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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXVIII Nunc dimittis
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15 命の価値

 正直なところを言えば、ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクは完全に困惑していた。

 彼女――。

 金髪碧眼のマリー。

 正真正銘のナチス親衛隊の政治警察、国家保安本部の捜査官であり情報将校という地位にある。そんな彼女は、傍から見ればどこからどう考えても意味のわからない行動を繰り返しており、それがベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクをさらなる混乱に陥れる。シュタウフェンベルクが好むと好まざるとに関わらず、国家保安本部に招聘されることになった青年は政治警察の息苦しさを禁じ得ない。

 ――少なくとも、自分は決してナチス党(NSDAP)の肯定派などではない。

 そんな政治警察の中枢にいる彼女はベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクの視線も気にする様子もなく、単身で平然と、ヘニング・トレスコウなどと接触した。

 いったいぜんたい何を考えているのだろう。

 トレスコウが彼女が持参してきたファイルを熟読している間、マリーのほうはというとのんきな顔のままでメルセデスの扉を開かれた後部座席に腰を下ろしてぶらぶらと行儀悪く足を揺らしていた。

 政治的な取引でもしようというのだろうか?

 それとも、なにか陸軍参謀本部に潜む反ナチス派にでも肩入れしようというのだろうか?

 どちらにしたところで自分勝手な行動は許されるようなご時世ではない。

「……このファイルは原本なのかね?」

「どうかしら?」

 トレスコウに問いかけられてマリーはにこりと笑った。

「でも、そんなことを気にするよりも気にしなければならないことはたくさんあるんじゃないかしら?」

 国家保安本部中央記録所のファイルが原本(オリジナル)であるかどうかなど大した問題ではない、とでも言いたげな彼女の言葉に、トレスコウはぴくりと眉毛をつり上げた。

 仮に陸軍参謀本部が反ナチス派であるという証拠を国家保安本部によって押さえられている以上、それは大問題であるはずなのだが、国家保安本部に所属するマリーにとっては、文字通りどうでも良いことなのかもしれない。

「”あなたたちがたくさんの証拠を押さえているのと同じように”、国家保安本部だってドイツ人によって運営されているっていうことを考慮しなければならないと思うけど」

 時に、彼女はひどく大人びた言葉遣いをする。

「大人をからかうのもいい加減にしたまえ……!」

 まるで人を食ったような彼女の物言いに、トレスコウが激高した。

 当たり前だ。

 トレスコウと同じ立場ならば、ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクも同じように激高しただろう。もっとも、彼はすでに国家保安本部に人質としてとられている身の上であるため、ヘニング・フォン・トレスコウのように頭ごなしに激高するわけにもいかないというのが真相だ。

「からかってなんていないわ」

 怒鳴りつけられて、マリーは揺らしていた足の動きを止めてから唇をとがらせた。どうにもいまひとつ彼女の認識と、他者のそれには大きなずれがあった。とりあえずマリー自身はそのことになんら疑問を感じていない様子だった。

「”我々”を脅迫でもするつもりかね?」

 重々しく問いかけたトレスコウが一歩だけ踏み込んで彼女に低く声を押し殺すようにして問いかけると、マリーはいつもと変わりない様子で両方の口角をつり上げて笑う。

「考えすぎよ」

 マリーは一蹴する。

 陸軍参謀本部の高官を相手にいっぺんの動揺も感じさせない。

 国家保安本部でその長官のエルンスト・カルテンブルンナーや、多くの高級指導者たちを相手にしている彼女にしてみれば、トレスコウやベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクの存在など大して存在意義もないのかもしれないとも感じるシュタウフェンベルクだったが、それはそれでマリーが言う「考えすぎ」に他ならない。

「わたしが言いたいのは、命は大切にしたほうがいいってことだけよ」

 無邪気な様子で迷うこともなく告げる彼女からは嘘偽りといったものは感じられなかった。だからこそ、彼女の所属と相まって余計に不振を感じさせられる。

 なぜ彼女は発言をすることに躊躇しないのか。

 そしてなぜ、彼女は行動することに躊躇しないのか。

 これまでの国家秘密警察(ゲシュタポ)のやり方から考える限り、内部の人間であれ容赦などすることがなかった。

 裏切りは万死に値する。

 気安い彼女の言葉に、咄嗟に少女の胸ぐらをつかんで引き寄せる。そんな乱暴な行動に耐えかねて少女の方はきゃんと悲鳴を上げた。

「そんなことは君に言われるまでもない」

 トレスコウの立場はベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクの立場とは異なる。それ故に、トレスコウはシュタウフェンベルクなどよりも遙かに束縛が少ないとも言えた。大人の男の手による乱暴な行為に、少女は苦痛を感じるらしくのどから息がかすれるような悲鳴を上げて、職業軍人の男の胸に両手をついて押し返す。

