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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
V トールハンマー
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2 机上の殺戮者

 シェレンベルクの腕の中で時折うなされていた様子もあったが、青年はあえて彼女を起こさなかった。

 夢というものは、そのときに見ていてもすぐに忘れてしまう程度のものだ。

 本来であれば。

 だから、ヴァルター・シェレンベルクは彼女が自分の腕の中でうなされていても、その眠りを妨げない。

 女の扱いは見事なものだが、シェレンベルクが腕の中にいるマリーを「女」と認識しているかどうかは果たして怪しいものだ。

 どちらかと言えば「子供」としか認識していない。

 指先で少女の長い金髪を梳きながらシェレンベルクはソファの肘掛けに肘をつく。そうして頬杖をつきながらシェレンベルクは手慰みのように指先で彼女の頭をなでながら考えた。

 第五局――刑事警察(クリポ)局長アルトゥール・ネーベ親衛隊中将に告げられたことに否やはない。しかし、あらゆる意味で「安全な人選」となると、さて誰が適任だろう。

 もっとも、よほどのことがない限り彼女のように幼児体型――というのは言い過ぎにしても――の子供に欲情するような男がいるとは思えないのであるが。

 自分の腹部に両腕をきつく回してしがみつくいているマリーの細い体を見下ろした。

 それからしばらくして目を覚ましたマリーはすっかり落ち着きを取り戻していたようにも見える。

 マリーを六局の局員であるウルリヒ・マッテゾン親衛隊少尉に送らせて、そのまま彼女の臨時的に護衛を任せることにした。マッテゾンであれば当面問題は起こさないだろう、というシェレンベルクの打算もある。

 奇妙だと思ったのは、目を覚ました彼女がいつもと大して変わらなかったことだ。普通の人間であればもっとショックを受けていてもおかしくないはずだというのに、彼女にはそれがなかった。

 花のような笑顔。

 いつも朗らかに笑っている彼女。

 彼女はこれからどうするつもりなのだろう。

 現在、アルトゥール・ネーベとハインリヒ・ミュラーの両刑事局長を中心として、国家保安本部関係者に対するテロリストの捜査が続けられていた。

 二ヶ月前、ラインハルト・ハイドリヒの暗殺事件から国家保安本部内は厳戒態勢にあった。そのために今回のマリア・ハイドリヒに対する襲撃事件は、国家保安本部の職員たちを激怒させることになった。

 マリーが襲撃されたということが問題なのではない。

 彼女が国家保安本部に所属する親衛隊将校であると言うことが問題なのだ。

 マリーは言っていたではないか。

 刑を執行するならば、迅速に叩きつぶさなければならないのだと。

「……物騒だな」

 つぶやいたシェレンベルクはマリーの笑顔を思い出す。

 ――叩きつぶせ。

 シェレンベルクは声を聞いたような気がして顔を上げた。


 花の家ハウス・デア・ブルーメン

 そこはマリーの自宅だ。

 まるで掘っ立て小屋のような自宅で、マリーはふたりがけのソファに横たわるように転がっている。

 背もたれに頭を預けて目を閉じて黙り込んでいる少女の姿に、第四局に所属するウルリヒ・マッテゾンはやはりソファに腰を下ろしたままでそんな少女を眺めていた。

 異様な沈黙に満たされているが、そんなことをマッテゾンはものともしない。

 若手将校ではあるが、元々彼は国家秘密警察(ゲシュタポ)から親衛隊情報部(SD)に出向している。下士官としてゲシュタポに勤務していた頃は、尋問官として現場でたたき上げた辣腕の捜査官だ。

 被疑者の沈黙には慣れていた。

 ソファの上で丸まっているギンガムチェックのスカートの少女。金色の髪が身じろぐたびに揺れる。

 今は訊問をしているわけではないから気楽なものだ。

 何度か彼女と言葉を交わしているものの、実際のところそれほど親しいというわけではない。他の士官たちと違って、好奇心半分で花の家ハウス・デア・ブルーメンに出入りしているわけでもないし、現実的な話しとしてマッテゾンなりに忙しい毎日を送っている。

