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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXVII バビロン
376/410

13 雲行き

 人の命は消耗品よ。

 毛並みの良い赤毛のシェパードを両手であやしながらヤーコフ・ジュガシヴィリは考え込んだ。

 人の命は消耗品だと、彼女は言った。

 ――人の命は消耗品だ。

 その言葉のなんと残酷なことだろう。

 倫理的にはそのようなことがあってはならない。それはソビエト連邦でも、ヨーロッパでも大差はなく、世界的に見ても動揺だろう。

 あくまでも「常識的」には。

 だけれども、現実的に人の命が消耗品でないという理屈は通りはしない。たとえ、それが倫理上は常識的であったとしても、だ。

 少なくとも、ヤーコフ・ジュガシヴィリの父――ヨシフ・スターリンにとって他者とは道具であり、消耗品でしかなかったこと。それは現実だ。

 そうなると、もうひとつの疑問が持ち上がった。

「……俺も、消耗品なのだろうか」

 ぽつりとロシア語で呟いた。

 誰にとって、とか。

 どの国と組織にとって、とか。

 そんなことをとりとめもなく考えた。

 大祖国戦争でドイツの捕虜となったジュガシヴィリの身柄について、ソビエト連邦当局からの正式な回答はないと彼自身は聞いていた。もっとも、ジュガシヴィリの身柄をドイツ政府は取り引きの材料としていた様子だったが、あの冷酷な父親が自らの息子だと行って甘やかすとも思えない。

 国家保安本部で特にやるべきこともなくて、ジュガシヴィリは犬の相手をしながら大きな溜め息をついて、ちらりと横目をすべらせる。

 常に彼を監視しているのはゲシュタポの青年下士官だった。

 すらりとした長身が印象的で、造作も金髪碧眼という典型的なドイツ人だ。

「……俺は、ここでなにをしたらいいのだろうか」

 やがて犬の相手をしていたジュガシヴィリは恐る恐る小さな声で問いかけた。

「知らん」

 素っ気なくゲシュタポの捜査官に言葉を返されるが、恐るべき父親を持っていたジュガシヴィリはそんなことで怯まない。

「捕虜収容所ではなにかしら仕事があった。なにか”わたし”にもやるべきことをやらせてほしい」

 なにもすることがないという状況が、ジュガシヴィリの思考を悪い方向へとばかり向けさせる。

 やることがないという無為の状況は、一般的に考えられる以上に彼自身の精神状態を悪化させた。

 国家保安本部に監禁された日から一週間近い日にちがたったというのに、ジュガシヴィリは特別保安諜報部のマリーに受け入れを聞かされて以来、結局、さっぱりやることを与えられていない。そんなわけで、未だに彼の仕事らしい仕事は赤毛のシェパードの相手というところだった。

「わたしの仕事は貴様の監視だけだ。ほかにはなにも聞かされていないし、指示もされていない。なにかやりたいのだったらハイドリヒ少佐に聞きたまえ」

 自分には決定権がないから、マリーに聞け。

 要約するとそう言った意味合いだが、だからといってそのために青年がジュガシヴィリのためにマリーとの面会をお膳立てしてやるわけでもない。

 赤軍の捕虜などに親切面してやる義理などどこにもない。

 あからさまに冷然と突き放した台詞を吐き出して、じろりとジュガシヴィリを凝視した。

「君……」

 ジュガシヴィリと通訳兼監視要員のゲシュタポの青年捜査官とがそんなやりとりをしていると、品の良いドイツ語で捜査員に語りかける三十代半ばの青年が姿を見せた。

「彼は?」

 ヤーコフ・ジュガシヴィリは明らかにドイツ人ではない。

 そんなことは見ればわかる。

「……伯爵閣下」

 廊下の先から姿を現した貴族の青年に、政治警察はやや困惑した様子で姿勢を正す。

 ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルク伯爵――。

 国外諜報局特別保安諜報部の特別顧問として招かれたドイツ屈指の法律家のひとりで、専門は国際法だ。その弟のクラウスが陸軍参謀本部の参謀将校ということもあって、国家保安本部では敵愾心に近い眼差しを向けられている。というのが、ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクの現状の立ち位置だ。

「特別保安諜報部に対ソビエト連邦の情報収集にあたって捕虜収容所から選抜されたソ連赤軍の将校とのことです」

 堅苦しい表情のまま、ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクの瞳をまっすぐに見つめ返した青年捜査員は内心で舌打ちした。

