1 異変
国家保安本部第六局局長の執務机にある内線電話がけたたましいベルの音を上げる。
それが異変を告げる第一報だった。
時刻をわずかに前後して、国家保安本部のオフィスの入り口を出る少女に若いゲシュタポの捜査官が顔をほころばせる。若い少女が親衛隊少佐という地位にあるというのに、驚くほど彼女は嫉妬らしい感情に晒されずにいた。
彼女に対して嫉妬心を抱くには、笑顔がまだあどけなく、純真にも思えるその眼差しに誰もが心を和ませる。
「少佐殿、足元にお気をつけて」
言葉使いこそ礼儀正しいものを保っていたが、その声音はひどく柔らかくて階級が上の人間に対する下士官のものとは思えない。
国家保安本部に勤務する者の多くが、彼女が四六時中つまづいて転んでいる姿を見ているためだ。
「はい、ありがとう」
言いながら軽やかな足取りでオフィスを出て行くマリーと、それを見送る者たちの耳に渇いた音が鳴ったのはそのときだった。
少女の耳元をかすめた衝撃と、背後の壁から上がる音。
硝煙の香りと同時に、警備に当たる親衛隊員が慌ただしく動き出す。
――銃撃されたのだ。
数秒してから我に返ったように、ぺたりとその場に座り込んだマリーに周囲のざわめきは聞こえていない。
彼女の中でフラッシュバックする恐怖の記憶。
自分が”殺された”時の頼りない記憶。
無意識に腹部を押さえたマリーは、もう片方の手で自分の顔をおおった。
何度となく、夢の中で彼女は殺された。その記憶が現実感を伴ってマリーを侵食する。
呻くように声を漏らす彼女に、誰かが声をかけた。けれども錯乱しかけているマリーにはそれが誰なのかわからない。
「ハイドリヒ少佐……っ!」
肩を掴まれてマリーは細い腕で男を押しのける。
言葉にならない悲鳴が上がった。
まるで金切り声にも似たその声は高く響き渡る。
幾度となくマリーは「死」を体験した。テロリストによって殺害されるラインハルト・ハイドリヒの記憶を繰り返す。
それが幼い子供にとってどれほど残酷なことか知る者はいないだろう。マリーは、ごく幼少の頃から、死の恐怖と隣り合わせで生きてきた。
それが心の傷として刻み込まれるほどに。
マリーの叫び声が聞こえたその時、丁度執務室から刑事警察局長アルトゥール・ネーベ親衛隊中将が駆けつけた。
「マリー!」
外聞をはばかることもせずに少女の名前を呼んだネーベは、パニックに陥りかけて闇雲に暴れる少女を強く引き寄せて抱きしめた。
細い四肢で精一杯暴れる彼女の上半身を抱き込んで、自分の胸に顔を押しつけてなだめるように背中をなでさする。
「マリー、大丈夫。……大丈夫だ。落ち着くんだ」
親衛隊少佐などという大層な地位にあるとは言え、その真相は訓練も受けたことのない少女でしかない。
やがてネーベに抱きしめられてその体温に落ち着きを取り戻したマリーは、眉を寄せたままできつく彼の背中に腕を回すと顔を押しつける。
嗚咽がこぼれた。
額をネーベの胸に押し当てて震えている姿はとてもではないが親衛隊情報部に属する将校のものには見えなかった。
「もう大丈夫だ、マリー」
ネーベがマリーにそう告げたとき、電話連絡を受けたシェレンベルクがやっと現場に到着した。そうして、マリーを強く抱きしめたままネーベが立ち上がると、ちらときつい眼差しを国外諜報局長に向ける。
「彼女のような親衛隊将校がテロの標的にされる危険性を君はわかっているはずだろう。シェレンベルク大佐」
屈強な大男であったラインハルト・ハイドリヒですら暗殺されたのだ。マリーのように華奢で小さければ言わずもがなだ。
そんなネーベの言葉に、シェレンベルクは息をついた。
思った以上に早くそのテロリズムと言った犯行に直面して、シェレンベルクは眉をひそめる。
想定していなかったわけではない。
おそらく総統官邸に潜入していたテロリスト共の一斉検挙に乗り出したために、情報が漏洩したのだろう。
遅かれ早かれ情報が漏れることは考えられた。問題は情報が漏洩したとき、どのように判断し、そしてどのように行動するか、ということである、
ネーベは自分にすがりついている少女の背中を撫でながら、そっと自分の胸から引きはがすとマリーを覗き込む。
「もう大丈夫だ。今、君を狙った犯人を警官が追っている、すぐに逮捕されるだろう」
涙のにじんだ目元を太い指でそっと拭ったネーベが微笑する。
「うちの者がご迷惑をおかけしました」
型どおりの言葉を吐き出しながらシェレンベルクが頭を下げると、ネーベが少女の頭を撫でた。
「迷惑などかかっていないが、シェレンベルク大佐はもう少し自分の部下の身の安全に気を配るべきではないのかね」
「申し訳ありません」
ネーベと二言三言、言葉を交わしてからマリーを連れて執務室へと戻ったシェレンベルクは長く溜め息をついてから少女を見下ろした。
「……シェレンベルクっ!」
ぎゅっと男に抱きついたマリーが震えている。
自分の胸の中で震えている彼女に、シェレンベルクは目尻を下げた。
