3 霞む世界
「こんにちは? バムラー少将」
気易い少女の声に話しかけられて、ルドルフ・バムラーはギョッとした様子で肩を揺らしてから首を回した。
そこは国家保安本部の政治の中心。
中央記録所。
ナチス親衛隊の組織であり、国家保安本部だからといって女性の存在が皆無であるというわけではない。ゲシュタポに所属する女性捜査官もいれば、女性諜報部員も存在するし事務員もいれば秘書もいる。だからことさら女性であると言うだけで特異な存在だというわけでもない。
けれども。
「……これは、どういうことだね?」
驚きの余り声がひっくり返った。なんとかそれをごまかそうとして浮かんでもいない額の汗を拭ってからバムラーは深く呼吸をしてから表情を改める。
カードの管理室には誰もいない。
がらんとした広い事務室の片隅にあるソファの背に腕を乗せて少女がぴょこりと頭をもたげた。
「国家保安本部」という特殊な組織にあって、余りにも場違いな年齢の少女は、もしかしたら少女ではないのかも知れない、などと埒もないことをバムラーは考えたが、一瞬で自分の馬鹿な考えを否定してからかぶりを振った。
「カルテンブルンナー博士が、誰もいないほうが動きやすいだろうって、事務員を一時的に全員退室させてくれたんですよ」
軽やかに響いた少女の声に、ルドルフ・バムラーが視線をさまよわせてから眉をひそめた。
彼女の言っている言葉の意味が「わからない」。
そもそも、バムラーは自分がナチス党員であるということも。そして誰よりもナチス党の支持者であると言うことと、政権派の国防軍人であると言うことと、さらに国家保安本部を含めたナチス親衛隊の指導者――ハインリヒ・ヒムラーからも信頼を勝ち得ているという自信があった。
そんなバムラーだったから、ナチス親衛隊の視線などまるで気に掛けてもいなければ、邪推などするわけもない。
「……なにが言いたい」
低く脅しつけるように告げたバムラーに少女が口元に手を当ててクスクスと笑うと、そうしてから、ソファの背に両腕を預けて寄りかかると小首を傾げて金色の長い髪を揺らした。
まるでアイロンでもかけたようにまっすぐな髪が、絹糸のように揺れるのが印象的だ。
「そもそもわたしは”裏切り者”ではないし、だいたい君はこんなところでなにをしている。それに、君は今国家保安本部長官閣下のことを気易く呼んだがそんな無礼なことが世の中まかり通ると思っているのかね?」
つらつらとよどみのない言葉を投げかけられて、少女は青い瞳をぱちりとまたたかせてからいたずらでも思いついた子供のような表情になった。
「わたし、別に少将閣下が裏切り者だなんて言ってませんよ?」
――でも、まぁ、裏切り者ではあるんでしょうけどね。
聞き取りにくい声でそう付け足してから、金色の髪の青い瞳の少女はソファの背もたれに寄りかかったまま身を乗り出すと、思わず怒鳴りつけそうな勢いで口を開きかけた中年の将校を覗き込んだ。
「それに、わたしがカルテンブルンナー博士のことをなんて呼んでたってあなたに関係のないことですし、わたしがどこの馬の骨だって陸軍のバムラー少将にはそれも関係のないことなんじゃないですか? どうせ人間なんて自分の”認知する世界”以外のことなんて関心ないんですもの」
子供らしい無邪気さでそう言い放ってから、改めてバムラーを見つめるとにっこりと口角をつり上げてから明るく笑った。
「わたしにはわたしの。そして少将閣下には少将閣下の世界があるじゃない?」
たったそれだけのこと。
まるで禅問答でもしているような気分に陥りかけてルドルフ・バムラーは、改めて少女の不作法な物言いに両目をつり上げる。
彼女にはバムラーの身につける制服が見えていないのだろうか? そして、彼の身につけた制服の階級章の意味がわかっていないのだろうか?
