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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXIX シメオン
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8 蠢くもの

 マリーは何枚も布地を重ねた花びらのようなスカートの下に足首丈のドロワーズをはいている。大きな丸襟の白いブラウスと、ベージュのセーター。さらにその肩にはタータンチェックのストールを羽織っている。見事な厚着とも言えるが彼女の家庭教師を務めるアルノルト・ゾンマーフェルトはそんな大袈裟とも言える厚着に異を唱えない。

 華奢すぎて体力がない彼女は、厚着をしているくらいがちょうどいいのだ。

 年老いた科学者のマックス・プランクと、まだ若く血気盛んなマックス・フォン・ラウエがマリーの自宅から去ったのを見届けたゾンマーフェルトは、ふたりがけのソファに腰を下ろして足を抱え込むように膝に顎を乗せて目を閉じてうつらうつらと船をこいでいえる少女を見つめていた。

 いくら彼女が痩せているとはいえ、軍人でもなければ体力に恵まれているわけでもないゾンマーフェルトにしてみれば、彼女を抱え上げるわけにも行かずに小首をかしげたままでソファに深く座り直して頬杖をつくと長いため息をついた。

 この状況はどうするべきだろう。

 大学で講義をしている頃であれば、まだまだ若者の無礼な態度を咎める体力と気力もあったものだが、今は非公式な一家庭教師であるわけでなんらかの権限を持っているわけでもない。

 仮に権限があるとすれば、ミュンヘン大学の物理学科に対する影響力くらいだろう。

 かつてはアルノルト・ゾンマーフェルトも物理学科長をつとめ、さらに解任されてからもその代理を務めた紛れもない天才科学者だ。

 あまりにも彼女が安らいだ顔で眠っているものだから、その眠りを妨げるのも野暮に思えるが、四月のベルリンの冷え込みはそれなりに厳しいものだ。

 少女が本格的に眠り込むことを考えると、その体温は急速に下がるだろうと思われた。そうすると彼女は肌寒ささえも感じるリビングで風邪を引くかもしれないと思うと、やはり彼女を肩を揺すって起こし、ベッドへ送り届けるのが妥当な選択だろう。

 これが二十歳前後の体力の盛りの大学生どもであれば、心配する必要もないのだろうが、体力の頼りないマリーでは少なからず不安が残った。

「……マリー、起きなさい」

 長らく考え込んでから、ため息交じりに腰を上げたゾンマーフェルトが力の抜けた少女の肩を軽く揺らした。

 もちろん、五十歳ほども年少の少女に欲情などするわけもない。

「マリー」

 「うー」と、聞き取りづらい寝言のような声を上げて自分の膝に顔を押しつけたままほとんど身じろぎすらもせずに眠っているマリーは、何度か呼びかけられてからやっとゾンマーフェルトの顔を見つめると、金色のまつげを揺らしながら幾度か目をしばたたかせる。

「眠るならベッドで眠りなさい」

「……はい」

 ふらふらと寝室へと歩いて行く少女の後ろ姿を見送ってから、ゾンマーフェルトは靴を脱ぐとソファに寝転がって手近の毛布を引き寄せた。

 科学者というものは往々にして体力に優れているものだ。

 それは研究に打ち込むための情熱であったり、学会での討議であったり、もしくは長時間の集中力やそうしたものの全てが体力に依存しているのだ。

 要するにマリーの体力と、ゾンマーフェルトの体力では雲泥の差ということである。

 目を閉じて、ややしてから眠り込んでいくゾンマーフェルトは頭の片隅に閃いた可能性に少しばかりの不安を感じたが、睡魔に勝つことは難しくそのまま眠りの深い谷へと沈み込んでいった。

 ――彼女は時の権力者よりも非力である故に、誰よりも危うく、それでいて底知れぬ可能性を秘めているように思えた。

 世界にはあらゆる可能性に満ちている。

 彼女がそうした可能性のひとつであるならば、大人の責任としてそれを見届ける義務もある。

 輝かしい未来は、年寄りのためのものではなく、未来に生きる「子供たち」のものなのだ。それはマリーのみだけではない。

 ゾンマーフェルトが教鞭を執っていたときに教えた学生たち。

 ハンス・ベーテ、ピーター・デヴァイ、ヴァルター・ハイトラーやヴェルナー・ハイゼンベルクとヴォルフガング・パウリ。彼らは優秀な教え子たちだった。彼らの輝く未来のためにも、その道を閉ざしてはいけない。

