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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXIX シメオン
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7 政治と道具

 ちょこんと小さな体をソファに埋めて膝をそろえて座っている少女と、ドイツ屈指の物理学者であるマックス・フォン・ラウエの会話はどこまでもかみ合わない。平行線と言う問題ではなく、果てしなく堂々巡りだ。

 ラウエの言う人道上の倫理的な問題も、同席するゾンマーフェルトとプランクには当然理解できるものだったが、国家保安本部という狭い世界で人道とは正反対のところに暮らしているマリーにはなにを言ったところではじまらない。

「……ラウエ教授がなにを言いたいのかよくわからないわ」

 結局、マリーは眉をひそめてそれだけ言った。

 のれんに腕押し糠に釘、とは良く言ったものだ。

 マリーにはなにを言っても効果がない。早々にマリーの説得などあきらめているマックス・プランクは黙り込んでふたりのやりとりに視線を走らせるだけで、ゾンマーフェルトのほうはどこか困った様子で軽く首をかしげただけだ。

 彼女の発言には異論を挟みようがない。

 マリーは所詮国家保安本部の歯車のひとつに過ぎないし、彼女がなにがしかの高度な決定を下しているわけでもない。個人の権限に対してそれを遙かに超える要求を突きつけることのほうが大人げない。

 ナチス親衛隊であれ、国家保安本部であれ、好ましくない人間もいれば好ましくない人間もいる。立場を変えてみたとことで人というものは似たようなものだ。

 たとえば陸軍の今は亡きヴァルター・フォン・ライヒェナウや、ラウエらの同業者とも呼べるフィリップ・レーナルトやヨハネス・シュタルクがそうだ。彼らも結局は、他者に対する思いやりを持たない卑劣漢だ。マリーのような新たな倫理観の中で育った若者たちはともかくとして、非難すべきはそうした秩序なき差別主義者の思考のほうであろう。

 子供たちは、大人たちが作り上げた思想の中で育てられるものである。

 いくら彼女と問答したところでいっこうにらちの明かないやりとりに、マックス・フォン・ラウエが頭痛を感じ始めた頃に、唐突に三人の科学者たちの中で最も若く行動力のある男は気がついた。

 普通の子供というものは、大人たちに威圧的な態度を向けられれば少しは萎縮するものだ。だが、彼女はそうではない。確かに咎められれば不満げな顔もすれば、不愉快そうに眉をひそめる。しかし、それでも彼女は決して萎縮しない。

 権力というものは恐れていない。

 もしくは彼女自身が権力を握る側にいるという自身も手伝っているのかもしれないと、ラウエは勘ぐったが「そう」と結論づけてしまうには早急な気もした。

 いずれにしても無知な子供というものほど利用できるものはない。

 憮然としながらも大きなため息をついたラウエに、マリーのほうは屈託のない笑顔を向けてから両方の膝の上に手をついて上半身を乗り出した。

 他人の神経を刺激することにかけては天才的な才能を持つ少女は、自分の隣に腰を下ろしているゾンマーフェルトの膝に手をついてから軽く押すようにして気を引くそぶりを見せた。

 気を引こうとしたのが妙齢の婦人であったなら性的な誘惑を感じるのかも知れないが、なにせ相手は孫ほど年齢も違う痩せた少女だ。マックス・プランクなどに至っては、ひ孫と言っても差し支えのない年齢だろう。

「わたしは”大好きな人”を絶対に殺させたりなんてしないけど、教授さんたちはもっと言動に気をつけたほうがいいと思うわ」

「そんなこと言われてもわかっている」

「本当に?」

 ラウエが即答すれば、マリーが首を傾けた。

 力の強さだけでは現状を変更することなどできはしない。現在の状況だけを見ればナチス党(NSDAP)が力だけでドイツ国内の世論を都合良く解釈したようにも思えるが、現在のドイツ国が形式的には「民主主義国家」である以上、協力者もなしに政権を強奪することなど不可能だ。

「今までそうだったことはわたしなんかより、教授さんたちが知ってるじゃないですか。時代は変わるものですし、その流れを権力者だからって人間がコントロールできるものじゃない。今の”やり方”が間違っている流れなら、時代の流れは変わっていくものだと思うのだけど」

 わたしは。

 そう付け足してマリーは朗らかにほほえんだ。

 たくさんの事件が起きた。

 先の欧州大戦での敗北と、世界経済の混乱。

 世界的な知識人として名前を連ねるプランクやラウエ、そしてゾンマーフェルトらはそうした理不尽な世界からの仕打ちを目の当たりにしてきたし、そんな理不尽を肌で感じてきた。

 だからこそ彼らが感じる危機感は並々ならぬものだった。

 再びドイツが世界の表舞台から追放されるような事態などあってはならない。ラウエらはともかく、子供たちはそんな残酷な世界を知らないのだ。

「……――我らは、忘恩の民だ」

 卑劣きわまりない。

 思い詰めた様子でマックス・フォン・ラウエはため息交じりにつぶやいた。

 かつての欧州大戦での敗北の後に、ドイツの科学者たちを世界の舞台に引き戻してくれたのはいったい誰だというのか……!