 東部戦線のみならず、多くの同盟国、あるいは西部の戦線などから毎日のように国外諜報局に届けられる情報を情報将校たちと共に解析し、それを的確にまとめて適宜提出しなければならない。

 ドイツ第三帝国を巡る状況が逼迫している今、情報戦は戦場の行く末の鍵を握っている。もっとも彼はゲシュタポの人間と言っても過言ではなかったから、生粋の情報将校たちの足元にも及ばないのだが。

 ベルリン市内、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの国家保安本部オフィスの入り口で、マリーは銃撃された。犯人が超一流の狙撃手、というわけでもなかったから寸でのところでマリーの頭部から狙いはそれた。

 目撃した警備兵によると少女がいつものごとくほんのわずかにつまづいたらしい。おそらく、そのために狙いからはずれたのだろう。彼女がそのまま歩いていたらほぼ確実に命はなかった。

 なんとも運の良い話しだ。

 犯人を取り逃したとのことだが、ゲシュタポとクリポによってベルリン市内の一斉捜査が行われている。それほど遠くはない未来に、市内に潜む反体制分子は一掃されるだろう。

 国外諜報局特別保安諜報部長、マリア・ハイドリヒ親衛隊少佐。

 彼女の狙いはどこにあったのだろう。

 刑事警察(クリポ)局長アルトゥール・ネーベ親衛隊中将に縋り付いて震えていた彼女の姿が演技であるとは考えがたいが、それにしたところでもしも全てが計算内であるとすれば、恐ろしい話しだ。

 国外諜報局の人間は基本的に国内の犯罪捜査には関わらない。しかし、局内の親衛隊将校がテロリズムの標的にされたとなれば話しは別である。

 第六局の全力をもって捜査に介入するだろう。

 その局長、ヴァルター・シェレンベルク親衛隊大佐は国家保安本部でも一、二を争う切れ者であり、さらに暗殺された前国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒ大将の片腕とも呼ばれた男だ。

 その冷徹さは多くの者が知るところだ。

 一見すれば人当たりがよくも見えるが、シェレンベルクは決してそれだけの男ではない。そうでばければ若干三二歳で大佐スタンダルテンフューラーの地位に上り詰めることなどできはしない。

 ラインハルト・ハイドリヒの片腕。

 それがどういう意味を持つのか、国家保安本部内で知らない者はいないだろう。そして、その国外諜報局長が後見するひとりの少女――マリア。当初、どうしてヴァルター・シェレンベルクがマリア・ハイドリヒに肩入れするのかがわからなかった。どうしてこんな小さな子供に聡明なシェレンベルクが心を傾けているのか。

 その本心など、ウルリヒ・マッテゾンなどにはわからないが、それでも、彼の姿勢は充分にシェレンベルクがマリアに「肩入れして」いるように見えたのだ。

 そしてシェレンベルクが肩入れしているように見えた少女は、あろうことか自分の部署を手にしてからすぐに行ったことは、総統官邸の反体制分子の一掃だった。彼女が年若く恐れることを知らなかったからそんな無謀な行動に出ることができたのだろうか?

 そして一足飛びにあっという間に昇進したマリーは今では親衛隊少佐だ。

 確かに、その辣腕は目をみはるものがあった。

 総統官邸に潜む反体制分子など誰が見抜けただろう。それだけではない。局長のシェレンベルクや当のマリーは口にしないがまだなにかを隠している。

 それは政治的な効力を発揮するものなのだろう。

 時に、情報とは効果的なタイミングでベットしなければならない。

少佐殿シュトゥルムバンヒューラー、こんなところで寝ては体調を崩します」

 最初に会ったときは、ただの一般庶民だったが今はマッテゾンよりも階級が上になる。そんな相手になれなれしい口をきくわけにもいかず、そう告げると少女はソファで寝返りを打った。

