をくるりと回してからぴょこんと跳び上がるようにして立ち上がってハインツ・ヨストに明るく片手を振って見せる。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

「なにか持ち物いるかしら」

「いらないだろう。向こうで書き物の道具くらいは用意しているはずだ」

 男たちが身につける背広とは違って女性の衣服は筆記用具を持ち歩くようにはできていない。当然、マリーもペンなど持ち歩きしていないということになったから、マリーはヨストに必要な道具を尋ねたのだった。

 そうしたわけでマリーが会議室についた時間には、すでに何人かの国家保安本部首脳部の面々が顔をそろえている。

 若手のオーレンドルフやシェレンベルク、フランツ・ジックスなどは言うまでもない。マリーがシェレンベルクとヴェルナー・ベストの間の席に腰を下ろすと、遅れて刑事警察と国家秘密警察の高官たちが姿を見せた。

 刑事警察のアルトゥール・ネーベ親衛隊中将と、国家秘密警察のハインリヒ・ミュラー親衛隊中将。ぞろぞろと彼らに続くのはふたりが率いるベテランの政治警察の指揮官たちだ。

 フィールドグレーの制服の暴君たち。

 ドイツの一般市民たちがそのそうそうたる面子を見ただけで卒倒するかもしれない。そんなことさえ思わせる。

 午前八時――。

 室内のざわめきを遮るように、国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナーと、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー、親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官のカール・ヴォルフが現れた。

 三人の高官中の高官たちの姿に、席に着いていた一同はさっと立ち上がって敬礼をした。

 ――ハイル・ヒトラー。

 それが彼らの形式だ。

 もっともマリーの方はぽかんといつものように馬鹿みたいに口を開いてからローマ式の敬礼とは違う単なる挙手をして見せる。

 本人は一応敬礼のつもりのようだが、傍目には学校の教室で意見を述べるための生徒がするそれのようにしか見えない。

 上座に位置するところに三つの席があいていたのはそういうことだったらしい。

「珍しい人が現れましたね、オーレンドルフ中将」

 ヴァルター・シェレンベルクが自分の隣に腰を下ろしていた国内諜報局長のオットー・オーレンドルフにささやきかける。

「全くだ。ヴォルフ大将は毎朝総統官邸で行われている御前会議で午前中いっぱいは大概振り回されているはずだが」

「おはよう、諸君」

 潮が引くように静寂を取り戻した会議室の空気を、カルテンブルンナーの声が響き渡った。

「現在、我々国家保安本部は警察組織として重大な危機に直面している」

 ものものしいカルテンブルンナーの言葉に、なにか言いたそうにぴくりと片方の眉尻をつり上げたカール・ヴォルフだったが、横目を滑らせて国家保安本部長官を眺めただけで沈黙を守った。

 人事局長のブルーノ・シュトレッケンバッハと、総務局長のルドルフ・ジーゲルトは仏頂面のままでカルテンブルンナーに視線を走らせただけで、彼らも直属の上官の言葉の続きを待っている。

 国家保安本部は常に複数の問題を抱えている。

 それは特別、今に始まった問題ではない。仮に国家保安本部の全ての問題を解決するのであれば、莫大な資金と人員が必要になるだろうことは火を見るよりも明らかだ。

 ドイツ本国と占領地域を含めた膨大な人口を、国家保安本部はたった五万人という少数精鋭で監督している。公民問わず多くの協力者をありとあらゆる場所に展開しているが、それでもまだ足りなかった。

 特に、そうした人員不足は特に親衛隊諜報部を直撃する問題でもあった。

 俗物のカルテンブルンナーがなにを言い出すかわからない手前、とるものとりあえず表情を取り繕ったオットー・オーレンドルフとヴァルター・シェレンベルクは無表情のままで会議の円卓に座る一同を見渡しただけだ。

「現在、刑事警察と国家秘密警察は極度の人員不足に陥っている。そこで、ヒムラー長官と慎重に協議し検討を重ねた結果、アルフレート・ヴェンネンベルク大将の指揮する秩序警察との統合を決定した」

「……ふむ」

 カルテンブルンナーの宣言にミュラーが顎に分厚い手のひらを当ててから小さく相づちを打つと、アルトゥール・ネーベが咳払いをしながら椅子に座り直す。

 人手不足はそれこそ深刻な問題だ。

「問題はどちらがより権限を握るか、という問題でしょうな」

「しかし、秩序警察(オルポ)には秩序警察の職務というものがある。戦時だからといって、国内の犯罪がまったく皆無になるというわけでもないし、そんな余分なところにまで我々の仕事が及ぶのは好ましくない」