真面目に彼女の言葉に応対しようとしてから、その馬鹿馬鹿しさに我に返ると腕を組んで唇をへの字に曲げた。
「君は軍人が恐ろしくはないのかね?」
「別に恐くないわ。だって、グデーリアン上級大将も、ハルダー元帥も、ベックさんもみんな優しいもの。それに軍人さんだって同じ人間でしょ? どうしてわたしに恐いことをするわけでもないのに、”わたしが”、同じ人間を怖がらないといけないの?」
少女の口から飛び出したのは、国防軍の重鎮とも呼ばれる名将たちだ。
「カイテル元帥も、レーダー元帥も」
バムラーが彼女の発言に仰天して言葉を失っていると、少女はさらに無邪気に追い打ちをかけるが、現実感のない言葉にバムラーには内容と発言の理解が追いつかない。
閉口して瞠目するバムラーに、少女は首を傾げてから頬杖をついて考え込んだ。
「でも、わざわざ自分からそんなこと言ってくれるなんて、後ろめたいことでもあるんですか?」
マリーがにこやかにそう言い放った。
「……後ろめたいことなどあるわけがない」
彼女の確信を突く台詞に、バムラーが険しい表情のままで苦り切った様子で否定してみせると、青い瞳を閃かせた少女は天井に視線を上げてから声もなく笑っただけだった。
「……わたしはここの捜査資料の閲覧を許可されている。無関係な者は出ていきたまえ」
気を取り直してそう告げたバムラーに、少女は右手の人差し指を上げるとちゃらりと金属と金属のぶつかる音を響かせて、鍵束を指先で回して見せた。
「わたし、バムラー少将にこれを渡そうと思って待ってたのに」
中央記録所――その情報管理室に通じる扉の鍵だ。
「……どういうことだ」
君は何者だ――。
プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセにある国家保安本部は決して女子供の遊び場などではない。そもそも凡庸な一般市民など、その中枢である国家保安本部のオフィスにも、中央記録所にも出入りすることなどできはしないはずだ。
だというのに目の前に座る少女はなんでもないことのように、バムラーに現実を突きつけた。
国防軍情報部の長官、ヴィルヘルム・カナリス海軍大将からの信任が薄いことも理解している一方で、情報将校の一人として名前を連ねるバムラーはそれなりに事態を把握しようとして状況を整理する。
バムラーのそんな困惑を前にしても、特別に気負う様子も見せずに少女はソファにくたりと寄りかかっていたずらっぽくほほえんだ。
「”裏切り”には気をつけた方がいいですよ」
「何が言いたいのだと聞いているのだ!」
「あら、わからないですか?」
まぁ、別にいいですけど。
のらりくらりとバムラーの言葉をやり過ごしてでもいるかのような子供の姿に、やがて男は激昂して怒鳴りつけるが、それもそれで効果がない。
「敵の敵は味方だ、とか思っていると足元をすくわれるのはわたしよりも少将なんじゃないんですかって思うんですけど。別に、わたしには個人として少将閣下が自滅しようがなにしようが関係ありませんし」
「わたしを侮辱しているのか……」
低くうなり声をあげるように少女に言葉を放つものの、そんなバムラーの様子もどこ吹く風といった金髪の彼女はソファから立ち上がると彼に歩み寄って来てその手のひらの中に、鍵束を押しつけた。
「侮辱だなんてとんでもない」
身長の低い少女は、下から男の瞳を大きな青い瞳で覗き込むようにして凝視した。
「ただ、普通の人が出しゃばるとろくなことにならないって言いたいだけです」
子供ゆえに大人の世界の道理を知らない。
容赦のない無邪気さで、彼女はそう告げた。
国家保安本部長官、エルンスト・カルテンブルンナー親衛隊大将を「カルテンブルンナー博士」と呼び、中央記録所の保管庫の鍵束を持つ彼女の「正体」がわからなくて、ルドルフ・バムラーは絶句したきりで、どこか呆然と自分を見上げる少女を見下ろした。
――彼女はいったい何者だろう。
「君は……?」
「じゃ、お邪魔しました」
おそらく国家保安本部の機密事項をも握るだろう少女は、ぺこりとバムラーに頭を下げて、くるりと踵を返すと事務室を出て行った。
「……あの子はなんだったんだ?」
鍵束を握りしめたままぽかんと間抜けにも口を開いたバムラーはややしてから首を傾げると黙り込んだ。
彼の直属の上官でもあるヴィルヘルム・カナリスは、お世辞にもバムラーを信用しているとは言い難い。彼の職務上の権限はほぼ皆無に等しく、その行動はカナリスを含めて、ハンス・オスターや襟ウィン・フォン・ラホウゼンといった「カナリスの側近」たちによって厳しく監視されている。それが不愉快だとは思うものの、ナチス党員であるという事実は隠しようもなかったし、今さら隠すつもりもない。なによりも自分自身の強い信念があればこそ国防軍情報部にあって生粋のナチス党員という立場を貫いているとも言えるだろう。
