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国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクが「海外出張」から戻って、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの国家保安本部では、再三再四にわたる会議が開かれていた。もちろん会議を開けば問題が解決するわけでもないのだが、その場には珍しくアドルフ・アイヒマンが席を連ねていた。
そんな会議の席で国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナーは憮然として眉間にしわを寄せたままで唇をへの字に曲げていた。
政府首脳部は「政府決定」の実行の命令を下せば良いだけのことなのだが、それを命令されたほうにはそれなりに問題が山積みだ。資金的にも、人材的にも限界が生じ始めている。
もちろん、そのほころびのきっかけを作り出したのは、国家保安本部を築き上げたラインハルト・ハイドリヒだ。そのやり方を今さら非難するカルテンブルンナーでもなかったし、正直なところを言えば、良くも悪くも凡人でしかない彼自身がハイドリヒと同じような決定力を持っていたとも思えない。
ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒという男はカリスマだ。
彼に反感を持つ者も、迎合する者も、そして指揮下にある誰もが。あるいは、無関係の一般庶民たちにすらも、ハイドリヒという存在を決して無視しえないのだ。
――この困難な状況で、政府はなにを考えているのか。
会議用卓の下でカルテンブルンナーは苛立たしげに膝を揺らす。
そして、現在の状況が、ラインハルト・ハイドリヒの限界であり、カルテンブルンナーの限界なのだ。
結局、決定権など存在しない。
カルテンブルンナーも、ハイドリヒも同じだ。
「誰か」の承認をもってして、彼らの権力は存在している。ハイドリヒはその現実を知っていたのだろうか? それとも知っていて、その現実をすでに受け入れていたのだろうか。
どんな気持ちでありとあらゆる死と向き合ってきたのだろう。
敵を殺し、弱者を殺戮し、部下さえも不必要とあれば切り捨ててきた男。
そんな冷徹な男の後継者として指名されたことが、今のカルテンブルンナーには重荷になった。
まともな精神ではハイドリヒの後継者など務まるわけがない。
それが現実だ。そして、それが現実である以上、ハイドリヒと比較してカルテンブルンナー自身が凡人であるということにほかならない。
「……異民族を我々ドイツ人の生存圏内の外へと再定住せよ、という命令を受けてはいるが、その手段がはたして”残忍”である必要があるのですかな?」
苛立つカルテンブルンナーに容赦ない口火を切ったのは、昨年、アインザッツグルッペンの指揮官を務めたオットー・オーレンドルフだ。
「しかし、オーレンドルフ中将。そうは言うが、そもそも、我々のマダガスカル計画を無駄なものにしたのは政府首脳部ではないのか」
「手段はともかくとして、わたしは残忍である必要はないと言っているのだ。ロシアでのやり方にはわたしも熟知していることだが、これ見よがしに制裁的に残忍な方法をとることは好ましくないと言っている。労働に振り向けるのであればそうすべきだ」
冷静に指摘するオーレンドルフに、アドルフ・アイヒマンは眉をつり上げたが、結局、反応はそれだけで口は固く閉ざしたままだ。
反論したのはゲシュタポ・ミュラーだ。
マダガスカル計画はアイヒマンの指揮のもとに計画を立案されたのだが、船舶の不足や燃料の不足。マダガスカル島の奪取の困難や、その他諸々の問題の前に計画が頓挫した。
つまるところ、ドイツの領土拡張は思わぬ政策的な困難を招いたと言ってもいいだろう。そもそも拡張政策をはじめる前――要するに一九三九年以前まで――はドイツ国内のユダヤ人もそれほど多くはなかった。