 それがゾンマーフェルトの義務だった。

「……――わたしの進むべき道だ」

 どんなにドイツ当局から疑惑の目を向けられたとしてもそれだけは譲ることなどできはしない。決して譲ってはならないことだ。

 その未来に光りあれ……――。

 彼は強くそう思った。



  *

 翌日の朝、耳障りな来客を告げるブザーの音に目を覚ましたのは、若いマリーの方ではなく、老齢なアルノルト・ゾンマーフェルトのほうだった。

 年寄りは朝が早い、というではないか。

 まだ朝の肌寒さの残る時刻だが、腕時計を眺めてからゾンマーフェルトは軽く左右にかぶりを振った。老科学者はすでに楽隠居しているとは言え、彼が家庭教師を務める生徒の少女は国家保安本部の正式な職員だ。

 官僚と言うには微妙な年齢の彼女だが、役職から考えれば確かに国家保安本部の警察官僚とも言えなくもない。ただ、周りが真面目にそれを受け止めるには彼女は余りにも年齢が若すぎたし、学力も不足している。

 他者と比較して明確な優位性があるとすれば彼女が多言語を操ることくらいだが、冷静に考えればそれは実のところ優位性でもなんでもない。

 世界を股にかける外務省の官僚や外交官、そして諜報部の人間や学者たちはそれほど苦労もなく数カ国語をを操った。

 若かりし頃はドイツ語しか話せなかったヴェルナー・ハイゼンベルクですら、今では英語もデンマーク語もそれなりにそつなくこなす。

 それが当たり前なのだ。

 もちろんマリーの年齢で、という点において考えれば特異なことであるのかもしれないが、それはそれでただの判官贔屓というものだ。それをゾンマーフェルトはわかっている。しかし、彼女の数カ国語を操る能力とずば抜けた記憶力と、年齢を思わせない政治的な嗅覚には老科学者ですらも舌を巻いた。

 得てして政治音痴でありがちな科学者たちと比較するのもナンセンスな話であるのかも知れないが、それでも十代半ばで政治的な活動に関心を持つ者はごくまれだ。

 彼が教鞭を執ったミュンヘン大学では反政権活動も活発になりもしたが、それでもなお、そうした学生たちの存在は限られている。

 誰しも自分の身はかわいいものだ。それはなにも学生たちに限った話ではない。

 政権首脳部を含めた秘密警察から目をつけられることを誰もが恐れていた。

 マックス・フォン・ラウエのように勇気ある行動を起こすことができる者などたかが知れているのだ。

 だからそういった観点から考えても、マリーの持つ政治的なセンスは飛び抜けているものとアルノルト・ゾンマーフェルトは考えた。

 春先の冷たい空気にぎしぎしと軋む関節をなんとか動かしながらソファから立ち上がるとゾンマーフェルトは大きなため息をつきながら玄関に続く廊下を突っ切った。

 マリーは確かに政府の犬かも知れない。

 しかし相応の知識を身につけさせてやることができれば、もしくは将来、自分の頭で考えることが可能になるかも知れない。

 その可能性は確かに存在する。

 人というものは、往々にして変わっていくものなのだ。

 変わらない人間などいられはしない。

 年若い少女にはこれから何十年にも続く将来が残されているのだ。

「誰だね」

 言いながら扉を開いた老人に、アパートメントの廊下で三十代半ばの青年が上質な背広を身につけて立っていた。これまで多くの上流階層の人間と接してきた経験を持つアルノルト・ゾンマーフェルトには相手の素性がすぐにわかった。

