10 企図
「なるほど、ポール大将が……」
親衛隊全国指導者個人幕僚本部のヒムラーの執務室で事の顛末を説明されたヴァルター・シェレンベルクは、今ひとつ曖昧な態度を隠さずに相づちだけを打った。ラインハルト・ハイドリヒの指揮下で行動していたときから、シェレンベルクは親衛隊長官の弱気とも、事大主義的とも言えるヒムラーの本質を理解している。
おおよそ、シェレンベルクなどよりも数年は長く生きているはずのハインリヒ・ヒムラーではあるが、全く夢見がちな少年とも言える性格は、四十代の中年男には思えないものがある。とりあえずそんなヒムラーには星占いでも与えておけば良いとして、彼の部下として立ち働かなければならないシェレンベルクを含めた官僚たちのほうが星占いに頼っているというわけにもいきはしない。
運命とは……――。
女神が糸巻きで紡ぐものではなく、人間が自ら切り開いていくものだ。
強者が弱者を踏みつける。
それでいいのだ、とシェレンベルクは思っていたし、事実、シェレンベルク自身もこれまで弱者という虫けらを踏みつぶして生きてきたエリートだ。慈善家でもあるまいし、今さら青年は良心の呵責など感じない。
自らの人生の障害になるだろうものは、ラインハルト・ハイドリヒの指揮下に配属された時に大学の講堂に置いてきた。
正しく冷徹でなければ、諜報部員は生き残れない。
おそらく、と彼は考える。
戦争の成り行き次第で「祖国」さえも裏切ることになるかもしれない。しかし、そうしたサガの持ち主でなければ諜報部員は生き残ることなどできはしないだろう。
愛国心と共に祖国に沈むか、それとも、玉虫色に色彩を変えてどんな「世界」にあっても生き残る覚悟をするか。
ふたつにひとつだ。
ひとたび影の世界に踏み込んだが最後、生涯、その暗闇から逃れることなどありえない。
「わたしは企業家ではありませんので、ポール大将のお考えは図りかねます」
神妙な顔つきでそう言ったシェレンベルクに、ヒムラーはどこかホッとした様子で目尻をゆるませた。
ナチス親衛隊全国指導者――ハインリヒ・ヒムラー。その男は、どこまでも浅はかで、考えが足りない。侮蔑する一方で、そんなヒムラーに対してシェレンベルクは同情も感じた。
きっとヒムラーは政権首脳部の「誠意」と、自分の「秘められた才能」とやらを純粋に信じて居るかも知れない。けれどもそんなはずもないのだということを、他ならない諜報部員であり、諜報局長でもあるシェレンベルクは理解しすぎるほど理解している。
無知というものは、侮蔑さえ通り越して憐憫へと行き着いた。
上辺だけは謙遜した態度をとるヴァルター・シェレンベルクの真意に勘付くこともなく、鷹揚に頷いたヒムラーはきっと全ての事案に関する決定権を持っているとでも思っているのだろう。
「現在、コーカサスからの石油の輸送に関して協調路線を取ることは、我がドイツの国益にとっても重要なことであるし、国営企業だけではなく親衛隊経済部も利潤を得ることになっている」
得てして、愚かな者ほど難しい言葉を使いたがるものだ。
冷徹に装った仮面の下で、シェレンベルクは冷ややかにハインリヒ・ヒムラーを評価した。
わけのわからない難しい言葉で、専門的な話をすれば知的だとでも思っているのか。
言葉というのは相手の知能レベルに応じて自在に変えて然るべきだ。
「それは大変結構なことだと考えますが、計画の進行には支障はございませんか?」
ヒムラーやポールがどんな計画を立案しているのかなど、想像に難くない。方法としてはそれほど奇抜なものでもない。歴史を振り返れば多くの国家が実行してきたことだ。
せいぜい戦争捕虜などを含めた劣等と決めつけられた人々が強制労働に狩り出されるだけのことだろう。それほど遠くはない過去に、スターリンが率いたソビエト連邦政府も実施してきたことだった。
「労働力の”余剰”に、正直、ポール大将は手を焼いている。労働のあてがあれば、収容所の負担も減るだろう」
自分の手柄でもないというのに、誇らしげに顎を引いて胸をはったヒムラーは丸い眼鏡の向こう側から暗い光を閃かせた。
「そうですか」
ハインリヒ・ヒムラーが「こう」と決めた以上、しがない諜報部員でしかないヴァルター・シェレンベルクが口を差し挟むような内容ではない。
青年は心に固く誓っていた。
「知っていて」も、「知りすぎて」はならない。
踏み込みすぎては危険だ。
最後の瞬間まで、選択権を自分の側に引き寄せ続けなければならない。
どんなに信頼できる相手をも欺き、信頼を傾けてくれる相手をたばからなければ諜報部員は生き残ることができないのだから。ヒムラーは放っておけば人畜無害の男なのだが、少しばかりいい気になって浮つく嫌いが玉に瑕だった。
人間というものは分別をわきまえることこそが大切だと思うのだが、ヒムラーに限った話ではなく多くの者たちが自分の身の程を知る事ができないものだ。
良くも悪くも、エゴに捕らわれる。
それはもしくは人間らしさとも言えるのだろうが、この終局を迎えつつある戦時にあってそうした資質は決して褒められる類のものではない。シェレンベルクがそれ以上、ポールの計画を追及してこないことをヒムラーは不満に思ったらしいが、自尊心ばかり強い親衛隊全国指導者は、小心者らしく自己主張すらままならないのだ。
