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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXIX シメオン
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4 兆候

 マリーが倒れた――というと若干の語弊がある――という事件はなぜか、突撃隊とナチス親衛隊の首脳部を巻き込んだささやかな騒動に発展した。

「ルッツェが、見舞いに行くと言って聞かなかったから言いくるめるのに、少々手こずった」

 首をすくめてみせた兄のマックスに、やれやれとため息をついたのは弟のハンスだ。ナチス突撃隊の幕僚長を務めるヴィクトール・ルッツェ突撃隊(SA)大将が、マリーのことを実の娘のようにかわいがっていることは公然の秘密だ。

 ある意味では、組織を超えて誰からも好かれるというのはマリーの天性の素質だったのかもしれない。

「それは本当にありがたかったよ、兄貴。こちらはこちらで国家保安本部と親衛隊全国指導者個人幕僚本部のほうで、それなりの騒動に発展していたからな。ここに突撃隊までしゃしゃりでてきたら事態の収拾がつかなくなったところだった」

「陸軍のほうはそれなりに自嘲してくれたようだが、グデーリアン上級大将が暇をもてあまして見舞いに来ていたようだな」

「あの人は、自由だからなぁ」

 突撃隊参謀長――マックス・ユットナーの説明に、親衛隊作戦本部長官を務める弟のハンス・ユットナーは再三再四、ため息をはき出してからソファに腰を下ろしたままで胸の前で両腕を組み替える。

 春になって少し寒さが緩んだとはいえ、見るからに痩せてぎすぎすとしていて体力などかけらもなさそうなマリーにとってみれば、過酷な季節であることは無理からぬ話だった。

 もちろん次の作戦に向けて陸軍参謀本部の動向が本格化していることは、武装親衛隊を指揮するハンスの耳にもとっくに届いているが、あくまでも武装親衛隊は陸軍の指令下で作戦行動を遂行することになっている。だからといって、陸軍の予備部隊として扱われているわけでもなく独立した一人前の戦闘集団として認識されていた。だというのに、未だに武装親衛隊はドイツの正規軍として扱われることはなく、彼らを率いるハンス・ユットナーにも歯がゆい思いが拭いきれないでいるのも事実である。

 いずれ戦争が終結した時に、武装親衛隊はその理由のために厳しい立場にさらされるだろうということは明白だった。

 ナチス親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーと、国家元首のアドルフ・ヒトラーはいったい全体なにを考えているのだろう。

 全ての可能性を視野にいれなければ、戦争のその先を考えることなど不可能だ。とはいえ、それを突撃隊参謀長の兄に漏らすことができる愚痴でもなくて、弟はしかめ面のままで長いため息を重ねた。

 国家保安本部にマリーの名前を聞いてからというもの、彼女という存在は良くも悪くも周りの人間を振り回す。

「それで、ハンスは彼女の見舞いに行ったのか?」

 国防軍の参謀将校たちと突撃隊の幕僚陣はともかくとして、同じ組織であるナチス親衛隊のハンス・ユットナーはマリーに顔を合わせない理由はないはずだ。

「……なんだ、兄貴はルッツェ大将の密偵役か」

 思わせぶりな兄の台詞に、ハンスは眉をひそめてから気難しげな声の響きをにじませる。

 正直なところを言えば、ナチス親衛隊に所属しているからと言って、国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナー大将やナチス親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官のカール・ヴォルフ大将などと一緒にしないでもらいたい。

 断じて、かわいらしい彼女に鼻の下を伸ばしているわけではない。

「ヒムラーの腰巾着のヴォルフは総統官邸と国家保安本部を行きつ戻りつして多忙だったらしいじゃないか」

 一年前、ヒムラーとヴォルフの信頼関係は明らかに悪化しつつあった。

 全てはあの、ヒムラーの片腕ともささやかれたラインハルト・ハイドリヒの死がきっかけだった。

 ヒムラーがハイドリヒを心の底から信頼していたかどうかはともかく、ハイドリヒの死が小心者のヒムラーを追い詰めたことは間違いない。

 複雑な依存関係がハイドリヒに対して作用していたのかもしれない。

 ドイツ第三帝国の権力者であるハインリヒ・ヒムラーの権力を利用していたラインハルト・ハイドリヒと、野心家のハイドリヒを重用していたヒムラー。互いの権力を利用することで、彼らは確かにドイツにおける権力を確実なものにしようとしていた。

