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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
V トールハンマー
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3 外の敵と内の敵

 前国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒが暗殺された事に続いて、やはり同様にそこに所属する情報将校がテロリズムの標的にされことを受けて、ベルリンでは地下組織、及び反体制分子の大規模な摘発が、国家秘密警察(ゲシュタポ)刑事警察(クリポ)などの手によって実施された。

 これによって拘留された者は五千人以上。逮捕者はそのうちの二千人以上、さらに四百人程が結果的に処刑されることになった。

 逮捕者のうち生き残った半分は後に釈放されたが、半分はそのまま強制収容所に移送され、マリーが襲撃されてから二日後にはじめて最初の処刑が行われる。

 ――報復は徹底的に行われなければならない。

 ほんのわずかな躊躇も、仏心にも流されてはならないのだ、と。

 オットー・オーレンドルフは報告書の一部を指先でめくってわずかに目を細めた。

 良心の呵責を感じないのかと問いかけられれば、今のオーレンドルフに答えることはできない。そんなものはとっくに東部の任務で捨ててきてしまった。

 自分は国家という体制の中の歯車のひとつでしかありえない。それをたとえ、悪逆だと誰かに咎められたとしても自分に他の選択のなにができるだろう。

 オーレンドルフはドイツ人として生まれ、ドイツ人として育ち、そうしてドイツ人として情報将校となった。もしも自分がイギリスや、アメリカに生まれていれば自分はドイツに忠誠を誓うように、生まれた祖国への忠誠を誓っただろうとも思う。

 もちろんあり得ない仮定でしかない話だが。

 十六歳でドイツ国家人民党(DNvp)に入党し、その後、彼は国家社会主義ドイツ労働者党と国家社会主義と出逢った。そうして十八歳で正式にナチス党(NSDAP)に入党した。

 言わば彼は年若いながられっきとしたナチス党の古参党員である。

 女も子供も、老人も。

 非力な者たちを東部の戦場で殺してきた。

 なぜ殺したのか、と尋ねられれば彼はこう答えるだろう。

 それが任務だったから「そうしたのだ」と。心を凍り付かせ、任務を遂行しベルリンに戻ってきてみれば、なにやら事態は奇妙な方向へと変わりつつあったこと。

 それがほんの何十日か前の話だ。

 唐突に彼らの前に現れたひとりの少女。

 金色の髪の、やや頼りない体型の少女はシェレンベルクの隣に立っていた。大きな青い瞳でじっとオーレンドルフを見つめていたことを思い出す。

「……臭いな」

 マリア・ハイドリヒ親衛隊少佐の身元調査の書類だ。オーレンドルフが東部戦線から帰る前に三局と四局での捜査によってまとめられた資料には、四局局長のハインリヒ・ミュラーのサインがあるがそれを彼ははなはだ疑わしいと感じている。

 しかし、疑わしいものを感じているとはいえ、あまりにも完璧な経歴は適度に疑いを持たれて当たり前、と言った程度のものでごく一般的な身元不明の少女のものだ。

 一度は死んだと思われていたハイドリヒ一族の少女――マリア。

 もっとも疑念を抱いているとは言え、マリーが正しく国家保安本部に属する情報将校として行動しているのを見る限り咎めるべくはない。彼女は確かにドイツの国家元首であるアドルフ・ヒトラーに対するテロリズムを阻止したわけだし、ドイツ国内屈指の諜報部員である国外諜報局長ヴァルター・シェレンベルク親衛隊大佐と国防軍情報部(アプヴェーア)長官ヴィルヘルム・カナリス海軍大将の後見を得ている。さらに、彼女は親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーの親衛隊全国指導者個人幕僚部に所属するという完璧すぎる地位を手に入れることになる。

 考えるまでもないが、ハインリヒ・ヒムラー親衛隊名誉中将の個人幕僚部の構成員であるということは、ヒムラー以外誰にも手出しができないということだった。

 それゆえに、当然のことではあるがオーレンドルフなどに手出しができるわけもない。親衛隊全国指導者が彼女の存在を認めてしまった上、ヒトラーに対するテロリズムを阻止した功績によって第二級鉄十字章を授与されたということは、ドイツの最高権力者がマリア・ハイドリヒを認めたということにほかならない。

