13 ひとときの休息
ソビエト連邦の内偵機関と言えば、ラインハルト・ハイドリヒすらも感嘆の眼差しを向けたという内務人民委員部だ。スターリン態勢にあってその機関を指揮した長官を務めた男は行方不明になって久しいらしい。
その行方については今のところ、国家保安本部の国外諜報局を含めてそれほど真面目に捜査は進めていない。
シェレンベルクなどにしてみれば、スターリン態勢で実権を握っていた官僚などフルシチョフ態勢での生け贄として、その悪感情の矛先にしてしまえば良いと言うところだった。
内務人民委員部長官――ラブレンチー・ベリヤ。
そんな俗物など捨て置けば良いのだ。
ヴァルター・シェレンベルクはそう冷徹に切り捨てた。ソビエト連邦をスターリンと共に崩壊に導いた片腕と呼ばれる男など、わざわざ国家保安本部を中心としたドイツ人が躍起になって追撃するまでもない。逃げる場所には限りがある。それゆえにいずれ、フルシチョフの手下によって検挙されるだろう事は目に見えていた。
だから、わざわざドイツの名前で泥を被る必要などない。
当面の目的はソビエト連邦を含めた占領地域に出向した官僚や政治家、入植者たちや警察関係者。あるいは協力者達の安全の確保だ。
ラインハルト・ハイドリヒがベーメン・メーレン保護領でそうしたように、時には高圧的な方法に走るよりも有効な手段がある。
統治というものはそういうものだ。
「しかし、急務は人員の不足だろう」
エルンスト・カルテンブルンナーの指摘に、シェレンベルクは視線を中空へと滑らせた。
「それについては心配は無用です。連中の鼻先ににんじんでもぶら下げてやればいいのです。長官閣下」
誰しも。所属する国家の安定を望むものだ。
ドイツに対する敗北を前にして、ニキータ・フルシチョフはソビエト連邦という巨大な国家が生き残るために死にものぐるいであがくはずだ。
そんなことは想定済みだ。
だからシェレンベルクらは、彼らをうまく誘導してやればいいだけのことだ。
彼らに「そう」とは気づかれないように、さりげなく。
狡猾で、冷徹だと言われても、得てして謀略とはそういうものだ。戦争をしている以上、くだらない人権などや倫理観などにとらわれるなど愚かにも甚だしい。
「なるほど、シェレンベルク少将の言うことはもっともだが、そう簡単に事態が転がるだろうか」
「そこが腕の見せ所ではありませんか?」
「……うぅむ」
ぬけぬけとシェレンベルクに言われて、凡人の法律家は眉間にしわを刻むと考え込んだ。
政治警察の中心地でもある、国家保安本部が今さら人権などを気遣わなければならないというのは、全く笑わせる話だ。
彼らには彼らの役割がある。
恐怖という魔力で、社会全体をコントロールするのが政治警察の役割だ。そのためなら手段は問われない。いつしか会議でのやりとりは、より高度な管理問題へと移っていく。主導権を握り、より狡猾に相手を欺くために。それは騙すか騙されるか。互いの権力をかけた水面下での戦いだ。
互いの存在を懸けて騙し合う。
そこには人道も、人権も。そして倫理観も「存在しない」。
そもそも、そんなものは必要ないのだ。
戦争そのものが、等しく倫理的ではない上に、政治警察に要求されることは「市民の安全の確保」などでもない。
「フルシチョフは、死にものぐるいで自らの生存権を懸けて我々に謀略を仕掛けてくることでしょう。ですから、そのためにも我々は常に先手を打たなければなりません」
それは生存権を懸けた静かな戦いだ。
表面的には湖面にはさざ波すらもたちはしない。しかし、そうした戦いは時に、実際の戦場の様相さえ変えることになるだろう。
誰かが汚い仕事をしなければならないということを、生粋の諜報部員であるヴァルター・シェレンベルクという男はよく理解していた。
フルシチョフが守ろうとしているものを、もちろんシェレンベルクがわからないわけではない。彼は彼なりの立場でソビエト連邦という国を守ろうとしている。そんなことはシェレンベルクにもわかりきっていた。だからといって所属する国家が異なる以上、相手に同情や遠慮などしてやる義理もない。
冷たい眼差しを閃かせたシェレンベルクはそう言い切ってから会議の席に座っている一同を黙って見渡した。
その席で、ヴァルター・シェレンベルクよりも若い男はいない。
しかしだからといってその知性が年齢相応であるとも限らない。
――ぼんくらだ。
それがシェレンベルクの彼らに対する評価だった。
そうして会議はこれといった解決策が見つけられないまま、カルテンブルンナーの声によって解散になった。
コーカサス地方からドイツの実質的な支配圏までは距離的に遠すぎる。その間にはどれだけのパルチザンが潜んでいるかもわからない。こうなるとたった五万人程度の国家保安本部が指揮を執ることも困難だし、
秩序警察や憲兵にも荷が重い。
確実な輸送路の安全を考えればソビエト連邦の協力が必要なことは目に見えていた。
「シェレンベルク少将」
カルテンブルンナーに呼びかけられて、書類を束ねてファイルに挟んでいたシェレンベルクは顔を上げた。
「長官閣下?」
「親衛隊長官はわたしが話してみることにする。国家保安本部の力にも限界がある」
気難しげな顔つきでそう言われて、シェレンベルクは口元に小さく微笑を浮かべた。
「決定権は我々にはありません」
決められれば全力で任務を遂行するだけの話だが、すでに国家保安本部がオーバーワーク気味である以上、そこに見える限界はそれほど遠くない。
