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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXVIII Nunc dimittis
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7 隙間に生きるもの

 どれだけうなったところで答えなど出はしない。

 そんなことは、さすがにヒムラーにもわかっているし考えなければならないことはたくさんあるのだが、そんな彼の判断の前には多くの困難が立ちふさがった。もちろん、ヒムラーが困難だと考えているものの多くは、ナチス親衛隊の高官たちが耳にすれば一笑に付するようなくだらないものだが、そんな事実をヒムラーは理解していない。

 ハインリヒ・ヒムラーという男にとっては、自らの決断がどれだけ重大な結果を招くこともわかっていたから決断は慎重にならざるを得なかった。

 世間的な無知故に、彼は多すぎる情報の取捨選択ができずに、逆にそれらに振り回される。そんな自分の生まれ持った臆病な性質を疎ましく思いもするのだが、自身を疎んじたところで名だたる官僚たちのように優秀な人間になれるわけでもなければ、決断力に優れた勇敢な将軍になれるわけでもない。

 ヒムラーにできることと言えば、せいぜいストレスで痛む胃をなだめながらナチス親衛隊を束ねることくらいだ。

 ラインハルト・ハイドリヒという片腕を失って、ヒムラーはそれを実感させられた。

 誰もヒムラーという「無能な凡人」を必要とはしない。

 彼らが必要としているものはただ「権力」だけだ。

 頭を抱えたヒムラーが熟考したところで、圧倒的に社会経験の不足している彼には答えなど出るわけもない。ヒムラー自身が社会経験だと考えているそれは、エリート社会の過激な競争を勝ち抜いてきた者たちにとってみれば取るに足りないものだ。

 何度目かの大きな溜め息をついてから、結局、思考の巨大な迷路にはまりこんでしまったヒムラーは「解決」の糸口すら見いだせずに顔を上げるしかできずに座っていたソファの肘掛けに肘をついて眉間にしわを寄せると黙り込んだ。

 劣等感を感じるのは、自ら束ねるエリートたちに完敗していると自覚しているからだ。

 余り好きではないと自覚してもいる、国家保安本部の国内諜報局長を務める経済学者――オットー・オーレンドルフもそうであるように。

 オーレンドルフの辛辣な性質を好きになれずにはいられないと自覚していても尚、誰よりも優れたオーレンドルフを切り捨てる決断をできないままだ。

 感情の好悪からではなく、組織の頂点に立つ者は個人の感情とは隔てられなければならない。

 たとえば軍の高官たちとヒトラーがうまくいかないように。国家元首でもあるアドルフ・ヒトラーが個人の感情と、国政とは区別して考えているではないか。

 いや、ヒトラーと自分などを同じレベルで考えることがそもそも間違っているのだ。傍目にはわりとどうでも良いことで悩んでいるヒムラーは、ノックの音が聞こえて着て顔を上げた。

「入りたまえ」

「失礼します、長官」

 親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官を務めるカール・ヴォルフ大将の姿に、ヒムラーは瞳にわずかな光を閃かせてから表情を改める。

「総統閣下の”御前会議”はご苦労だった」

 規則正しい生活を送るヒムラーなどとはひどい違いだ。

 別段、国家元首の朝が遅いこともあるかもしれないということは、咎められる事態ではない、とカール・ヴォルフは考えているが、これが日に日に遅くなると言うのであれば、それはそれで問題にしかならない。

「いえ、そうでもありません。長官」

 首をすくめた幕僚長に、ヒムラーは不審げな眼差しで小首を傾げた。

「……というと?」

「最近では、すっかりへそを曲げたマリーが毎日、出勤前に総統閣下をたたき起こしてくれているそうですので、わたしとしても業務が滞って助かっております」

 何食わぬ顔で言い放ったヴォルフに、小市民的なヒムラーは口にしていた代用コーヒーにむせかえって盛大に咳を繰り返す。

「総統閣下も仕方がないから彼女につきあってやっているのだとか」

「ふぅむ」

 へそを曲げたマリーは形式的にはナチス親衛隊の隊員でしかないからともかくとして、アドルフ・ヒトラーの怒りを被れば生きては帰れないというのはドイツの常識だ。そんな常識も知ったことではないと言った様子の彼女の突飛な行動にヒムラーは閉口した。

