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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXVIII Nunc dimittis
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6 地獄の沙汰も金次第

 高等教育も受けていない少女など、取るに足らない存在だと思っていた。

 自分の執務室から出て行った彼女を見送ったシュペーアは、どこか呆然としたままで机に両手をついたままで立ち尽くす。

 もちろん、その印象は今でも変わらない。

 世間を知らない彼女よりも、知的な者など彼女の周りには山ほどいる。そんな知識人たちの多くがナチス親衛隊に所属していることについては、眉をひそめるところもありはするが、そんなことに今さら「文句」を連ねたところでなにもはじまらないというものだ。

 往々にして多くの人々が誤解しがちなのは、シュペーアが権力の側に立っていると思っていることだ。それは、ナチス親衛隊経済管理本部のオズヴァルト・ポールにしろ、労働力配置総監のフリッツ・ザウケルにしたところで同じことだ。彼らには根本的な「現実」が見えていない。もしかしたら「見ようと」していないのかもしれない。そんなことをアルベルト・シュペーアはちらりと考えた。

 もっともシュペーアが知ったような顔でポールとザウケルの思考停止については、素知らぬふりを決め込む事ができないことも理解していた。それでも尚、その認識を広言することについては大きな危険を伴った。

 正直な気持ちを言えば、自分と、自分が感知する以上の人間に価値を抱く者などそれほど多いはずがない。政府首脳部の人間もそうだし、もちろんシュペーアもそうだ。

 知らない以上の人間たちなど、現実感の伴わない「その他大勢」でしかありえないのである。

 政治には奇麗事も必要だ。

 体面を保つ必要にも迫られる。

 しかしその裏側では、政治家同士が国家の内外にかかわらず互いに自ら主導権を握るための駆け引きに興じている。

 そんな世界から無縁でいたかった。

 ただの建築家でありたかった。

 シュペーアが望んだのは、たったそれだけのことでしかない。けれども「時代」というものは残酷だ。

 ――いつまでも、「無邪気な子供」のままではいられない。好むと好まざるとに関わらず、人々は「時代」という巨大な潮流の中へと捕らわれる。

 ややしてからそんなことに思い至ったシュペーアは、体から力が抜けたように椅子に座り込むと、両手の平で自分の顔を覆い隠した。

 彼女に羨望じみた感情を感じてしまうのは、きっと彼女が彼の「理想の」子供だからに他ならない。

 自分の欲望に忠実で、自分の感情を偽らない。そして、年齢に似合わず純真だ。そんな彼女の透明な純真さは、ささくれた男たちの心にするりと音もなく忍び込んで知らないうちに虜にする。

「……危険すぎる」

 ぽつりとシュペーアは独白した。

 彼女の存在そのものが大きなリスクを伴っていることを、シュペーアは感じ取っていた。ともすれば、それはシュペーア自身の進退にも影響を及ぼすことになるだろう。どこに向かって進めばいいのかもわかっていて、ためらいを突き放すことができないのは、まだシュペーアに人間的な倫理観が残っていたからだろう。

 なによりも危険なのは、あの金髪の少女がナチス親衛隊の牛耳る国家保安本部(RSHA)側に在籍していることだ。彼女の存在価値はともかく、国家保安本部長官のエルンスト・カルテンブルンナーと秘密警察の指揮官を務めるふたりの警察局長、ハインリヒ・ミュラーとアルトゥール・ネーベが監視の目を光らせていることがなにより厄介な状況にさせていた。

 彼女は平凡な少女に過ぎないというのに、どこまでも取るに足りないことと切り捨てることもできはしない。

 深い溜め息をついたアルベルト・シュペーアは、不愉快げな表情をたたえたものの結局、それ以上の行動には及ばずに自分の仕事に戻ることにした。

 ナチス親衛隊のオズヴァルト・ポールではないが、問題は山積みだ。



  *

「これはどうも、長官閣下」

 経済管理本部に戻った途端目に飛び込んできたふたりの人間にさっと表情を改めるとナチス式の敬礼をした。もちろん、オズヴァルト・ポールが敬礼をしたのはふたりのうちのひとりに対してだけだ。

 ナチス親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーと、ナチス親衛隊全国指導者個人幕僚本部長官を務めるカール・ヴォルフ親衛隊大将である。