「今年になってから、総統閣下の御前会議がそれなりの時間に終わるようになったらしいからな。報告役のヴォルフにしてみれば万々歳だったと思うが」

 ヒトラーの朝が遅い理由というのが夜更かしが原因であるというのも、国家元首という立場を考えれば、なんとも間抜けな事情だ。

「しかし、だいたいなんであんな小娘が熱を出したくらいで高官がぞろぞろ見舞いに行かなければならないんだ」

 そううそぶくハンスの物言いは、不機嫌そうにも聞こえるがまんざらでもなさそうだ。

「なんでもゼップがすっかり籠絡されたらしいと聞いたぞ?」

「あの男は単純だからな」

 武装親衛隊の第一装甲師団――アドルフ・ヒトラー親衛隊を率いる猛将、ヨーゼフ・ディートリッヒは配下の将兵たちから絶大な人気を誇るが、テオドール・アイケと同じく思慮が浅い。

 世の中、将兵たちからの人気と将校としての資質は決して相容れないというわけではないが、それでも世の中というものは不公平だ。

 アイケとディートリッヒは考えもなく突っかかっていれば良いのだが、ハンス・ユットナーやパウル・ハウサーといった戦略家たちはそういうわけにもいかないし、ハンス・ユットナーに至っては前線の仕事だけを考えに入れれば良いというわけでもない。

 彼には政治という大きな仕事が任されている。

「だが、ゼップの勇敢さがあればこそ兵士たちがついていくんだろう。その辺の腰抜けであれば、あのエリート意識の強い親衛隊員がついていくとは思えんな」

 金髪碧眼の上背の高い青年たちばかりを選抜された武装親衛隊第一装甲師団――LSSAH。

「野蛮であることと勇敢であるということは同じではない」

「わかっている、ハンス」

 わかっていると顔の前で右の手のひらを軽く振ったマックスは、渋面を浮かべている弟の顔を見やってからソファに深く体を沈めた。

「俺が言いたいのはそういうことじゃない」

 顔の前で人差し指を立てた兄の姿に、弟は視線をさまよわせた。

「ゼップがあの子に丸め込まれているとなると、武装親衛隊全体が彼女の存在を認めていると思われるぞ?」

 そう、それが問題なのだ。

 兄の言葉にハンスが両方の眉毛をつり上げた。

 マリーがドイツ、あるいはナチス親衛隊にとってなにかしらの悪意を持っている訳でもなければ、不利益をもたらすわけでもない。簡単に言えば全く害はないのだが、組織として全てが同じだと考えられるのは好ましくなかった。

 いずれにしろ、武装親衛隊の意志決定に女子供が絡んでいると見られるのは厄介だ。

「軍事組織に子供が関与していると思われるのは確かに困る」

 個人として愛らしく思っているということとは、話が違う。

 重々しくうなずいたハンスに、マックスはソファの肘掛けにほおづえをついてから微妙な表情で無言でうなずいた。

 国家保安本部に在籍するマリー。

 彼女は確かにかわいらしい。しかし、武装親衛隊を指揮するハンスにしてみれば「それはそれ」だ。そもそも一般親衛隊においてすら、彼女の存在は特例中の特例で、彼女以外にナチス親衛隊の女性将校など存在しない。