「そのうち総統閣下が”狼の砦(ヴォルフスシャンツェ)”に逃げ出しかねない勢いですが」

 ヒトラーの健康状態が余り好ましくないことは、側近たちの中ではよく知られていることだ。少女が来訪すると言うことで病身を押してまで応対するヒトラーの健康状態をヒムラーは気に病んだのだが、その問題についてカール・ヴォルフに伝えることもできなかったし、マリーに言うことなど言語道断であることはさすがのヒムラーもよくわかっている。

 だからお茶を濁したようなうなり声しか出せないのは、ある意味やむを得ない。

 戦争を指揮する国家元首が、病身を引きずっているというのでは民心を率いる手前都合が悪かった。

「ただ、この問題で余り良い顔をしていないのがあのモレル医師ですから」

 アドルフ・ヒトラーの主治医を務める側近のひとり――テオドール・モレル。

 その名前にヒムラーも眉をひそめた。

 モレルがマリーに対して良い印象を持たないことはわからなくもないが、その辺りについてはヒムラーもモレルに対して良い印象がなかった。

 正直に言えば、ハインリヒ・ヒムラー程度の男から見ても、モレルの経歴はなんとも表現のしようのない微妙なものだとしか言うことができない。

 特にヒムラーの場合、ごく近いところに幼なじみのカール・ゲープハルト医師がいるからなおさらだ。

 ゲープハルトは予防医学の権威だ。

 少なくともヒムラーはそう信じて疑っていない。

「モレルか……」

 噂に聞けば政府首脳部にごく近い人間たちにも怪しげな薬を盛って、ヒトラーの主治医であるというだけの理由で多大な恩恵を受けている。

 どこまでがモレルの功績なのかすら、もはやわからないではないか。

「ヴォルフ大将、マリーにはそれとなく行動に配慮するように伝えたまえ」

「承知致しました」

 マリーを……。

 ラインハルト・ハイドリヒを、再び失うようなことがあってはならない。

 だから儚い彼女を守るのだと固く誓った。



  *

 プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセにある国家保安本部のゲープハルトの執務室にヒムラーが足を運んだのはそれから数時間してからだ。

 昼を過ぎて友人の診察室とも、執務室とも呼べる余り広くはない部屋を訪れたヒムラーは、さっと形式ばかりのナチス式の敬礼をした医学博士に目尻をおろした。

 この”優秀な”医師の前では、ハインリヒ・ヒムラーという男はいつも愚か者の親友に成り下がるのだ。

「今日はどういう気まぐれかな? ハイニー?」

 親しげに問いかけられて、ヒムラーは苦笑した。

「やぁ、元気そうでなによりだ。カール」

 皮肉げな、とも言えなくもないカール・ゲープハルトの言葉を混ぜ返すように、言葉を投げかけて見せてからヒムラーはそれほど広くない室内に置かれたソファに腰を下ろした。

 一応、狭いなりにそこは親衛隊医師の城のようだ。

 医師会の会報やら、論文やらが積み上げられたデスクの上に、何冊かのカルテが一緒くたになって置かれている。

 人心地ついたように、ほっと吐息を漏らしながら室内を見渡したヒムラーは、自分の目の前にゲープハルトが腰を下ろしたのを確認してからぼそぼそと蚊の泣くような声で話し出した。

 元来、ヒムラーはヨーゼフ・ゲッベルスや、ヒトラーのように演説を得意としているわけではない。どちらかと言えば、演説や人前で話すことは苦手な部類だ。

 父親のヨーゼフ・ヒムラーは教師として名高いが、ハインリヒ・ヒムラー自身はそんな父親の資質を全く受け継がなかったと言ってもいいだろう。

 なにをするにも落ちこぼれだった。

 まぁ、それなりに歴史の授業は好きだったが、特に教師になりたいと思ったこともない。

 ヒムラーにしてみれば、どんなに身内として名誉に預かろうと父親は凡人に過ぎず特別にカリスマ敵と言うわけでもない。

 身近な人物に対する評価というものは得てしてそんなものだ。

 思わせぶりに黙り込んだヒムラーはややしてから、思い切った様子でずばりと核心へと切り込んだ。ヒムラーの思いつきとも言える言動にカール・ゲープハルトは決して落胆をすることもなかった。思いやる様子すら見せてゲープハルトは慎重であることを選択する。