「怖かっただろう……」
「……何度も、何度もわたしは殺されるの。それが怖くて、でも、誰もわかってくれない。わたしは生まれてからずっと死を体験してきたのに、理解してもらえない……」
訴えるマリーはぽろぽろと涙をこぼしてシェレンベルクに縋り付く。そんな彼女をなだめながら、そういえばとシェレンベルクは思った。
マリーがこんなにも取り乱したのは、彼と初めて会ったとき以来だ。
ほんの数ヶ月前の病院で、彼女は取り乱して泣いていたこと。
「もう大丈夫だ」
今後は彼女にもう少しまともな護衛をつけてやらなければならないかもしれない。そんなことを考えながら、シェレンベルクは自分の腕の中で震えている少女を抱きしめたままで窓の外を見つめた。
優しい動作で少女を抱いたまま、シェレンベルクはソファへ腰を下ろすと、ますます強くしがみついてくる彼女の腕にやれやれと溜め息をつく。
これでは本当にただの子供ではないか。
まるでシェレンベルクが離れてしまったら怖い夢でも見るからいやだとでも言うように、強くしがみついて離れない少女に青年は金色の頭を撫でてやりながらソファに深く自分の背中を預けるのだった。
やがて規則正しい寝息が腕の中から聞こえてきてヴァルター・シェレンベルクは、目元を和らげるとそっと彼女の体を抱き直す。強く彼の制服を掴んで眠っている彼女の必死さにシェレンベルクは優しく微笑した。
「まるで仲の良い兄妹だな」
眠るマリーを気遣うような男の声にシェレンベルクは首を回した。自分の腕の中で少女が眠っているから立ち上がって敬礼をするわけにもいかず、困った様子で相手を見やると、男は軽く片手を上げてシェレンベルクを制すると、向かいのソファに腰掛けた。
「こんな恰好で失礼します。ネーベ中将」
「いや、かまわんよ」
白いギンガムチェックのハイウェストのスカートに、ブラウスを身につけた彼女は水色のスカーフをしている。
全体的にさわやかな印象のするファッションに、アンバランスなのはベルベットの腕章だった。
「落ち着いたかな、マリーは」
ネーベもまごう事なき「マリー派」の親衛隊将校だ。
派閥と言うと誤解が生じがちだが、言葉通りの意味では決してなく単にかわいらしい少女に惹かれた中年というだけの話しだ。
若い親衛隊員辺りは一部下心がある者もいるかもしれないが、未だに少女の体型から脱してもいない彼女に性愛を抱くにはいささか不埒にもほどがある。
「おかげでこの有様です」
肩をすくめたシェレンベルクがマリーの頬にかかる長い金髪をかき上げると、少女は彼の腹に回した腕に力をいれて他意もなく顔を押しつけて眠っている。
「君の臭いが安心するようだな」
茶化すようなネーベの言葉にシェレンベルクは金色の髪を指先で絡めるようにして遊びながら、鋭利な光を瞳に閃かせた。
「ですが、中将。そんな話しのためにいらっしゃったわけでもありませんでしょう?」
「あぁ、そうだ。察しが早くて助かるが」
刑事警察局長は、少女に視線を向けながら声のトーンを抑えるとシェレンベルクに告げる。
「テロリストの逮捕に失敗した。現在、うちの警官とゲシュタポの捜査官で捜査に当たっているが、親衛隊将校を狙ったテロだからな。放置するわけにもいかん。みなまで言わずともわかるだろうが、大佐」
「マリーの身辺警護の強化ですか?」
「そうだ。だが、浮ついた男でもいかん。まだ年かさのいかぬ娘だからな。二重の意味で安全な男を選抜しろ」
「承知しました」
マリーの身辺警護の重要性はシェレンベルクにもわかっていた。
少なくとも、彼女の自宅である花の家の玄関など、男が思いきり蹴り飛ばせば、簡単に蹴破ることができるだろう代物だ。
そういった意味で彼女の安全を確保するためには護衛官の存在が重要になってくる。
「しかし、あそこで錯乱状態に陥るとは思わなかったな……」
ぽつりとつぶやいたアルトゥール・ネーベにシェレンベルクは少女の寝顔を見下ろしたまま口を開いた。
「……誰しも、心の傷は抱えているものです」
かつてのラインハルト・ハイドリヒもそうだった。
完璧にも見える彼が隠し持っていた凶暴性に見え隠れしていたのは劣等感。
それをシェレンベルクは知っている。
「心の傷、か」
「えぇ。マリーはいつも朗らかに笑っていますが、彼女にも心の傷はあると思っていますから」
シェレンベルクに腕を回したまま安心したように眠っている少女を見つめた青年は、優しげに笑って見せてからコートハンガーにかけられたマリーのショールを見やった。
「申し訳ありませんが、そこにかかっているショールをとっていただけますでしょうか? 中将」
「あぁ、これか」
マリーの体にショールをかけてやって、シェレンベルクは執務室を出て行ったネーベを見送った。そうして、彼女が眠っているために身動きすらできない彼は、マリーと同じように目を閉じる。
少女が目を覚ますまで、こうしていてもいいのかもしれない。