 社会活動のためになんらかの有益な活動をしているわけでもないヒムラーの幕僚部だ。

 言い方を変えれば、ヒムラーの頭脳と言っても過言ではないはずなのだが、ポールの見るところ、ヴォルフの親衛隊個人幕僚部はハイドリヒが――カルテンブルンナーの、ではなく――まとめ上げた国家保安本部と比較してもどこまでも無能でただの金食い虫以外のなにものでもなかった。

 もちろん社会経験の豊富な実業家でもあるポールは、感情ではなく実務をとって内心の侮蔑などおくびにもださなかった。

「作業所の作業効率が上がっていると聞いている、ポール大将」

「はい、閣下」

 いつだったか、アウシュヴィッツ強制収容所における物資選別所の任務に当たる女性収容者たちを優遇することは「労働力の無駄」ではないかと国家保安本部から通達を受けて一部の業務の囚人たちの入れ替えを実施した。

 同時期に刑事警察(クリポ)による強制労働収容所の親衛隊員の不正の摘発も行われたことから、国庫、あるいはナチス親衛隊の経済部に報告されるべきはずの膨大な資産が再整理されることとなり、こうした諸々の事情から昨年暮れから新年にかけて財政事情は大幅に改善を受けた。

「国家保安本部の連中は、口うるさい無能ばかりかと思っておりましたが」

 冷ややかなポールの言葉に、ぎろりとカール・ヴォルフが視線を走らせた。当然、ヴォルフは政敵とも呼べる国家保安本部を今さら擁護するつもりなどかけらもない。そうではなく、オズヴァルト・ポールの言葉が単純に不愉快だっただけだ。

 摘発にあたった刑事警察――国家保安本部が無能呼ばわりされるのであれば、その横領の実態を産みだし、それを把握することもできなかったポールの責任でもあるはずだ。それを自ら棚に上げてよくもまぁ、国家保安本部を批難することなどできるものだ。

「人は楽をすることに慣れるものだからな」

 そんなヴォルフの考えをよそにハインリヒ・ヒムラーは嘆かわしげにそう呟いた。

 清貧を絵に描いたようなヒムラーだが、昨年から今年のはじめにかけて発生したマルティン・ボルマンとの政争では、さらに潔癖症に磨きがかかったようにも感じられる。

 元々そうした傾向の強いヒムラーだったから、彼に注視していない者たちからしてみれば一見しただけではひどく理解しがたいところもあっただろう。

 ――人の真価は外見にあらず。

 それがヒムラーのモットーだ。

 かつて、ナチス親衛隊の台頭期にあって、ナチス突撃隊とレームの影にひっそりと身を隠していた時と同じように。

 ヒムラーの真価は、決して目立たないところにこそ存在している。

「そんな思いまでして贅沢をしたいものなのか、わたしにはさっぱり理解しかねるがね」

 そのあたりについてはどう考えるかね?

 真面目くさった様子でソファに腰をかけたヒムラーが問いかけると、ポールは数秒ほど考える振りをしてから口元をゆるませると苦笑した。

「戦争がはじまる前の看取の質と、戦争がはじまってからの看取の質は異なりますからな。わたしにはなんとも」

 武装親衛隊、第三SS装甲師団「髑髏(トーテンコップフ)」を束ねるテオドール・アイケがたたき上げた荒くれ部隊。彼らは武装親衛隊の二流部隊と侮蔑を受けながら、確かに勇猛果敢なエリート部隊へと成長を遂げた。

 第三SS師団のほとんどが強制収容所の看取たちであったなどとは考えられないほどに。

 そして現在の強制収容所の看取たちと、その質は大きく異なっているということも強制収容所総監のリヒャルト・グリュックスだけではなく、経済管理本部長官のポールも自覚するところだった。

 傍若無人なテオドール・アイケの人間としての資質に対してはともかく、アイケという男の人間性は確かに強烈なインパクトを持って強制収容所の頂点に君臨していた。

 現在、経済管理本部にあってアイケのようなカリスマは、存在しない。

 そういうことだ。

「しかし、戦況が戦況だ。わたしとしてもアイケ大将を戻すことには賛同しない」

 テオドール・アイケの鍛え上げた収容所の看取たちは、言わば看取のエリートだ。国家保安本部にあってラインハルト・ハイドリヒという男が指揮統率してきたように、強制収容所ではテオドール・アイケが君臨して統率してきた。