 基本的に彼女は体のバランス感覚があまり良くないのか頻繁に転ぶ。

 今もそうだった。

 身じろいだせいでソファから転げ落ちたマリーを、ウルリヒ・マッテゾンは思わず抱き留める。衝撃に目が醒めたのか驚いたように瞠目した彼女は青年の腕の中でまばたきをした。

「寝ぼけていますか?」

「……ごめんなさい」

 ぱちぱちとまばたきをする度に金色の睫毛が揺れる。

 確か、彼女の特別保安諜報部に名前を連ねるのはベテランの情報将校たちばかりだ。中でも首席補佐官を務めるヴェルナー・ベスト博士は、裁判官出身の切れ者である。

 次席補佐官のハインツ・ヨスト博士。そしてベテランの秘密工作員でもあるアルフレート・ナウヨックスなど、彼女の「部下」として組み込まれた士官は誰もが一筋縄ではいかない男たちばかりだ。

「寝るなら寝室で寝てください。それともひとりじゃ寝れないとでも言うんじゃありませんね?」

「大丈夫よ」

 にこりと笑った少女はマッテゾンに支えられて立ち上がると寝室へと続く木の扉を押した。

 なにもかもが質素な彼女の家。

 マリーが寝室へ消えたのを見送ってから、マッテゾンは行動を開始した。

 窓の隙間、扉。ありとあらゆる場所の盗聴器や爆発物の可能性を疑って室内を調べ尽くし、あやしげな気配がないことを確認した彼はようやくソファに戻ると窓にかかるカーテンを引いた。

 こんな掘っ立て小屋のような家など入ろうと思えば誰でも入ることができるだろう。少なくとも室内になにか貴重なものがある様子もない。

 なにせものがほとんどないのだ。

 おそらく彼女の衣服が唯一の持ち物だと言ってもいいだろう。

 誰でも入れそうな家にひとりでいるということは、テロリストの(てい)の良い(まと)にされると言うことだ。

 こんなところさっさと引き払って近代的なアパートメントにでも住んだほうが警護するには楽なのではなかろうか、とマッテゾンは考えた。

 幸い、ベルリン市内にはユダヤ人から接収した空き家が山ほどある。

 住む場所には困らないはずだった。

 マッテゾンの考えを見抜ける者がいれば、彼の考えを「いかにもナチ的だ」と罵ったかもしれないが、彼から言わせてみれば、英仏を含めた連合諸国、加えてどちらの陣営にも属さないヨーロッパ諸国も人のことを言えた立場ではない。

 どの国家も多かれ少なかれ反ユダヤ主義的と言っていいだろう。

「そのうち進言したほうがいいな、これは」

 ぼろ小屋のような家よりはそちらのほうがだいぶんましだろう。

 なにより、こんな誰でも侵入できそうな家で少女がひとりで暮らすなど危なっかしいにも程がある。

 ブーツから足を抜いて、ソファに座り込んだまま目を閉じたマッテゾンは、そうして彼女の警護をかねてシェレンベルクの命令通り彼女の家に泊まり込む形となった。

 翌朝、早くから国家保安本部の主導による捜査が進められることになる。

 マリア・ハイドリヒ親衛隊少佐が狙われたということは、テロリスト――あるいは反体制分子の温床となる地下組織の存在があるはずだ。先日の総統官邸にゲシュタポが踏み込んだ一件で、首都ベルリンを中心に活動する地下組織に動揺が走ったのだろう。