 とりとめもないことを考えるオーレンドルフはやがて、軽くかぶりを振ってから書類を執務机の鍵付きのひきだしにほうりこんで、長い吐息を吐きだした。彼女がドイツの利益のために動いていることは明らかならば、悩むべくもない。

 もちろん、二重スパイという可能性も考えられないことはないが、今のところ彼女が連合諸国と通じているという証拠はない。

 もしもそんなものがあったとして、国防軍情報部とシェレンベルクとオーレンドルフの率いる親衛隊情報部。そして、ミュラーの国家秘密警察とネーベの刑事警察といった多くの監視の目をかいくぐることなど不可能だ。

 噂でしかないが、どうやら先日、ヨアヒム・フォン・リッベントロップの屋敷で引き起こされた外交官殺害の件で外務省のINFⅢからも目をつけられているらしい。そんな状況であるというのにマリア・ハイドリヒは実に伸び伸びと振る舞っている。

 普通の人間であれば息が詰まって気がおかしくなりそうな状況だと言うのに。

 そう言った意味で、彼女は充分に常人という範疇を軽く飛び越えている。

 そんなマリーがテロリズムの標的とされた。その事実は国家保安本部(RSHA)の逆鱗に触れた。本来、所属する情報将校が暗殺の対象にされた程度の理由だけで、今回のような大規模な摘発には至らないものだが。それは実のところただのきっかけでしかなく、元から疑わしいと思われていた団体に対する一斉検挙の機会を狙って爪をといでいたゲシュタポに(てい)の良い口実を与えたに過ぎない。

「……大したものだな」

 オットー・オーレンドルフは独白するようにそうつぶやいて窓の外を眺めた。

「これほど大きな獲物をひっかけるとはな」

 言ってから顎を手のひらで撫でながら首を傾げると考え込む。

 もしかしたら、と彼は思う。

 「それ」は最初から仕組まれたことだったのではなかろうか? 総統官邸に踏み込んだ時点で、自分が襲撃される可能性をも想定内であったとしたら……?

 しかし、そうだとして、実際に銃撃を受けたときに、錯乱状態に陥りアルトゥール・ネーベに縋って震えていたという事実は合点がいかない。

 計算をしていたのか、それとも本当に偶然の出来事だったのか。

 どちらなのだろう。

 万が一、全てが計算の内であったとするならば、恐ろしいことだ。

 女のしたたかさ、などという言葉で済まされないようなおぞましさを感じてオーレンドルフはぞくりと背筋を震わせた。

 彼女の本当の姿が彼には見えない。

 無邪気な子供なのか。

 悪意を持つ魔女なのか。

 無言のまま考え込んでいたオーレンドルフは、無意識に片目を手のひらでおおう。

 結果的に彼女が引いた引き金――総統官邸に踏み込むという事実はドイツ第三帝国の現体制に有利に働いているが、それでも危険分子は枚挙にいとまがない。

 国防軍に名前を連ねる将校たちも例外ではなかった。

 潜在的な危険因子のひとつだ。

 ナチス党(NSDAP)が政権を掌握しても尚、党に対して強い反感を抱いている者も多い。しかし、現在は他国との戦争状態であり、その戦闘を継続させる以上、職業軍人たちをないがしろにするわけにはいかない。

 少なくとも、とオーレンドルフは思う。

 自分のような人間には軍隊という組織を指揮統率することなど不可能だということを自覚していた。

 今のドイツ第三帝国にあって、現状はひどく脆い氷の上でやっとバランスを維持しているにすぎないのだ。そして、そんな状況であるからこそ、国家保安本部のような警察機構が必要とされるのである。