 個人的な感情と、組織人としてのあり方は全くの別物だ。

「マリーがかわいいというのは同意するが」

 だからといって、ヨーゼフ・ディートリッヒのようにでれでれと鼻の下を伸ばしたりはするものか、とハンス・ユットナーは考えた。

 機嫌悪そうに鼻を鳴らしたハンスに兄の男が苦笑する。

「アパートメントのほうなら、国家保安本部長官も渋い顔はすまい」

「そのように伝えておこう」

 彼女は所詮、小娘だ。

 国家権力のより近いところを歩き回っているからといっても、野心家の男たちとは比較にならない。なによりも彼女には、女特有のエゴに満ちた強欲さとは縁がなかった。

 たとえば有力者の娘であるとか、婚約者であるとか。あるいは夫人であるといった、女特有の権力の裏付け方ができないのは明白だ。なにせ天涯孤独で、ともすれば自らの命すら危険に晒しかねないところに立っている。だというのにそんなことすら知ったことではないというかのように、彼女は自由気ままで天真爛漫だ。

 何の権力に裏付けされないということは、こうした時代にあって身の安全を左右するものだが逆を言えば全く私欲がないということでもある。

「あの子はとても不思議な子だ」

 年齢を考えればさらに不思議だ。

 十代半ばともなれば、一般的に世間的な体面も多少は気になってくる年頃のはずなのに、少なくとも、そうした野心とは全く無関係そうにも見える。

 傍目には彼女の行動は余りにも無欲すぎて、説明がつけられないというのが現実だった。

 片やナチス親衛隊の一員としてハインリヒ・ヒムラーの厚い信頼を受けているようにも見られている一方で、陸軍参謀本部の高級将校たちともある一定の距離を保っている。かと思えば、ナチス党の首脳部にも気後れを見せることもなく、その背後に政治警察が存在しているのを良いことに、立ち居振る舞いは自由自在だった。

 十代特有の英雄願望がマリーにわずかでもあったなら、あれほど絶妙な立ち位置の確保はできなかっただろう。

 権力や、名声にとらわれたが最後、強大な権力機構の間で誰からも攻撃を受けることのないところに立つのは困難を極めた。政争という荒波にもまれ続けているユットナー兄弟には彼女の行動が神業的なもののように映ったのは言うまでもない。そして、彼女の真意がわからないから、逆手にとって彼女を利用することもままならない。

 一部の反ナチス派の知識人たちと密接に関わりを持つことは、深く考えなくても危険な行為だというのに、彼女はためらわない。

「子供というものは、時として勇敢なものだろう。ハンス」

 強硬な反ナチス的なスローガンを掲げるのも、恐れを知らない子供たちが多いというのもそう考えれば説明がついた。

 自分の言動と、行動が、自分の未来にどんな影響を与えることになるのかを、冷静に考え、予測できない想像力の欠如こその無鉄砲さなのだろう。もっとも、「一般的な家庭」においては、多かれ少なかれ子供の行動に影響を与えるのは親を含めた親族による教育によるところも大きいのだが、天涯孤独のマリーには社会的な抑制も余り役に立たないようだ。

 マックスの言葉に、ハンスは無言で頷いてから視線をさまよわせた。

 結局、マリーが熱を出して倒れたという事件のために、たったひとりの少女の存在がドイツの国家権力のあちらこちらに思いもよらぬ変化を与えていることを周知させることになった。

 彼女の存在はまるで音叉によく似ている。

 小さくささやかに響く音叉の音は、ドイツ国内外で鳴り響く不快な不協和音を暴き出した。

 がんじがらめにもつれた糸の中心で彼女は笑っている。

 マリーはそんな存在だ。



  *

「……年寄りは引退すべきものだとも思っていたが、どうやらそういうわけにもいかないようだ」

 年寄りの、というところを強調されていくばくか年少の初老の男はよく知る優秀な理論物理学者に視線を返した。

 多くの科学者たちが、ドイツを去らなければならないようになった事態の根本には、ヒトラー率いるナチス党(NSDAP)があると信じて疑わない。

 そもそも道理も通っていないし、理屈もかなっていない。

「だが、わたしにはもう君らのように若くはないから戦い続ける力は余り残っていないのだ」

「なにをおっしゃいます、ゾンマーフェルト教授」

 若きハイゼンベルクは政府の力に屈してしまった。

 理論物理学の礎を担った老兵たちは、徐々にその力を失いつつある。だからこそ、と彼は思った。

「我々には、まだまだ教授のお力が必要なのです」

「しかしね、ラウエ教授」

 たかが一介の物理学者になにができるというのだ。

 学問の「が」の字も知らない国家元首――アドルフ・ヒトラーを都合良く持ち上げて、一部の学者たちは素晴らしい功績を挙げた天才科学者たちを非難して、その力をそぎ落とした。