 それすらも「なかったことにして」。

 そして、見なかったことにして。

 反ユダヤ主義を利用して自らの地位を確立させようとする者たちがいる。

 結局、政治家も軍人も、貴族も官僚も、学者や芸術家たちすらも、誠実という言葉から目を背けて、世界の真理に背中を向けた。そんなことが許されていいはずはないと思うのに、社会とはありとあらゆる意味で「残酷」だった。

「ラウエ教授……、の言いたいことはわかるけど、それでも屁理屈言っている外国が余分な口出しをするから、そもそも話がややこしくなるんじゃないかしら?」

 それほど大柄ではない老科学者に無邪気に寄りかかるようにして自分なりの意見を告げるマリーの恐れ知らずには目を見張るものがある。

「……――ふん」

 言われて鼻を鳴らした。

 専門は物理だが、もちろん社会的な教養はあるつもりだ。

 子供にそんなことを言われなくても、ドイツのみならず――ヨーロッパにはびこる反ユダヤ主義の実態は見て取れた。だからこそ、ラウエは反ユダヤ主義の賛同者たちを卑劣漢だと非難するのだ。

 人の命をなんだと思っているのだろう。

 その辺の犬猫と同じレベルで語る問題ではない。

「だが、ドイツ政府はそうした自らの掲げた政策のために破滅への道を突き進んでいるではないか」

「人間って馬鹿だから、一度は”破滅してみないと”目が覚めないものなのかもしれないわ」

 特定の人種であるというだけの理由で。

 特定の主義主張を口にするというだけの理由で、優れた知性を持つ人々を迫害するのは国家として愚かな道だと、ラウエは考えた。そうした考えが少数派ではないと祈りたいとも思うが、得てして社会では声の大きな意見ほど世間に支持されていると思われがちだ。

「わたしは……」

「つまり、”あなたは”どうしたいの?」

 国家という巨大な組織の歯車としてなにをしたいのかと、少女が核心を突いて切り込んだ。

 ――自分がどうしたいのか。そして、自分がなにを望んでいるのか。

 改めて尋ねられてラウエははっと我に返った。

「後悔するだけなら誰にだってできるわ」

 けれども、彼女の言葉はマックス・フォン・ラウエの神経を刺激した。

 マリーのような少女には未来とは光に満ちあふれている。しかし、プランクやゾンマーフェルト、そしてラウエたちのような老人にとっては「同じ十年」であっても意味が違う。

 同じ時間でありながら、決して同じではない。

「君は、わたしを馬鹿にしているのか?」

 揶揄するように響いた彼女の声色に、むっとしたように眉尻を引き上げたラウエに対して、少女はゾンマーフェルトに寄りかかったままで明るく笑った。

「馬鹿になんてできるわけないじゃない。教授さんはわたしよりずっと頭がいいんでしょう?」

 にこやかに彼女が笑う。

 未来にも過去にも憂うものがなにもないから子供はこんなにも無邪気に笑っていられるのだ。彼女の言う「頭が良い」という言葉にははたしてどれだけの意味が込められているのだろう。

 いくらでも主観的な受け取り方をすることができるのが「言葉」というものだ。

 自分がなにをしたいか。

 そう問いかけられてラウエは逡巡した。

 思うところはいくらでもある。百や千の言葉を尽くしても言い尽くせないほどの思いを抱えていて、それでもなお口にすることができないのは、人の善意を信じたいという浅はかな願いのためだ。

 人間とは自分勝手なものだ。

 それは人間であるからという理由からではなく、生物だからだ。

 自分の遺伝子を残そうとする自己保存のための本能だ。

 マリーは言葉に躊躇するラウエを見つめて口許だけで笑うと、右の人差し指を唇に押し当てて告げる。

「ラウエ教授……、先生はもっと”制度”を利用すればいいと思うわ」

「それは、わたしに君を利用しろ、と言っているのかね?」

 低く六十代のラウエが言葉を投げかけた。

「……さぁ?」

 使えるものはなんでも使えばいい。

 社会制度など所詮、ただの人間の使うための道具なのだから、それに対して嫌悪感を持つから使わないなど馬鹿げた話だ。裏を返せば、マリーは「ラウエが自分よりも頭が良い」と言ったのだから、頭の良いラウエは目の前に準備されていた道具をうまく利用すればいいだけのことなのだろう。

 ソファの前におかれたテーブルに手のひらをついて中腰になって乗り出した少女は、金色の髪を揺らして言った。

「わたしたちは、ドイツの道具なのだから、もっと上手に使えばいいのよ」

 ささやくような声は三人の老科学者にしか聞こえない。

 深度を増した彼女の声色に、ラウエはなぜだかぞっとして背筋を正した。



  *

 ところどころ盗聴では聞き取れないところもある。

 しかしマリーの自宅に顔をそろえた科学者がこの三人というのは実に興味深いことだとヴァルター・シェレンベルクは思った。

 もちろん、たかがこの程度の画策をしたからと言っていちいち逮捕していては、ドイツの知性の衰退にも関わる問題だ。斜陽に傾きつつある現状で、反体制派だからという理由だけで知識人たちを拘束していては拘置所がいくらあっても足りはしない。

 執務机に片肘をついたまま報告書のファイルをめくっていたシェレンベルクは、かすかに片目を細めてから含み笑いを漏らした。

 警察組織だって一枚岩というわけではないのだから、マックス・フォン・ラウエの気がかりなどおかしなものだ。

 仮に誰かが自分を利用しようとしてくるのであれば、相手を罠にかければ良いだけだ。相手が知謀に長けるなら、自分が相手を上回れば良い。

 ――たったそれだけだ。

 世界情勢の混乱したこんな現代社会では、そうしなければ諜報部員が生き残ることなどできはしない。

 ナチス親衛隊屈指の諜報部員。

 それは一言で言うならドイツ屈指であり、ヨーロッパ屈指であるということだ。

 誰かに弱みを見せることなどあってはならない。

 シェレンベルクはファイルを閉じると冷ややかな笑いを浮かべた。

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