 さりげない物腰に育ちの良さを感じさせる。

「……――」

 誰だと言いながら扉を開いた年寄りの姿に、青年は一度言葉を飲み込んでからゾンマーフェルトをまじまじと凝視してひどくいぶかしげな表情を瞳にたたえた。

 彼女には身寄りがない。

 それは誰もが知っていることだ。

 当然、マリーがひとり暮らしであるということも周知の事実で、多くの大人たちが彼女の私生活を代わる代わる支えてやっていた。

「あぁ、わたしはゾンマーフェルトだ」

 青年の不審げな眼差しに察した様子で肩をすくめた老人が名乗ると、やっと合点がいったという様子で表情を緩めてから白い息を吐き出した。

「お噂は聞いております。失礼をいたしました」

「……君は?」

 知的な眼差しが交錯した。

 相手が水準以上の知性を持つ青年だということをゾンマーフェルトは即座に察して問いかける。

「法律学者のベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクです」

「……伯爵閣下?」

 シュタウフェンベルクと名乗った青年に、ゾンマーフェルトはわずかに両目を見開いて小さく疑問系で告げれば、一方でベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクは苦笑した。

「いえ、世界に名だたるゾンマーフェルト教授にそのようにおっしゃられると居心地が余りよくありません」

 教授はご存じではないかも知れませんが……。

 かすかに笑うとベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクはそう付け加えた。

 アルノルト・ゾンマーフェルト――白いユダヤ人。

 そう呼ばれる反ナチの科学者のひとりだ。

 それをベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクは、反ナチス的である故によく知っていた。ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクとアルノルト・ゾンマーフェルトは、同じ側にいる人間なのだ。

 政治活動に強い関わりを持つ法律家のシュタウフェンベルクとは正反対の立場にいながら、ヒトラー政権の強硬な反ユダヤ政策に異を唱えるアルノルト・ゾンマーフェルト。政権首脳部と真っ向から対立するなどといいうことがどれほど危険なやり方であるのかを、ゾンマーフェルトほどの人間が知らないわけがない。

「シュタウフェンベルク伯爵閣下まで国家保安本部に肩入れをしているとは思わなかったが……」

 眉をひそめたゾンマーフェルトに、シュタウフェンベルクは困惑したような表情になってから老科学者の肩越しの廊下に視線を向けて話題を切り替えた。

「マリー少佐を迎えに来たのですが」

「マリーの迎え?」

「今日は朝早くから会議があるとかで、昨晩急にわたしが朝の送迎を申し使いました」

 国家保安本部に肩入れをしている。

 そう思われることはシュタウフェンベルクにとって本意ではなかったが、仮にも諜報局員の彼女のそばであからさまに口に出すべき言葉ではないことも、彼は大人の論理で理解している。

 そうでなくてもマリーのそばには切れ者の国家保安本部の法律学者たちがひしめいているのだ。ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクにとってみれば孤立無援と言っても過言ではない。

「すぐに彼女を起こしてこよう」

「……お願いします」

 言葉少なにゾンマーフェルトに会釈したシュタウフェンベルクは、なにか言い足そうに何度かまつげをしばたたかせたが、結局目に見えた反応はそれだけで言葉を発することはしなかった。

 互いに言葉にすることはない。

 けれどもゾンマーフェルトにはともかく、シュタウフェンベルクは自分の立場も、老科学者の立場も知っている。

 公然と主義主張を唱えるには危険な場所にいることもわかっていて、そこにいるしかできない自分の弱さをベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクは嫌悪した。

 けれどもどうすることもできないのだ。

 一介の法律学者などでは、すでに引き返すことができないところまで来てしまった。

「おはようございます、シュタウフェンベルク博士……」

 しばらくしてから着替えを終えて、厚手のジャケットと膝丈のフレアースカートを身につけた少女が寝ぼけ眼をこすりながら姿を現した。

 大口を開けたあくびはみっともないが、それが彼女くらいの年齢特有の性的ないやらしさを感じさせないところが特に魅力的だった。

 このくらいの年齢の少女となるととかく男を誘惑することばかりに取りつかれているものだが、彼女にはそうした若者らしい性欲を感じないのかもしれない。多かれ少なかれ大人というものは少女たちに無垢な少女性を要求するものだ。

 強い性欲の衝動に駆られるのは、なにも男だけではない。

 男も女も、自己保存の本能がある以上、性欲を感じることはごく自然なことだ。

 そうした少女たちの性的欲求を、汚らわしいとか、淫らだと非難することがどれほど非現実的なものであるのかも、大人たちは経験的によくわかっているはずだというのに。

 人は動物だからこそ「生存本能」を否定することなどできはしない。

「おはよう、マリー」

 ふとベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクは思った。

 彼女は……。


 ――……彼女は本当に「生きている」のだろうか?

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