 ミュラーの言葉に続けるようにしてネーベが身を乗り出して言えば、それをきっかけにして刑事警察と国家秘密警察の警察官僚たちの間にざわめきがしじまのように広がっていった。

 問題は、どちらが主導権を握るかだ。

 たかが制服警官たちなどに主導権を握らせてはならない。

「”犯罪捜査”をするのは我々の仕事だ」

 もっともらしいミュラーの言葉に、ハインリヒ・ヒムラーが大きくうなずいて見せる。

「静粛に」

 ヒムラーが言った。

「国家保安本部と同様に、秩序警察の力も我が大ドイツには重大な組織である。しかし、現状では国家保安本部の能力が遺憾なく発揮されるためには秩序警察の役割も大きく、その力をそぐ一端を担っているのが武装親衛隊でもあると考えた」

 ヒムラーが言うには武装親衛隊の組織として引き抜かれている第四SS警察師団を秩序警察に戻し、秩序警察の中でも犯罪捜査に功績のある者を国家保安本部へと引き抜こうと言うことらしい。

 どちらがより主導権を握るという問題ではなく、同格の組織として国家保安本部と秩序警察を統合しようというのだ。

「しかし、負担が減るのは結構なことですが、アインザッツグルッペンの指揮官として刑事警察と国家秘密警察の指揮官が選抜されている現状を鑑みれば下っ端ばかりが増えることは感心しません、カルテンブルンナー大将」

 口を挟んだのオーレンドルフだ。

 国家保安本部の中枢を支えるネーベとミュラーの警察組織が強化されることは結構なことだ。その分だけ、情報の入手先も増えるわけだからオーレンドルフにとってみてもカルテンブルンナーとヒムラーのやり方には否やはない。

 しかし、いくら兵隊が増えたところで指揮する人間がいないのであれば烏合の衆と一緒だ。オーレンドルフはそれを危惧したのだが、片や国外諜報局を束ねるシェレンベルクのほうはといえば会議用の机に片方の肘をついたままで無言で視線を滑らせるばかりだ。

「もちろん、それについては東部に展開する行動部隊の撤収も視野に入れている」

 視野に入れている。

 カルテンブルンナーはそう言うが、言葉尻をとらえれば今のところ「視野に入れて」いるだけに過ぎないと言ってもいいだろう。

 しかし、人間の心というものは複雑だ。

「真価の発揮もできない腰抜けと仕事をしなければならんというのは考え物ですな」

 そこだ。

 一同のやりとりを黙って聞いていたヴェルナー・ベストは内心で相づちを打った。

 現在、この会議の席に着いている高級官僚のほとんどは戦時の現場へと「出動」して、過酷な任務をこなしてきたエリートたちだ。そうした体験をしてきた彼らがオフィス内で生ぬるく部下に命令するばかりの高級指導者たちを受け入れられるかと言えば話が違う。

 自分たちと同様に、命の危機に直面すればいいとも考える。

 円卓を囲むのは、残酷な戦場を生き抜いてきた心身共に鍛え抜かれたエリートなのである、という自負。

「……しかし、シュトレッケンバッハ中将」

 アルトゥール・ネーベがシュトレッケンバッハの言葉に異を唱えた。

「戦局は変わりつつある。時代も変わるし、人も変わるものだ。今後、あのような出動部隊が本当に必要とされるのだろうか?」

「それについては、国防軍司令部と協議を執り行う予定だ」

 時代は変わる。

 それは当たり前だ。

 国家保安本部は、その前身の保安警察の当時よりヘルマン・ゲーリングからハインリヒ・ヒムラーに。そしてそのハインリヒ・ヒムラーからラインハルト・ハイドリヒにバトンを手渡され、その権力を現在はエルンスト・カルテンブルンナーが握っている。

 時代が変わったからこそ、カルテンブルンナーは今の地位に座っていられるのだ。

「なるほど」

 今後、国家保安本部の昇進に当たって行動部隊アインザッツグルッペンの指揮官を拝命しなければならないのでは、それこそ国家保安本部は本格的な機能不全に陥るだろう。

 いずれにしろ、ヒムラーとカルテンブルンナーの采配ひとつであって、ネーベらが口を挟める問題でもなかった。

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