だからこそヒトラー政権もユダヤ人に対して悪質なスケープゴートを押しつけてはいたものの、それだけのことでそれ以上の政策上の破綻にはつながらなかった。だが、急速な拡張政策のおかげでドイツ国外に脱出したドイツ人たちをも飲み込んだヒトラーの覇権主義は政策そのものの破綻も巻き込んでいった。
力による強硬な締め付けは、大きな反発を生み出すことを知らない国家保安本部ではない。
その構成人員はたったの五万人。
わずかな政治警察のみで対応できる規模ではなかった。
「この上、親衛隊長官は、テレージエンシュタットの規模のゲットーをロシアに展開すると言っているのだ」
オーレンドルフの指摘に、アイヒマンが眉をしかめた。
「アイヒマン中佐、貴官はどう考える?」
唐突に名前を呼ばれてアドルフ・アイヒマンは鋭い視線を国家保安本部首脳部の高官たちに向けた。
今回の会議への同席は昨年の一月にヴァンゼーで行われた会議でのときのような「おまけ」ではない。アイヒマンもアイヒマンの立場で意見を求められた。もっとも、とアイヒマンは自嘲気味に鼻から息を抜いた。
所詮、彼らはアイヒマンのことなど今さらの様に留意することもない。
彼らにとって、アイヒマンはその程度の存在だ。
「……質問の意図を測りかねます」
しばらく考えてからそう応じたアイヒマンに、今度は世界観研究局長の哲学博士が机に身を乗り出すようにして口を開いた。
眼鏡をかけた両目がどこか死に神のようだ。
「単刀直入に言えば親衛隊の主導で、コーカサスの石油の輸送のためにその鉄道網を整備することになった。その鉄道敷設の作業に東部に労働力を移す。そのためのゲットーが必要とされているがテレージエンシュタットのような例は可能かどうかという話だ」
フランツ・ジックスの言葉に、アイヒマンはもう一度自分の目の前のテーブルにおかれたファイルに視線を落とした。
可能か不可能か、という話であれば、答えは簡単だ。
「現状は、全てにおいて限界に達しております。ジックス少将」
資金的にも、人員的にも。
「問題の解決は可能か?」
「現状のままですと、不可能ですとしか……」
再度尋ねられてアイヒマンは言葉尻を濁してジックスに応じると、全員がそれぞれに反応を見せた。
「そうだろうな、そんなところだろう」
ぴくりとも表情を動かさないのは東部戦線で同様にアインザッツグルッペンの指揮官を務めたオットー・オーレンドルフとアルトゥール・ネーベだ。
ドイツの警察の能力を大きく越えていることは、明白な事実だ。刑事警察と国家秘密警察だけでは対処能力に限界が来ていた。
「噂では国家保安本部と秩序警察を統合する案が出ているといいますが、その辺りはどうなっているのです?」
思い出したようにネーベがカルテンブルンナーに問いかけると、刑事警察局長の意見にカルテンブルンナーはなんとも言いようのない表情になって肩をすくめただけだ。
当初、酒とタバコに溺れた男といった印象だったカルテンブルンナーもこの一年ほどでだいぶ様子が変わった。
もしくは、もともとこうした性質の男だったのかもしれない。
オーストリアの過激な民族主義と苦学生時代だった多感な時期に行き場のない感情のやり場を見失った結果なのだろうか。いずれにせよ、カルテンブルンナーという人間から受ける印象はだいぶ変化した。
誰が彼を変えたのかなど言わずもがなだ。もっともそれを指摘したところで、カルテンブルンナーは悪振ってみせて「女の子の服に酒とタバコの臭いがつくのがいやなだけだ」とでも答えただろう。
要は好きな女の子の前では格好つけていたいという、実に幼稚な男の本能に過ぎない。
「制服警官には制服警官の役割がある。それをゲシュタポとクリポの捜査官と同列に考えるべきではないのではないか?」
「わたしは、その語の話を知りたいだけだ。ミュラー中将」
横槍を入れたのはミュラーだが、それを素っ気なくネーベは受け流すと表情を改めた。