 時代の最先端をひた走る学者たちをむやみやたらと糾弾するのは、国家の衰退のための片棒を担いでいることと同じだ。

 自分が科学者だから糾弾するわけではない。

 一部の科学者たち――ヨハネス・シュタルクやフィリップ・レーナルトといった連中は、自分の主張の正しさを証明するために祖国の知性の停滞を熱望したのだ。

 いったいそんなことを望んでなにになるのだろう。

 科学は常に進歩し続けているわけだし、政治的権力の裏付けを得て「黒」を「白」であると主張したところで、現実問題として「黒」が「白」になるというわけでもなかった。

 だから彼らは愚かなのだ!

 ドイツ屈指の物理学者のひとりとして名前を連ねるマックス・フォン・ラウエは憤慨した。

 彼の師であり、同士とも呼べるアルノルト・ゾンマーフェルトとマックス・プランクはナチス党の暴力的な権力に、力を失いつつもそれでも水面下で戦後のための力をため続けていることは知っている。

 彼らのささやかな戦いを理解していてもなお、それでもいずれドイツは遠からず取り返しのつかない事態になるのではないかとも危惧を抱いた。

「我々は所詮、路傍の石だ。すでに暴走が始まってしまった以上、汽車は事故でも起こさない限り止まることなどできないだろう」

「それでは待ち構えている悲劇を避けることができないではないですか」

 どこか悲しげなゾンマーフェルトの物言いに、苦々しい言葉を返したラウエは軽く身を乗り出した。

「ハイゼンベルクは国の圧力に屈したのです」

 確かに、一見しただけではそう見えたかもしれない。

 しかしゾンマーフェルトは、感受性の強い若手の科学者がどれだけ苦しんでいるかも知っているつもりだった。

 人というものは不便なものだ。

 誰しも無欲ではいられない。

 生きている以上、ありとあらゆる「欲」にとりつかれている。

 たとえば名声であったり、名誉であったり。あるいは、食欲や性欲などと言った原始的なものも含まれる。

 人間も生物である以上は、絶対的で原始的な「自己保存本能」にとらわれる。

 ラウエの言葉には応じずに、それからしばらくゾンマーフェルトは沈黙した。

「もしくは、起死回生の機会があるかもしれない」

 長すぎる沈黙の末に、アルノルト・ゾンマーフェルトは独白のようにラウエに告げた。

「……――は?」

「……いや、なんでもない。ただ、わたしも訳あってもう一度立ち上がるのも悪くはないと思ってな。ハイゼンベルクだけに貧乏くじを引かせるわけにもいかんだろう」

 口ひげの下で苦笑したゾンマーフェルトに、ラウエはわずかに瞳を輝かせた。

「今の若い連中がこうも情けないと、気楽に隠居生活もできんだろう?」

 ドイツ社会で孤軍奮闘を演じてきたマックス・フォン・ラウエは、ようやく理論物理学の権威としても知られる人物から得ることができた加勢の言葉に肩を下ろす。

「我々、”若造”には教授のお力がまだまだ必要です」

 ゾンマーフェルトが加勢してくれるだけでも、どれだけ心強いことだろう。

 特に、昨今では物理学を志す学生たちが目に見えて減少している。

 つまるところ、それはドイツの知性の明らかな減退だ。

「安心して倒れんでくれよ。君に倒れられると年寄りが困るからな」

 言葉を柔らかく響かせたアルノルト・ゾンマーフェルトは、そうしてマックス・フォン・ラウエに目尻を下げるとほほえんだ。

「……ありがとうございます」

 どれだけ高名な科学者でも、ひとりでは戦えない。

 かすかに声を震わせたラウエは正した姿勢のままで深々と頭を下げた。

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