 陸軍参謀本部の内通者でもあるシェンク・フォン・シュタウフェンベルクと、ソ連赤軍の捕虜のジュガシヴィリ。両人は名目的には現在、特別保安諜報部のマリア・ハイドリヒ親衛隊少佐の保護下にあって、その場は捕虜収容所ではなかった。そういうわけで、度を過ぎて礼を失した行為は固く禁止されていた。

 要するに、このふたりに対してゲシュタポの権威は行使できないということになる。

「なるほど。それで、彼はなにを言いつのっていたんだね?」

 青年捜査員の内心を知ってか知らずか、言葉を続けた法律家の青年に一瞬、ナチス親衛隊員は顔をしかめてから手短にヤーコフ・ジュガシヴィリが手持ちぶさたでなにかしらの仕事をしたがっているということを説明した。

「そういうことならば、わたしが彼女に言付けてやろう」

 ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクは貴族で、爵位もある。加えて民間人だったから、彼に親衛隊の権威は通用しない。誇り高い精神力を持つ人物だったから、暴力的なナチス親衛隊の権力にことさら左右されて動揺を見せることもしなかった。

 ナチス親衛隊にとってこうした人物こそ、煩わしいことこの上ない。

 ベルトルトの生まれながらに身につけた栄光と名誉、そして権威とは一般庶民には計り知れないものだ。

「しかし、伯爵閣下……」

「どうせこれから彼女のところに顔を見せるのだからな。貴官が規則を気に掛けることはない」

 ナチス親衛隊――国家秘密警察(ゲシュタポ)と、民間人との間に横たわる溝は深い。

 特に反ナチス的な法律家や新聞記者たちといった人種とは、さらにわかりあえない溝が広く横たわっている。

「そういった順序をわきまえないやり方は感心しかねます」

 規則は守って然るべきだ。

 しかつめらしい顔つきになったゲシュタポの捜査員に、ベルトルトはぎろりと視線を突き立てて小脇にファイルを挟んだまま腕を組み直した。

「ではどうするのだ。貴官にその権限もなく、ジュガシヴィリに規律に則って事案を申請すべきと言うのであれば、捕虜でありそのドイツ国民として権利もないに等しい彼には八方ふさがりではないか」

 つまるところ、ヤーコフ・ジュガシヴィリがなにかしたいと思ったところで、それを申請すべき先が存在しない上に、その権利すらもないということになる。

 返答に窮したゲシュタポの青年にベルトルトは一歩踏み込んだ。

「わたしは、”貴官に招かれたわけではない”。わたしがなにをしようと、それはわたしの勝手だ」

 貴族出身の法律家の背後にいる者は、マリーであり、その補佐官たちだ。

「……――承知しました」

 不承不承そう言った彼に、くるりとベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクは踵を返した。時に権力とはくだらない屁理屈を黙らせる役に立つ。

 威光を背負っていると思われることもあって、それはベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクの本意ではなかったが、権威主義的なナチス親衛隊員たちに対してはシェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵家の名前はベルトルトにとって大いに役立った。

 未だに多くの者がかつての階級社会に捕らわれる。

 それがドイツ社会だ。

 いくら言って聞かせたところでわけのわからない理屈をこねる無駄口など黙らせるに限った。

「……伯爵!」

 忌々しくそんな思いに捕らわれたベルトルトの背中に、赤軍捕虜の男の片言のドイツ語が投げかけられる。

なにか(ヴァス)?」

 聞き慣れないドイツ語に必死に耳を澄ませていたジュガシヴィリは、力関係を見極めて必死の思いでベルトルトに叫び声を上げた。

 こつりと靴音を鳴らしてベルトルトが振り返る。

「わ、わたしは、この犬の世話をしたい……。なにもやることがない。だから……」

 赤毛のシェパード相手なら難しい言葉のやりとりはいらない。

 そう言われてベルトルトは顎に手を当てて、ほんの数秒考え込んだ。

「ふむ……」

 相づちを打ってから、そうしてベルトルトが頷いた。

「君は彼女にそれを言いたかったのか?」

そうだ(ヤー)

「そういうことなら、承知した。彼女に伝えよう」

 ベルトルトが読んだジュガシヴィリの資料では、彼は国家保安本部が接触してきて以来、ドイツ語の勉強と飲食以外の時間はほぼ独房にあって気が狂うような生活を強いられてきたという。