 一瞬のそうした状況に驚いて、トレスコウと少女の間に止めに入ろうとしたベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクだったが、不愉快そうなトレスコウの視線に体をこわばらせただけだ。

 いずれにしろ、ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクは弟のクラウスや、目の前にいるトレスコウのような職業軍人ではない。

 彼女が本当に残忍な「ナチ」であるのか。

 長いとも言えない国家保安本部での職務で、シュタウフェンベルクはまだ判断がつきかねる。

 いつでもにこやかに笑っている彼女が、生粋のナチであるなどとは考えたくもないし、できるなら彼女を「ナチス親衛隊」や「ナチス党」に属する者たちと同じように排除する事態にならなければ良いとも思う。

 そんな少女の胸ぐらをつかんだトレスコウが、じろじろと値踏みするように見つめていれば、強硬手段による苦しさからかぽろぽろと生理的な涙がこぼれ出した。

「あ……」

 がりがりにやせた少女の手首がトレスコウの胸を押し返す。

 少女の涙が落ちた瞬間にトレスコウは我に返った様子で息をのむと、どこかばつが悪そうに手を離すと眉をひそめて小さな吐息をついた。

 国家保安本部の中央記録所に「黒いオーケストラ(シュヴァルツ・カペレ)」のファイルがある以上、一部の国家保安本部の情報将校がそれらを認識しているといるだろうことは間違いない。

 問題はそれをどのように受け止めるかだ。時と場合によっては反ナチス派に名前を連ねる国防軍将校たちの命に関わることになるだろう。

 だから、トレスコウは逡巡した。

 情報の扱い方を間違えてはならない。

「乱暴をしてすまない」

「大丈夫ですけど」

 小さな咳を繰り返してから小首をかしげたマリーはどこかに感情を置き忘れてきたようににこりと笑ってから再びベンツの後部座席に腰掛けた。

「トレスコウ大佐はよくわかってるでしょうけど、今は戦争中なんですから、敵は外だけじゃなくて”内”にもいるんです。あなたはそれを見誤ってはならないわ」

 どこか確信めいた口調でマリーが告げる。

 唇の前に人差し指を立てて、まるで内緒話でもするように声をひそめて。

「ナチス親衛隊だから、とか、ナチス党員だから、とか。そんなことは些末なこと。あなたは敵と味方をもっと”正しく”見極めなければならないわ」

 もっともらしいマリーの台詞に、トレスコウは鼻から息を抜くと、困った表情を浮かべてその場に立ち尽くしていたベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクに視線を投げかけた。

「シュタウフェンベルク伯爵閣下、あなたは自分がなにに肩入れをしているのかわかっているのですかな?」

 唐突に矛先が変わった。

 トレスコウの口調は若干穏やかだが、シュタウフェンベルクのほうはかすかに眉間にしわを寄せて視線をさまよわせた。

「トレスコウ大佐、わたしは……」

「……わたし、わたし!」

 口ごもるシュタウフェンベルクにマリーが右手を挙げて自己主張した。

「む?」

「シュタウフェンベルク伯爵にそんなこと聞いても意味がないわ。だってわたしがカルテンブルンナー博士にお願いしたんだもの」

 ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクにしてみれば、決してナチス親衛隊に肩入れしているつもりなどない。しかし傍目には彼が裏切ったように見えたとしてもやむを得ないだろう。

 保身のために思想を放棄した、と見えなくもない。

 「だってわたしが」というところを強調したマリーの物言いに、シュタウフェンベルクはトレスコウと金髪の少女を交互に見つめてからため息をついた。

 自分の意志でどうにでもなる問題ではない。

 ナチス親衛隊――国家保安本部の要請に否やはない。

 彼らのやり方を否定すれば、そのまま強制収容所に送られることになるだろう。そして、その後に国家保安本部が矛先を向けるところなど決まっている。

 ラインハルト・ハイドリヒが暗殺された当時のベーメン・メーレン保護領で行われた一連の強制捜査を見れば明らかだ。

 疑惑の目を向けられれば逃げられない。

 そればかりではなく、一族郎党の処刑と、さらに一族に関係する多くの者たちが一斉にゲシュタポの手によって処罰されることになるだろう。

 ぞっとする事態だ。

 昨年のラインハルト・ハイドリヒ暗殺事件に関係して、四八〇万人弱が取り調べられ、そのうち一万三千人余りが逮捕された。さらにそのうちで死刑を宣告された者は二千人余りともされる。