 その役目はリヒャルト・グリュックスなどという小物には重すぎた。

「とはいえ、今さらアイケ大将もたかが強制収容所の管理官などという器に戻りたいとは思いますまい」

「それもそうだが」

 ポールに指摘されて、ハインリヒ・ヒムラーは首をすくめた。

 社会――世界は、時として類い稀なカリスマを誕生させるものだ。

 たとえば国家元首アドルフ・ヒトラー然り、国家保安本部のラインハルト・ハイドリヒ然り、そしてテオドール・アイケも同様だ。

 全くヒムラーがあきれかえるほど、彼らはカリスマの塊だった。

 影が薄く、存在感のない自分とは大違いだ。

 内心で自嘲したヒムラーだが、口にしたのはそんな身も蓋もない実りのない言葉ではない。

 自分自身が影が薄かろうが、存在感が皆無だろうがナチス親衛隊の長官としてやらなければならないことはあるし、下さなければならない決定もある。

「ところで、経済活動についてシュペーア大臣と労働力配置総監のザウケルの奴に会ったと聞いたが、どうだったかね?」

 わたしは経済については全くの素人だから。

 そう付け足したヒムラーにポールは鼻白んだ。

 そもそもヒムラーの「専門分野」など存在しているかどうかも怪しいものだ。

 オズヴァルト・ポールが見るところ、ハインリヒ・ヒムラーは政治家としての資質すら疑わしい。とはいえ、そんなヒムラーが無能であることを良い事に、うまいこと担ぎ上げたのはポールやハイドリヒと言ったナチス親衛隊の首脳部だったから、あえてヒムラーの資質を問うような愚は犯さない。

 あくまでもポールが守るべきものは、自らの権力だ。

「それに関してましては……」

 ポールはヒムラーの横に控えるカール・ヴォルフの様子を観察しながら、慎重に話題を切り替えた。

 ナチス親衛隊は決して一枚岩ではない。

 ハインリヒ・ヒムラーの下で、覇権を握るべく数多くの組織がしのぎを削る。だからこそ親衛隊全国指導者個人幕僚本部などに先手を取られるわけにはいかなかった。

 常にポールの率いる経済管理本部が実権を握らなければならない。

 そして経済管理本部が実権を握ると言うことは、そのまま警察権力と武装組織とを指揮下に有すると言うことでもある。

 資金がなければ、組織は最初から成り立たない。

「コーカサスの油田地帯からの輸送の問題が未だに解決していないということで……」

「ふむ」

 言葉を選びながら様子を窺ったポールに、ヒムラーは相づちだけを打って頷いた。絶対にわかっていないだろう、と経済管理本部長官は考えるが口には出さない。

「しかしソ連との戦争に勝ってからもう半年だ。早急に石油の輸送手段は確立せねばなるまいな」

 もっともらしく呟いたヒムラーにポールは視線だけを閃かせた。

 どうせヒムラーの発言など取るに足りない。

 計画の立案も、その内約もわかってはいないのだ。簡単に言えばヒムラーの発言など聞くだけ無駄なのだが、一応、親衛隊長官という立場を有している以上、ポールはヒムラーの存在を無視できない。

「親衛隊からも人を出してはどうか?」

「出すといってもどこから出すのです? 閣下」

「……――うーむ」

 国家元首と同じで、ヒムラーにも「思いつき」で発言するような空気がある。

 淡々と指摘したポールに、腕を組んだままヒムラーは低くうなり声を上げてから首を傾げた。

「では、収容所の余剰労働力を軍需省に回してはどうか」

「各作業所の能率低下を招くようなことは提携する企業との信頼も関係する以上賛同致しかねますが……」

「そうだな、確かにわたしがしゃしゃりでて今、決めなければならない問題でもない。軍需省とは緊密な連携を図り問題を再検討しよう」

 余計な口を差し挟むな。

 ポールは思わず眉間にしわを寄せたがそれだけだった。

 ど素人のヒムラーが口を出すと、大概ろくな事にならないのだ。

 そもそもハイドリヒの国家保安本部や、アイケの強制収容所との対立構造も、ヒムラーの優柔不断によるところが多いことを考えると、親衛隊長官の「思いつき」など、正直全くありがたくもないのだった。

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