 埒のないことを考えながら、オーレンドルフはノックの音に視線を扉へと向けた。

「特別保安諜報部のハイドリヒ少佐がお見えですが、お通ししてよろしいですか?」

「通せ」

 秘書の女に応じたオーレンドルフは、興味深そうな光を瞳にちらつかせて女が退室するのを見送った。

 そういえばシェレンベルクが同席していない場所でマリア・ハイドリヒに会うのは初めてだ。いったい何の用事だろう。

「失礼します」

 ぺこりと頭をさげて入室した少女に、オーレンドルフは視線を一瞬だけ上げる。ちらりと頭をかすめたのは、目の前の華奢な少女がなにをしにきたのか、ということだった。

「どうした?」

 誰の趣味かはわからないが、国防軍海軍の水兵の制服をモチーフにした紺色のワンピースはノースリーブで、セラーカラーが涼しさを演出している。同じ色のマリンハットがかわいらしいが、そこに留められたルーン文字のSSの徽章がどこか緊張感を際立たせていた。

 大きな青い瞳が彼を見据える。

 まただ、とオーレンドルフは思った。

 彼女の瞳は、彼女自身の意志か、それともまた別のものかはわからないが、オーレンドルフの意識の奥底にあるものを引きずり出そうとする。

 それに引きずられないようにするだけでオーレンドルフは目眩にも似た感覚を覚えることもあった。まばたきもせずにじっと見つめるその瞳が、まるで作り物のガラス玉のようにも感じること。

「先日の、狙撃は本当にわたしを狙ったものだったのでしょうか……」

 ぽつりと少女が言った。

「君が総統官邸の内部捜査の指揮を執ったからだろう、少佐シュトゥルムバンヒューラー

 慎重に言葉を選びながらオーレンドルフが言うと、少女は首を傾げた。

「いえ、もちろんわたしを狙ったものだとは思います。ですが、本当に”それだけ”だったのでしょうか」

 考え込みながら告げる彼女の瞳には怒りも、憎しみも浮かんではいない。

 その事実にオーレンドルフは、気がつくと同時にぎょっとして背筋を正した。自分の命が危険にさらされたと言うのに彼女にはそれに対して何の感慨も抱いていないのだ……!

 その瞬間は、恐怖に怯えて震えてネーベに縋り付いてさえいたというのに。

「情報将校などひとり殺したところで大局など変わりません。それを、テロリストたちもわかっているはずです。そう考えれば、彼らに別の狙いがあったとしか考えられません」

「……――つまり、それは君の命を狙うことで、それによって利益が生じる輩が存在し、そしてそれらが”彼ら”を有利に導く、ということか?」

 オーレンドルフの言葉にマリーはわずかばかり沈黙した後、ぽつりと言った。

「わかりません」

「ふむ」

 アドルフ・ヒトラーを狙ったテロリズムを阻止した人間を、次にテロリズムの対象にするということは、政府高官に対する次なるテロが連合国によって画策されているだろうということだ。

 そこまで思い至ってオットー・オーレンドルフは舌打ちした。

 今は国家秘密警察も、刑事警察もマリア・ハイドリヒへのテロリズムへの捜査で追われている。

「国内諜報局のオーレンドルフ局長なら、なにか打つ手をご存じかと思いましたので」

 そうして彼女は「失礼します」と続けてオーレンドルフの執務室を出て行こうとする。

 次の行動をはじめるなら今こそが好機とも言えるだろう。

 ひどく難解なヒントだ。

「マリー」

 オーレンドルフが彼女を呼び止めた。

「礼を言う」

「いえ」

 そうしてマリーはいつものように朗らかに笑って彼の前を立ち去った。

 デスクについたままのオーレンドルフはじっと前方を見つめたままで、きつく片目をすがめると唇をつり上げて不敵に笑う。

 自分は何のための「国内諜報局長」なのか、と。

 かつて自分は国内の政治家の腐敗と戦ってきたのではなかったか。

 それを忘れかけていた。

 東部戦線でのアインザッツグルッペンというひどく過酷な任務が、彼の精神を思った以上に疲弊させていたこと。

 けれども、湖底のような。それとも突き抜ける青空のような瞳が彼を正気へと戻らせる。

「俺が戦わなければならないものは、外国の敵ではない」

 オーレンドルフは口の中で低く呟いた。

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