 その後にナチス政権によって罪もない婿の人々が犠牲になった。

 ――謀略の疑いによって、複数の村が「地図から消え」た。

 ゲシュタポを敵に回すということは「そういうこと」だ。だからベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクがその意志にかかわらず、命令によって国家保安本部に在籍していることは彼の罪ではない。

 そんなことは言われなくてもトレスコウにもわかっている。

 なぜなら、ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクも弟のクラウスと同じように反ヒトラー戦線を構成する一員であることをトレスコウは知っているからだ。

「君が?」

 計画の主犯を正直に名乗り出た少女の素直さがすっかりささくれたトレスコウには意外だった。

「そうよ、わたしが言ったの」

 にこにこと馬鹿のように笑っている。

 彼女の笑顔。

「なぜ? 危険性はわかっているだろう? 国家保安本部に反ナチを噂される者を引き入れることがどれほど危険なことか。悪くすれば君自身の身も危ういだろう」

 問い詰める様子のトレスコウにマリーは頭上に視線を泳がせる。

 困り顔のベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクと、大きな青い瞳を見開いて金色のまつげをしばたたかせているマリーはひどく対照的だった。

「そんなこと次々と言われても……」

 トレスコウの質問に面食らったのか、マリーは眉間にしわを寄せると唇をとがらせる。

 どうやら相手を困らせることはなんとも思っていないようだが、困らされることは好きではないようである。要するに他者の気持ちに共感するということがそれほど得意ではないのだろう。

 もっとも困らされるのが好きという酔狂な者もいないというものだ。普通の感覚であれば、自分がされていやなことは他者にしないものなのだろうが、マリーはそうした感覚がぽっかりと欠落していた。

「でも、そのファイルにあるように、わかってる人もいるから立ち居振る舞いには神経を払うべきだと思うわ」

 まるでいたずらする前の子供のように、彼女は両目を細めるとにっこりと笑った。

 彼女は国家保安本部に所属しているから知っているはずだ。政治警察がなにをしている機関で、その結果としてどんな事態が発生しているのかも。

 どれだけ悪辣な手段で罪もない市井の人々に罪をなすりつけているのかも。

 知っていて、彼女はこんなにも「にこやかに」笑っているのだと思うと、なぜだかトレスコウはぞっとした。

「でも、少なくとも”わたしは”ドイツの敵じゃないのだから、あなたが見誤らなければ良いだけのことで……」

「なにを懸ける?」

「……どういう意味?」

「わたしは命を懸ける。革命に。だからこそ死を恐れない。ヒトラーを恐れていれば革命は成し遂げられない。君は国家保安本部の情報将校と言うことになっている。ヒトラー派の君は、なにを懸ける?」

 たたみかけるように言葉を告げられて、マリーはふたりの男たちを代わる代わる見つめてから、唇の端をつり上げて笑って見せた。

「……もちろん、わたしの存在のすべてを懸けて」

 そう――。

 ドイツの存続のために存在しているのだ。

 マリーはそれを知っている。

「……――これは返しておこう」

 ぶっきらぼうにトレスコウはマリーの薄い胸に書類の束を突き返した。

 国家保安本部の頭の足りない彼女のそばに、切れ者のベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクがいることは冷静に考えれば無駄なことではない。裏を返せば、ナチス親衛隊の警察機構に反ヒトラー派の理解者がいると考えれば良いのだ。

国家保安本部(RSHA)を信頼したわけではない」

 自分の腕の中に戻されたファイルを両手で抱えて、マリーは首を回してシュタウフェンベルクとトレスコウを満足げな顔で見やる。

「だが忠告は心に留めておこう」

 国内外に多くのスパイを解き放つナチス親衛隊、国家保安本部。その存在は驚異的だ。特にここ最近、エルンスト・カルテンブルンナーのもとに再編されたその組織の危険性は上昇の一途だった。

 それまでばらばらに動いていたものがカルテンブルンナーの指揮下に集約されつつある。

 情報を掌握「されてはならない」。

 なによりも相手の隙につけいることが、反ヒトラー戦線の人々にとって起死回生の機会だったのだから。だけれどもその行動そのものが危険きわまりないとたかが十代の少女に指摘される羽目になった。

「機会は用意周到に選ばねばな」

「そうよ、そうなの」

 だから命を粗末にしちゃいけないわ。

 わかっているのか、わかっていないのか。微妙な表情のままでマリーはそうして付け加えた。 

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