「別に制服警官共に刑事警察の捜査官たちのような捜査能力を求めているわけではないし、そんなことがそもそもナンセンスだ」
仮に国家保安本部と秩序警察が統合の話が現実的なものとして進んでいるのであれば、それは国家保安本部首脳部は知るべきだし、物事には心構えが必要だ。
「ですが、秩序警察が無能であるというわけではありません」
別段、秩序警察の肩を持つわけでもなさそうな顔で、オーレンドルフがネーベとミュラーの会話に割って入る。
「彼らが無能だとは言っていない」
国家保安本部と秩序警察。
かつてはラインハルト・ハイドリヒとクルト・ダリューゲの諍いでもあったふたつの警察組織はことあるごとに対立した。そしてそれはカルテンブルンナーとヴェンネンベルクに代替わりした今でも、連綿と続いていた。
「だが、安易に国家保安本部とひとくくりに考えて制服警官たちを顎で使うということとは違うのではないかと思いますが」
社会秩序の維持のために制服警官たちの力が必要不可欠であるということを国内諜報局長のオーレンドルフは理解しているつもりだった。
彼らがいなければ社会秩序の維持以前の問題だ。
「もちろんオーレンドルフ中将の意見も一理ある。しかし、問題は現状、国家保安本部の処理能力が限界に達しているという点ではないか」
「いずれにしたところで国家保安本部と秩序警察の統合の話は噂でしかありませんし、ヒムラー長官の鶴の一声で決まる以上はここで我々がいくら議論したところで人件費の無駄以外のなにものでもありません」
オーレンドルフの指摘は理にかなっている。
いくら議論しても無駄。
結局、それだけの話だ。
「話をもとに戻しましょう」
オーレンドルフはそう言って話題を元に戻した。アイヒマンのほうはというと局長同士の話に割り込むわけにも行かず、手元の資料をじっと見下ろしたままだった。
「社会秩序の維持のためにも秩序警察の存在は無視できないことも鑑みると、なにもドイツ警察の力を投入しなくても良いのではありませんか?」
資源は有限だ。
だからこそ、その資源は有意義に浪費しなければならない。
「影響力のある有能な官僚を占領地に差し向ければいいのです」
ポーランドやフランスにそうしてきたように。
ソビエト連邦も例外ではない。パルチザンの危険があるのはなにもソビエト連邦西部だけではない。
「シェレンベルク少将はどう思う?」
会議の席でひとり沈黙を守っていたシェレンベルクにオーレンドルフは言葉を投げかけると、鉛筆を指先でくるりと回してから知的な眼差しを閃かせて小首を傾げた。
「そうですね、うまく連中を丸め込むことができれば、容易であると考えます。幸い、フルシチョフは最適の組織を持っておりますし」
いかに味方として取り込むことができるか、ということこそが重要だ。
そうシェレンベルクは短く告げる。
「しかし相手はあのフルシチョフだ」
ニキータ・フルシチョフ。
彼の存在は脅威だ。
ヨシフ・スターリンとはまた異なる意味で、頭が切れて腹の底の見えない男。
「だから彼に取り入ることができる人間が必要なのです、おそらく今までスターリンの下で行動している以上、こちらを出し抜くことなど朝飯前でしょう」
「適任者がいるとは思えん」
政府首脳部は無能ばかりだ。
「そうですね……、もちろん国家保安本部の身勝手は許されませんから、我々はあくまでも命令に従うのみです」
ヒムラーから国家保安本部に下された命令。それはソビエト連邦におけるドイツの植民地域におけるゲットーの拡張だ。
国家保安本部も、秩序警察もその能力は限界だ。しかし、命令が下った以上、任務は遂行しなければならない。
構図はいたってシンプルだ。
今後、さらに占領地区が拡大することも考えれば、対処法のテストケースとなり得るだろう。
「北アフリカ情勢も考慮すれば、良いデータを取得する良い機会かと考えます」
会議の席上でヴァルター・シェレンベルクは冷ややかにそう言った。




