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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXVII バビロン
377/410

14 掌中の敵

 じっ、と視線を感じた。

 通訳とは名ばかりの監視官に四六時中張り付かれても尚、ヤーコフ・ジュガシヴィリは忍耐強く警察犬の担当者から赤号(ロート)の訓練士としての技術を学んでいた。もっとも、教える方もドイツ語がたどたどしい相手にロシア人に教えなければならないわけだから、そちらも忍耐を求められる。

 いずれにしろ、生半なことではない。

 捕虜としての立場もあるヤーコフ・ジュガシヴィリは未だに自身の命の危機も脱していなかったし、それでなくても父親と祖国から見捨てられたのだという精神的なショックから抜け出す事ができていなかった。

 いつ、どこでのたれ死んでもおかしくはない。

 一度は父の意志に殉じようとすら考えもした。だがはたしてそれが救いのある道だという保障はあるのだろうか。

 ”そんな些末なことを考えさせられたのは”、捕虜収容所で彼女に面会させられた後の独房生活でのことだった。

 ――あなたにとって、ヨシフ・ジュガシヴィリという男はいったいなに?

 彼女はまっすぐな青い瞳で率直にそう問いかけた。

「誰だって肉親は大切じゃないか……」

 半ば激昂しかけて青年が小さく叫んだが、一方の少女は口元で声もなくかすかに笑った。

 なにがおかしいというのだろう……!

「わたしには”誰”もいないわ」

「君だって両親には特別な感情を抱いているはずだ」

「あら? ”肉親”なんかじゃなくたっていいでしょ?」

 まるで「そんなことは大した問題じゃない」とでも言いたげな彼女の眼差しに、ジュガシヴィリは困惑しきった。

「なにが言いたい……」

「あなたは依存してるだけよ。”ヨシフ・ジュガシヴィリ”があなたを大切に思っているとそう思いたいだけ。あなたには”なにも根拠がない”」

 切れ味の良い刃物のように、彼女の言葉は男の胸の内に切り込んだ。

 ――……信じたいだけ。

 ――……願っているだけ。

 根拠はなにもない。

 たったそれだけのことだ。

「それでも、俺は……!」

「あなたは、根拠もなく信じて居るだけ。あなたは、世界の全てのものに呪われる恐怖も知らないのよ。そんな純粋な子供みたいなことを盲目的に信じられるなんて虫が良すぎる話だと思わない?」

 クスクスと少女が笑っていた。

「ねぇ、”あなたにはこんな小娘ひとり片手でくくり殺せる”でしょう?」

 折れそうなほど細い骨。

 簡単にくくれそうな首。

 全てが華奢で儚い。

 そんな彼女が――ナチス親衛隊という後ろ盾があるとは言え――真っ向から大人の男と相対している。

 顔色ひとつ変えずに、はたしてそれは可能なことなのだろうか?

 大きく開いた手を、自分の胸に押しつけるようにしてそう言った。

「……女の子ひとり殺したからといって英雄になれるわけじゃない」

 まるで挑発するように告げた彼女に、絞り出すように掠れた声を上げたヤーコフ・ジュガシヴィリは椅子に座り込んだままで頭を抱えた。

「別に、君を殺したいわけじゃない……」

 直面した問題に、ジュガシヴィリは答えを見失う。

 それは自身の生存権という問題に帰結した。

「兵士は戦場で人を殺すのが仕事。でも、警察は国家権力によって個人を抹殺するのが仕事……」

 マリーが意味深長に笑っていた。いったいその笑顔がなにを意味したのか、ヤーコフ・ジュガシヴィリにはわからない。

 政治警察を前にして、誰も権利や権力など主張することはできないのだ。

 その力を行使する側にいない限り。

「だってあなたはスターリンの息子なのだから、それくらいのことは知っているでしょう?」

 スターリンの息子。

 それがジュガシヴィリの唯一のアイデンティティだった。か弱い少女を前にして、そんなものは何ら役に立ちはしないのだと突きつけられた。

 彼の力だけで簡単に息の根を止めることができる。

 その部屋には、監視はいない。扉越しに様子を窺っているのは疑いのない事実だが、突入を前にそれこそ一瞬で、その心臓の鼓動を止めることができるだろう。

 その確信があった。

 赤毛のシェパードの相手をするジュガシヴィリは視線に気がついて首を回した。

 二階の窓から少女が顔を覗かせていた。

 ひらひらと暢気に通訳を兼ねる監視官と、ジュガシヴィリに片手を振っている。彼女の横には馬面の制服の高官が居て、襟章から相当な高官であることがわかったが、当の少女の方はそんなことを気に掛ける様子もないようだ。

「ヤーコフ!」

 ひらひらと彼女が手を振ってくる。

 思わず彼女に手を振り返そうとしてから、マリーの横にいる高官と、自分の後ろにいる監視官の存在に我に返った。

 ちらりとマリーの横にいる男がジュガシヴィリの顔に視線を向けた。

 いまひとつわかりにくい瞳で、いったいなにを考えているのだろう。そんなことをジュガシヴィリが考えていると、少女の隣にいる長身の高級将校がなにやら話しかけているようだった。

 自分はいったいどうなるのだろう、とか、いったい彼女と彼はなにを話しているのだろう、とか、そんなとりとめもないことを考えていたジュガシヴィリの視界には、花が咲いたような笑顔を少女が浮かべているのを見た。