「それに汚い仕事はそれだけ危険を伴うものですから……」
「うむ、シェレンベルク少将の言うことももっともだ」
重々しくうなずいたカルテンブルンナーにシェレンベルクは内心であきれたものの、顔にはそんな表情をかけらも出さずに相づちを打つように首を縦に振っただけだった。
一応、エルンスト・カルテンブルンナーという男は、シェレンベルクよりも階級が高いということになっている。
「それでは、本官も失礼させていただきます」
会議室から廊下に出ると、そこには床に座り込んでスカートと一緒に膝を抱えている場違いな金髪の少女と、その横には堅苦しい顔をした首席補佐官が立っている。
その表情を見たところ、おおかた床に座り込むことについて、一応は注意をしたといったところか。
抱えた膝に頭を乗せて、待ちくたびれたと言った顔をしている少女は、下からシェレンベルクを見上げて何度か両目をしばたたくとにこりと満面の笑顔をたたえてみせる。
「仕事中の時間じゃないのか?」
どこか素っ気ないシェレンベルクの問いかけに、マリーは大きく口を開けてあくびをもらすとベストの腕に引かれて立ち上がる。
「もう五時よ。仕事なんてとっくに終わったわ」
マリーがまじめな顔でそう言った。
確かに、そう言われてみれば口うるさいヴェルナー・ベストとハインツ・ヨストがいるわけだから、仕事を放り出すことを良しとするとも思えない。
なによりも年末のプラハの一件や、国防軍を中心とした造反に荷担した疑惑を含めて報告書を提出しているからマリーの特別保安諜報部には仕事らしい仕事といったものはないというのが現実だ。
国家保安本部でも名だたる頭脳ともいえるヴェルナー・ベストやハインツ・ヨスト、ヘルベルト・メールホルンを擁していながら、なんとも人的資源の損失であるともいえなくもないが、仕事がないものはどうしようもない。
なにより彼らは特別保安諜報部と名乗っているものの、実質的には諜報部でもなければ所属する官僚たちは諜報部員でもない。その実態はハインリヒ・ヒムラーの私設部隊だ。
「それで、こんなところでわたしを待っていたのか?」
「これをあげようと思って」
いつもの調子で彼女はにこにこと笑う。
まるでどこか、別のところに笑顔以外の感情を忘れてきてしまったかのように。
抱えていた紙袋をシェレンベルクに押しつけてから、マリーはくるりと踵で重心をとると青年に背中を向けた。
「マリー」
不安定な彼女の体勢に横にいたベストが咎めるような声を上げるがすでに遅い。
相変わらずバランス感覚の悪い少女はそのまま後ろにころりとずっこけけて、ベストが伸ばした腕の中に後ろから倒れ込むような姿勢でおさまった。
ベストは羽のように軽い少女の体を抱き留める。
「気をつけたまえ」
即座にしかりつけられてマリーは大きな青い瞳でいかめしい顔しているヴェルナー・ベストを見上げて、まばたきを繰り返した。
「……ありがとう、ごめんなさい」
彼女はいつでも素直で率直だ。
もちろん、なかなか素直になることが難しい荒んだ世の中にあって、素直であるということはそれだけで素晴らしい資質だとも思うのだが、マリーの素直さというものは、どうにも一見ずれているようにも感じられる。
「君は返事はよいのだがね」
「そんなこと言われても……」
そう。
不注意な人間が注意されたからといって簡単に注意深くなるわけでもなければ、その態度が慎重になるわけでもない。だから、彼女が困った様子で口ごもるのもベストにも多少は理解ができる。それに歩くこともままならないほど筋力の弱っていた一年近く前と比較すれば随分足腰も丈夫になった、ような気もする。
時にはヴェルナー・ハイゼンベルクやらハインツ・グデーリアン辺りに運動のつきあいをさせられているようではあるが。
「まぁ、良い」
ベストは勝手に納得すると彼女の体を支えていた腕を離してからシェレンベルクに視線を向けた。
一方でシェレンベルクのほうはというと、マリーから手渡された紙袋の中身をのぞき込んで小首をかしげた。
「パンか?」
シェレンベルクの問いかけにマリーはいつもの調子で朗らかに笑った。
「ベックさんちで作ったのよ」
だからお裾分け。どうせ、シェレンベルクはまだ残業があるんでしょう?
付け加えるように告げられて、国家保安本部の名だたるエリート将校は紙袋に手を突っ込むとパンをつかんで取り出した。
「まだあんまり上手じゃないけど……」
マリーが眉をひそめてそう言った。
「まぁ、花嫁修業くらいにはなるんじゃないか?」
そういえば昼食もろくにとっていなかったということを思い出して、固いライ麦パンにかじりつく。話を聞く限り、マリーはあまり料理が上手なほうとは言えないようだが、世の中、女性全員の料理の腕がプロ並みだったら、料理人という職業は死滅するだろう。
だから家事がへたな女性がいてもいいのではないかと思うシェレンベルクだった。
「妻からは最近は、君の料理の腕もそれなりに食べれるものになってきたと聞いている」
ベック夫人と、シェレンベルクの妻はマリーに料理を教える先生でもある。だから、妻からはそれとなくマリーの料理の腕はシェレンベルクも聞き及んでいる。
「……どう?」
金髪の少女に問いかけられて、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの廊下で行儀悪くパンにかじりついた青年は数秒の沈黙の後に「悪くない」と評価を下した。