 思考した事柄をそのまま口にすることが、現在のドイツでどれだけ危険なことであるのかは、ゲープハルトは熟知している。へたをすれば、狩られる側になるのは自分になるということも。

 その危険性。

「モレルを監視してほしい、カール」

「……モレルを?」

 突然ヒムラーの口から飛び出した言葉に耳を疑った。

 いくらナチス親衛隊の長官の幼なじみという特権的立場を得ていると言っても、それとこれとは話が違う。

 テオドール・モレルを敵に回すと言うことはひどく厄介だ。

「もちろん、わたしの全ての権力をもってカールを支援する」

 まるで説得するような強さで言葉を綴るヒムラーに、ゲープハルトは困惑した。

 ヒムラーの「権力」とやらが飾りであるということはよくわかっている。

 彼の権力は、その裾野に広がる官僚機構によって支えられているのだ。だから、仮にヒムラーがゲープハルトの権力を全面的に肯定したとしても、ヒムラーの部下である官僚たちが従わなければ同じ事だ。

 大きな危険が伴う要求に、ゲープハルトは押し黙る。

「モレルが藪医者ではなかろうかというのは、我々の世界でも公然の秘密だがあの男の背後には総統閣下が鎮座しておられる。そんな男を、わたしの権力で監視しろと言うのは無謀な話ではないか?」

 冷静なゲープハルトの指摘に、ヒムラーが弱り切った表情を浮かべる。

 ヒムラーにとって信頼できる人間が少ないことはゲープハルトも長いつきあいで知っているのだ。しかし、それでも妥協することのできない点というものも存在している。

 テオドール・モレルの医師としての技術に疑いを抱くのはなにも、同業者たちだけではない。一部の門外漢の政治家や官僚たちも彼に疑いの視線を向けていた。

 モレルは本当にアドルフ・ヒトラーが信頼に値する名医なのか。

「だが、公然とモレルを批判すれば我々の首が飛ぶ」

 冷静に、そして慎重に、ゲープハルトは言葉を選んだ。

 ナチス親衛隊という世界で生きていくためには、立ち居振る舞いが問題になる。それは幼なじみであるという理由だけで許されるものではない。

「……ハイニー、君はそれを承知でわたしに首を賭けろと言うのか?」

 首だけではない。

 命を捧げろ、とヒムラーは暗にゲープハルトに告げているのだ。

 人というものは、余程のことがあってもせいぜい友人程度の間柄の相手なぞに命を預けることなどできるわけもない。

「もしも、モレルが稀代の犯罪者であれば、”我々”は警察関係者として首を賭ける責務があると言っているのだ」

 応じるヒムラーの声が緊張で震えた。

 じわりと額に浮かび上がるのは脂汗だ。

 彼は批難されることに極度の恐怖心を抱いている。

 だから重要なときに重要な決断を下せない。

「つまり、ハイニー。君も命を賭ける覚悟をしているのか、と聞いているのだ」

「……もちろん」

 その声がかすれた。

 小心者の「ライヒス・ハイニー」が、心の痛みを感じながらも率直な意見を言葉にできる相手はそれほど多くない。

 ヒトラーだけではなく、ゲーリングにもゲッベルスにも、リッベントロップにすらこの有様だ。

「もちろん、わたしだって……」

 胃が痙攣するように痛んでヒムラーは顔をしかめた。

「どうせ、君が気を病んでいるのは”彼女”が総統閣下をたたき起こしに行ってる事案だろう。モレルは自分の領域で他人が活動することを嫌う男だからな。あわよくば政界に進出しようと企んでいるとも聞いているし、あの藪医者がドイツを崩壊に導こうというのであれば考えなくもない」

「カールしかいないんだ……」

 心を砕いて相談できる相手は、ヒムラーにとってカール・ゲープハルトと主治医のフェリックス・ケルステンしかいない。

「彼女を助けてくれ……」

 頼む……――。

 

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