「それで、シェレンベルク少将。フランスでなにか手がかりをつかめたかね?」
シェレンベルクは観光旅行でフランスに行っていたわけではない。
英米仏連合の動向に関する情報の収集が彼の任務だった。
「ヨーロッパ大陸を離れずに、情報を収拾するのは困難を極めましたが必要な情報は集まったように思います」
核心的なところにシェレンベルクは触れなかった。
どうせヒムラー程度の知能では、シェレンベルクの言う内容を半分も理解することなどできはしないだろう。程度の低い人間には、相応の情報を選別して与えてやればいい。そして重要な情報は、それを理解できる人間にだけ提供すればいいのだ。
たとえばそれは国防軍情報部のヴィルヘルム・カナリスであり、陸軍参謀本部のラインハルト・ゲーレンであり、ウルリッヒ・リスでもある。
ドイツ第三帝国は、アメリカ合衆国の動向を知らなければならない。
事実上、ソビエト連邦を戦争の後に下し、イギリスと矛を交わすためにはアメリカの動きは情報部としては把握しておかなければならない現実だった。
「アメリカは、なにを企んでいる?」
「天然痘の発生によって、アメリカは作戦行動に関して確実に及び腰になっております。イギリス陸軍の軍事機密の漏洩には細心の注意を払っているものと思われます。ロンメル元帥の作戦行動に深く関与するところもございますので、陸軍とも緊密な連携を持つことが重要かと」
シェレンベルクは思わせぶりな物言いをしてヒムラーをはぐらかす。
「そうか、フランスではマキの襲撃にもあったと聞いている。危険なところをご苦労だった」
執務机の上の報告書のファイルを軽くてのひらでたたいてから、ヒムラーは納得した様子で首をすくめた。
数日前にはすでにドイツに帰国していたのだが、軽く口頭で報告しただけで本格的な報告書の作成には数日を要した。その間に、ヴェルナー・ベストとハインツ・ヨストによって決済されていた国外諜報局の業務報告を受けて、全ての内容に目を通す作業で何時間もかかってしまった。元人事局長と元国外諜報局長の生真面目さでまとめられた報告は簡潔で要点を踏まえていた。膨大な報告書の山ではあったが、これがベストとヨストのふたり以外によってまとめられたものであれば、その解読にもっと労力を要したかも知れない。
ひとりで納得したヒムラーと他愛のない言葉を交わしてから、そうしてシェレンベルクは親衛隊全国指導者個人幕僚本部を後にした。
*
「お帰りなさい!」
それからいつものようにプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに位置する国家保安本部に帰ってきたシェレンベルクは、エントランスに置かれた椅子に腰を下ろして待ち構えていたらしい金髪の少女に気軽な声をかけられて首を回す。
「……――あぁ、ただいま」
またサボりか、と言いかけて腕時計を見やったシェレンベルクは丁度、昼時であることを察して数秒、視線を彷徨わせた。別に彼女を相手に躊躇するようなことはなにもないのだが、いつもと同じ諜報部員の慎重さでそれとはなしに言葉を選ぶ。
「少しはゆっくりできた?」
彼女はいつも「こう」だ。
他の人間には礼儀を払うが、どうにもシェレンベルクとカナリスを相手にしているときだけは、気易い言葉をボールのように投げ返した。
「君に心配されるほど”やわ”じゃない」
「知っているわ」
国家保安本部に所属する者で、事務員や秘書たちを含めてみてもマリーほど貧弱な娘はいないだろう。
「わたしだって自分が体力がないことくらい知っているわ。でも、わたしにはわかるのよ?」
ひょこりと椅子から勢いよく飛び降りて、少女は金色のポニーテールを揺らすとシェレンベルクの腕に縋り付いて、青年の瞳を覗き込んだ。
なにもかもを見透かしてしまうかのような青い瞳。
「”あなた”だって不老不死じゃないわ」
「そんなことはわかっている」
素っ気なくマリーの言葉に応じながらシェレンベルクは彼女の青い瞳から視線を引きはがすと、目の前の廊下をまっすぐに見つめ直すと片手に提げた皮のカバンを持ち直した。
自分の体とは三十三年にも及ぶつきあいだ。
弱点となるところは誰よりも理解しているつもりだ。
友人の医師からはアルコールが体に負担をかけると聞いていたから、つきあい上最低限の飲酒以外はすっかり控えて今に至る。
おそらく自分はいずれ肝臓を致命的に患うことになるだろう。
死そのものが恐ろしいとは思わないが、じわじわと絞め殺されるような苦痛を味わうことになるのはまっぴらだった。
「大人って不便ね」
シェレンベルクの複雑な思いなど、知った事ではないとでも言いたげにマリーは背中で両手の指を組み合わせて大股にゆっくりと歩を進めた。傍目には、なにやらからくり人形が歩いているようにも見えてほほえましく見えた。
「君が考えなしなだけだろう」
「わたしは、なんにも考えなくていいの」
「……――?」
「そう決まっているの」
マリーはかすかに口角を引き上げると静かに微笑した。
「……そう決められたの」
まるで自分の運命さえも誰かに決められたものであるとでも言うかのように、マリーは言った。
もっとも、どうにも緊張感に欠けるのは彼女の性質故なのかもしれない。