 つまりそういうことだった。

 そして捜査の指揮をとったマリーが狙われた。

 簡単な図式だ。

 その昼過ぎ、会議室の一室に集まって、国家保安本部の高官たちはめいめい言葉を交わしていた。

「おそらく情報はすでに国外に漏れていると考えて良いかと思います」

 シェレンベルクの厳しい声音にネーベとミュラーが頷いた。

 同席しているのは他にもふたり。ブルーノ・シュトレッケンバッハとオットー・オーレンドルフだ。

「そうなるだろうな」

「問題はその情報をこちらでどう扱うか、です」

「ところで、先日の作戦の件も漏れた、ということはあるまい?」

 議事の進行をするシェレンベルクにシュトレッケンバッハが腕を組みながら神経質に問いかける。

 先日の作戦――。

「作戦に関しては慎重を期しておりますので、今のところ問題ないと認識しております」

「そうか」

 シュトレッケンバッハは言いながら頷いて、ネーベとミュラーを見やった。

「この襲撃により結果的にはベルリン市内の反体制分子を一掃するという大義名分が整いましたから、”彼女”が狙われることになったのも無駄ではなかったかと」

 オットー・オーレンドルフの冷静な発言に、普段こそ穏和な笑みをたたえているアルトゥール・ネーベは片眉を跳ね上げた。

「そうは言うが、オーレンドルフ少将。君は狙撃されたときの彼女を知らないからそんなことを言えるのだ」

 咎めるような口調になるネーベに、オーレンドルフが肩をすくめる。

「ハイドリヒ少佐が死んでも良い、とは言っていません。ただ、彼女が狙われたことが無駄にはならなかったと申し上げているだけです」

 オーレンドルフの指揮下ではないとは言え、優秀な情報将校を失うかも知れないという仮定に心穏やかでいられるわけがない。

「ただでさえ、アインザッツグルッペンの展開のために、三局と四局は人員を消耗しているのですから、そんなことを思うわけありません」

 行動部隊アインザッツグルッペンの指揮のために、国内諜報局と国家秘密警察(ゲシュタポ)局、そして刑事警察(クリポ)局は優秀な幹部将校を浪費させている。

 だからこそ、将来有望な士官に死ねと思うわけもない。

「一見して非力な彼女は、充分に役目を果たしています。本人の思惑はどうあれ、これは勲章ものと言えるんじゃありませんか?」

 皮肉げな音を乗せたオーレンドルフの言葉に、シュトレッケンバッハは目を細めたまま無言でうなり声を上げた。死にかけた士官に勲章もへったくれもないが、確かに彼女は自分が釣り餌となって地下組織という巨大な獲物をつり上げたようなものだった。

「ミュラー中将、それで摘発のほうはどうなっている?」

 シュトレッケンバッハに話しを振られたゲシュタポ・ミュラーはいかつい眼差しを一同に向けてから息を吐き出した。

「反体制分子と目されていたグループの摘発は進んでいます。もともと、そうと推察はされていましたが、逮捕するにはいささか根拠に乏しかったところですが、前回の総統官邸のテロ防止と今回の国家保安本部(RSHA)の将校に対する明らかな襲撃は、奴らを逮捕するための理由としては充分です」

 一網打尽にして、数日の訊問の後強制収容所に移送されることになるだろう。

「その指示はどこから?」

 報復は迅速に。相手が事態を把握する前に行動することこそ重要だ。

「我々です」

 事務的にミュラーがネーベを見やって、シュトレッケンバッハに応じると、シェレンベルクは会議の席に着いている国家保安本部幹部を見渡した。

「よろしい。では、なるべ”事”が長引かないように迅速に対処してもらいたい」

 シュトレッケンバッハの言葉に、ミュラーとネーベが頷いた。

「ところで、その後のご令嬢の様子は?」

 オーレンドルフが話しが一通りすんでからシェレンベルクに問いかけると、問いかけられた年若い青年は小さく首をすくめた。

「いつも通りですよ。ヨスト博士と一緒に先ほどはランチをしていましたね」

 つい先日殺されかけたというのに暢気なものだ。

 シェレンベルクの言外の台詞に、オットー・オーレンドルフが苦笑した。

「いやはや、なんとも肝の据わった娘だ」

 オーレンドルフの感想に、シェレンベルクは内心で首を傾げた。

 本当に、ただ「肝が据わっている」だけなのだろうか、と。

 にこやかな笑顔でハインツ・ヨストと一緒に食事をしていたマリーを思い出して、シェレンベルクは視線を泳がせた。

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