自分がいるべき場所を探す。
鍵束を見つめたバムラーはもう一度吐息を吐き出すと、そのまま保管庫の扉へ踵を返した。
ナチス党と、ナチス親衛隊。そして国防軍との間でバムラーは自分の存在意義を訝しむ。自分のいるべき場所とはどこなのかがわからなくなる。
五十歳にも手が届こうという年齢で、そんな惰弱なことを言っているのも笑える話かも知れないが、それでも人間というものはせいぜいそんなものなのだ。
野心あふれた若者たちや、世界を知らない子供たちであれば、そのフットワークも軽快で心の赴くままに挑戦することもできるのかも知れないが、世間を知りすぎた大人たちにとっては、それは危険な賭けでしかない。
人生も半ばを越えた者にとっては、今までの人生を棒に振る選択は危険なものでしかなかった。
だから、バムラーはバムラーなりに選択したつもりだ。
それがドイツ国防のためになると、「信じて」いた。
「カルテンブルンナー大将から報告を受けた、バムラー少将」
「……は?」
突然聞こえてきたのは、やや頼りなさそうな――自信のなさそうなドイツ語だった。
アクセントの強いドイツ語で話をしていてさえ、自信なさそうに聞こえるのだから、よほど頼りなく聞こえてているはずだ。
「人の真価とは外見にあらず」とはよく言ったものだが、こんなにも弱気な性質でイロモノ揃いのナチス党政権首脳部でよく生き残って来れたものだと、ヒムラーにはルドルフ・バムラーも半ば感心する。
「これは、ヒムラー長官閣下」
ハイル・ヒトラーと、さっと敬礼したバムラーにこほんと咳払いしたヒムラーは、ちらりと窓の外を見つめてから駆け足気味に少女が走り去っていくのを見送った。
どうやらヒムラーも彼女を知っている様子だ。
「長官、彼女はいったい何者なのですか?」
頼りない色白の親衛隊全国指導者に問いかけたバムラーに、ヒムラーは心ここにあらずという様子で窓の外の少女を見送っている眼差しはどこか心配そうだ。
「……彼女は、ライ……」
なにかを言いかけてからヒムラーは肩をすくめると、文官特有の節張った指で保管庫の扉を指し示して話題を切り替えた。
「そんなことはどうでもいい。彼女に対する詮索は貴官が気に病むようなことではない。少将」
「……承知致しました」
「とにかく、カナリス大将の命令といえ今回貴官が得た中央記録所の閲覧許可はそれほど長時間のものではない。任務を優先すべきと考えるが」
それもそうだ。
ヒムラーに言われて、バムラーは気を取り直した。
とりあえず彼女が何者かなどということを考えたところで仕方がない。
当面の目的は、ヒムラーとカルテンブルンナーが気に掛ける少女の正体よりも、目の前にある情報の検索である。
「カルテンブルンナー大将も、今回の貴官の動きを見て今後の決定を下すだろう。だから、貴官の今後の活動のためにもカナリスに歩み寄ることも必要だとわたしは考えた」
「なるほど。……とはいえ、カナリス長官もカルテンブルンナー大将もわたしを信頼されていない様子ですが」
バムラーの声色にわずかに不愉快そうなものが混じったが、それをヒムラーは聞かない振りをして片手を振って見せた。
ナチス親衛隊が、国防軍情報部にスパイを送り込んでいるようなものだ。
それはヒムラーも承知している。バムラーは、反ナチス党派の牙城で孤軍奮闘しているようなものなのだ。それを見て見ぬ振りをした。
「貴官の立場の苦しさはよく理解している、つもりだ」
だが、それでも国防軍情報部がなにを画策しているのかを知るためにはスパイが必要なのだ。
「ナチス党のためにも時間を無駄にするな」
「はっ……」
敬礼したバムラーが背中を向けて歩きだしたのを確認して、ハインリヒ・ヒムラーはほっと肩をなで下ろした。
「彼女」は「ラインハルト・ハイドリヒ」だ。
それを知るのは自分しかいない。
他者にそれを言おうものなら、荒唐無稽な与太話だと鼻先で笑われるだろう。
昔からそうだった。
夢見がちな性格だと笑いものにされてきた。だから、自分の名誉のためにも、そしてハイドリヒと「彼女」の名誉のためにも、口にしてはならない言葉だった。
ハイドリヒが目指した「帝国」を完成させなければならない。そして、ハイドリヒが目指した帝国とは、ヒムラーの帝国であり、国家元首――アドルフ・ヒトラーの帝国だ。
ドイツ第三帝国――。
二度とその没落があってはならない。
ヒムラーはそっと目を細めてから詰めた息を鼻から抜いた。