「……マリー」

 ヤーコフ・ジュガシヴィリは口の中で彼女の名前をつぶやいた。

 彼の横で耳を立てて行儀良く待機したシェパードが鋭く一声鳴き声を上げて、マリーの気を引こうとしたが、マリーのほうはといえば少しだけ戸惑った顔をしてから、自分の隣にいる馬面の男の制服をそっとつかんで睫毛を伏せた。

 そんなマリーの小さな手に、高官の男は自分の大きな手のひらを重ねて安心させるように細い肩を抱き寄せる。

「おまえは、こんなに尻尾を一生懸命振っているのになぁ……」

 まるでその姿はかつての自分を思い起こさせた。

 盲目的に父親を敬愛し、服従した。

 その愛を疑ったことすらなかった。いや、本音を言えば疑っていたのかもしれない。それでも、彼は彼女が言うように、肉親の愛情を疑いたくなかった。

 けれども「自分」は「赤号(ロート)」のように試行的な判断能力のない「犬」ではない。人間なのだ。だから、主人と犬のように命令を正しく遂行するばかりでいられない。

「おまえは、マリーが好きなだけなのにな」

 そう言ってジュガシヴィリは犬の頭を軽く撫でた。

 おそらくジャーマンシェパードの雄の中でも、ロートは大柄で、毛並みも美しい。その上、頭が良いともなればなかなかの名犬だろう。

 そんな犬に好かれるマリーと言う少女がいったいどんな「女の子」なのか興味を持った。

 彼女の周りに集うナチス親衛隊たちから信頼を得るのはまだまだ先の話になるだろう。だが、ソビエト連邦――ヨシフ・ジュガシヴィリの「犬」でいられないというのであれば、答えは自ずとひとつに限られてくる。

「俺とおまえの違いは、俺が犬ではいられなかったということだ……」

 いつか祖国へ帰ることもあるかもしれない。

 しかし、もはや祖国に対して信頼は失墜し半ばやけっぱちな思いすらも存在する。

「おまえはいい”ワンコ”だ」

 目尻を下げてジュガシヴィリは独白した。

 マリーの警察犬をあてがわれたことによって、孤独はだいぶ紛らわせることができそうだが、当分独り言の多さからは脱却できなさそうだ。

 四苦八苦しながらドイツ語のファイルを読みこなしながら、ロートの戦歴を確認していく。

 軍用犬として訓練を積み、それからゲシュタポの管理下に移管された。ポーランド戦とフランス戦で従軍し、行動部隊の不穏分子の追い込みでは素晴らしい成果を上げた戦歴を持つ。そんな生え抜きの警察犬は子犬か子猫のような金髪の少女を一目見て気に入ったらしい。

 度重なる災難に巻き込まれ、結果的にマリーの護衛犬として「任命」された。

「しっかりご主人様を守ってやれ」

 自分のようになる前に。

 もちろん、犬にそんな気遣いは不要だ。

 優秀な犬は主人に従順だ。絶対に「(ロート)」は「彼女(マリー)」を裏切らない。

 そんな独り言を連発する一見、どう見ても情緒不安定に陥っているヤーコフ・ジュガシヴィリの足元に小さな鳴き声を上げた痩せた小柄な若い雑種のネコが足元にすり寄ってきた。

 警察猫、というのは聞いたことがない。

「……この猫は?」

「野良猫だ」

「野良猫が天下の政治警察に?」

 ゲシュタポの捜査官に問いかけると、屈強なドイツ人青年は首をすくめてみせてから横を向いた。要するにそれ以上答えるつもりはなさそうだ。

「……――”それ”はマリー少佐の猫だ」

 痩せた少女に痩せた猫。

 珍妙だが似合いのカップルだ。

 とりあえずライバル関係にあるらしいロートは複雑そうに、すり寄ってきた猫を鼻先で押して微妙な表情をした。犬というものは往々にして、主人が関係するとなると多種族の動物にも寛容なところがある。

 疑問に思うところは山ほどあるが、それはそれで追及すべき時期ではない。

 動物の鳴き声に囲まれて、ジュガシヴィリは大きな溜め息をついた。

 このまま自分は彼女の動物担当にされるのではなかろうか。

 そんな思いに捕らわれた。



  *

「ジュガシヴィリは犬と猫と、仲良くやっているそうだ。マリー」

 犬はともかく、猫はマリーが拾ってきた野良猫だ。

 ちなみに野良猫と言えば野良猫なのだが、今はきれいに洗われて、街中ではなく国家保安本部内をうろついている。

「本当?」

「ただし、プリンツ・アルブレヒト・シュトラッセにいるときだけだ。君は危なっかしいからロートの護衛は君には必要だ」

 あわよくばロートをそのままジュガシヴィリに押しつけようというマリーの思惑は見え見えだったのか、ハインツ・ヨストは穏やかにだめ出しすると、少女は頬を膨らませて抗議をした。

「スターリンの息子が今後信頼に足る男かどうかは、これから見極めなければならないことだ。我々はあくまでも君の補佐だから、ベスト中将やメールホルン上級大佐を含めて君の決定に否やはないが、ショル兄妹に続いて今度はシュタウフェンベルク伯爵閣下とスターリンの息子だからな……」

 心配事は少なくない。

 穏やかに諭すような言葉を投げかけるヨストに、マリーはその腕にぎゅっとしがみついてから朗らかに笑った。

「わたしたちに、不都合なときはそのときに判断すればいいと思うの」

 にっこりと彼女が笑った。

 国家保安本部(RSHA)には、夜と霧ナハト・ウント・ネーベルが存在する。

 危険分子を「消し去ってしまうこと」は彼らにとって存外容易なことだった。

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