 静寂と孤独、そして無言の監視とに耐えられる人間はそれほど多くはない。

 屈強な肉体を持つ体力の盛りの青少年だからといって、そうした無言の圧力に耐えられるとは限らない。

 聞こえてくるのは、銃声や苦悶の声の中にあっての沈黙は、もはや精神的な拷問に近いだろう。

 自分自身もいつ殺されるかわからないような状況下におかれて、自殺さえ許されない。

 沈黙の下で、ただ考えを巡らせることしかできないのであれば、人の心は思う以上に消耗していくものだ。

「……そういうわけで、彼が犬の世話をしたいと言っていたが」

 マリーの執務室は意外にもふたりの補佐官は不在で、机についた少女が頬杖をついて下を向いていた。

 端的に説明したベルトルトは言葉の返ってこない少女に、ちろりと横目を滑らせてから考え込んだ。そうしてそっと腰を屈めて彼女の顔を窺ってみれば、頬杖をついたままで金髪の少女ははたして平和に寝息などをたてている。

「……マリー?」

 居眠りをする少女にそっと片手を伸ばしかけて、それと同時に静かに扉が開く音が聞こえてきてベルトルトは心の底から飛び上がって驚いた。

 執務室に戻ってきたのは次席補佐官を務めるハインツ・ヨストだ。

 声もなく自分の唇の前に人差し指を立てて、マリーに目配せをすると音もなく室内に入るとそのままやはり音もなくソファに腰を下ろしてベルトルトを手招いた。

「食後の居眠りだから放っておいてやってくれないだろうか」

 そういえば少しばかり遅いが昼食の時間だったことを思い出す。

 ベルトルトは壁時計を見やってから、ヨストに薦められるまま応接用のソファに腰を下ろした。

「彼女はいつも体力がぎりぎりだ。どうせベスト中将が戻ればたたき起こすのだから、今は少しだけそっとしておいてやりたい」

 ナチス親衛隊にしては一見まともな言葉に、ベルトルトは表情を改めた。

「用件であればわたしが聞こう」

「わたしの用件はボルマンの捜査資料に関する再調査とその総括だ。どうせわたしの手際を試しただけだろうが、そんなことはともかくジュガシヴィリの扱いについて提案なのだが……」

 それとこれを、と付け足して紙製のファイルを応接テーブルに静かに置いた。

 手っ取り早いベルトルトの言葉にヨストは内心でかすかに笑った。

 この男はよく事態を把握している。

 彼に任せた最初の仕事はマルティン・ボルマンの私的な裏切り行為に対する捜査資料の総括だった。それもほぼ全体像はベストとヨスト、メールホルンにまとめられて、後は親衛隊長官のハインリヒ・ヒムラーと、国家元帥のヘルマン・ゲーリングに提出するばかりとなっている。

 あえてその総括的な仕事を任せたのはベストの見解による。

 ほとんど最終段階に入っている仕事を任せて彼の力量を試したのだ。

 そのことについては言及せずに、ヨストはベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクの言葉の先を促した。

「……と、言いますと?」

「彼はあの赤毛のシェパードの世話をしたいと言っていた」

 単刀直入なベルトルトにヨストはちらりと執務机で船を漕いでいる少女の金髪の頭を見やった。

 そういえば、マリーはベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクとヤーコフ・ジュガシヴィリを特別保安諜報部に迎えたものの、シュタウフェンベルクにはともかくジュガシヴィリには仕事らしい仕事も与えずにいた。

「なるほど」

「ジュガシヴィリが暇をもてあまして困惑していた」

「わかった、彼女が目を覚ましたら伝えておきましょう」

 確かに犬の世話くらいさせても問題はないだろう。

 マリーがどう考えるかは別として。

 もちろんベストと同様、未だにベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクとヤーコフ・ジュガシヴィリのふたりをヨストが信頼したわけではない。

 まだ信頼関係を築くには時間が浅すぎる。

 言いたいことを言い置いて、執務室を後にしたシュタウフェンベルク伯爵は肩越しにわずかに首を回すとその重たい扉を流し見た。

 ありとあらゆる意味で「彼ら」にはまだ互いを理解できない。

 ジュガシヴィリはシュタウフェンベルクを含めてドイツ人たちを信用し切れていなかったし、ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクもジュガシヴィリを国家保安本部に引き入れたことによって大きな混乱が生じればいいと思っていた。

 そしてヨストとベストもこの新たな異端者に敵意に近い警戒心と、それに伴う不信感とを拭えてはいない。

 マリーと言う少女の存在は、まるで簡単に握りつぶせる野の花によく似ている。

 つまり、「そういうこと」だ。

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