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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXVII バビロン
375/410

12 差し伸べられた腕

「そういえば、君は昨日、ジュガシヴィリが来たのは知っていたかね?」

 マリーが自らトレイに乗せて運んできた、パンをつまみながらベストが問いかけた。

「……ヤーコフ?」

 すっかり忘れていたとでも言いたそうなベストの言葉に、マリーはくるりと瞳を動かしてから長い金色の睫毛をしばたたかせた。もちろん忘れていたわけではないが、ベストにとってはほぼどうでもいいことだったし、体力の盛りにある男など、二、三日放置していたからといって死ぬわけでもない。

 そんなことを考える辺りはやはりラインハルト・ハイドリヒとは異なる思考の型であるとはいえ、やはり政治警察上がりといったところなのかもしれない。すっかりハイドリヒのやり方に毒されてしまったというよりは、戦時の捕虜の扱いなど、どこの国でも似たり寄ったりだ。

 敗者に人権など存在しない。

「そう、スターリンの息子だ」

 マリーが作ったという割りにはまずくもないが、それほど美味でもないパンを咀嚼しながらベストは大きく頷いた。

「心配ですか?」

 ドイツのためにならない。

 ヤーコフ・ジュガシヴィリを支えるアイデンティティは「スターリンの息子」であるということだ。

 誰しも、血を分けた両親からは無心の愛を注がれていると、本来は信じたいものだ。しかし、人というものはそればかりではない。

 中には、自らの子供すらも愛せない者もいる。

「君が無力だと言うことが心配だ」

 実際、ストックホルムでも、プラハでも、彼女は危害を加えられた。

 男が少し本気になるだけで、彼女の身は危険にさらされることになる。

 だから国家保安本部の高官たちは彼女を自分の視界の外へと連れだされることを嫌うのだ。世の中には保守的な男が結構多い。

 自分もそんなひとりだと、ヴェルナー・ベストは自覚していた。

「心配しすぎよ」

「そう言っているが、プラハでは交通事故にも遭ったし、誘拐されそうにもなった。あげくにストックホルムでは暗殺未遂だ。どれだけ君は災難を招き寄せる体質なんだ」

「そんなことわたしに言われても……」

 ベストの言にマリーが唇を尖らせて頬を膨らませて抗議するが、マリーのほうもベストが本気で彼女のことを鬱陶しいと考えているとは思ってもみないのだろう。

 ふたりの穏やかなやりとりを聞きながら、ヨストとメールホルンは顔を見合わせた。

 こうして見ていると親子のやりとりのようにも聞こえてくるから不思議なものだ。とはいえ、とりあえずほぼ国家保安本部で軟禁状態にされているスターリンの息子を生かすにしろ、殺すにしろそろそろ決断を下してやらなければ本人のためかもしれないなどとヨストが考えるところは、やはり国家保安本部の高官だったのかもしれない。

「とにかく、君はもう少し身の回りに用心して然るべきだ」

 叱りつけるようにベストに言われて、マリーはけろりとした表情のままでにっこりと笑った。

 いつも彼女の笑顔に騙される。

 わかっていても騙されるのだから、大人というものはなんとも不自由だ。

「ヤーコフとか、シュタウフェンベルク伯爵みたいに?」

 マリーは敵を懐に招き寄せすぎる。もしかしたら、敵も味方もわかっていないのではないかとさえ思えてくるのに、いくら痛い目にあっても相変わらずこの調子だったから手におえない。

「見たところヤーコフ・ジュガシヴィリなど大した危険性はなかろうが、問題はシュタウフェンベルク伯爵閣下だな」

 形式的には由緒正しい伯爵家の後継者に礼儀を払ったヴェルナー・ベストに、マリーのほうは自分の口元に手を当てるとクスクスと笑い声を上げた。

「シュタウフェンベルク伯爵は常識人だから心配ないわ、ベスト博士」

「”常識人だから”心配なのだと言っている」

 ありとあらゆる意味で。

 陸軍参謀本部に所属するクラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵の兄――ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルク。

 彼らは一般的な意味で「常識的なドイツ人」で、「常識的な国防軍人」だ。

 だからこそ心配だった。

 彼らと、ナチス親衛隊は相容れない。

 ベストはそれをよく知っている。

 ラインハルト・ハイドリヒと、ハインリヒ・ヒムラー。そして、武装親衛隊の中核を構成する軍人たちが築き上げた制服の帝国。

「……よくわからないわ」

 マリーが眉をひそめた。

「君にとって良い人はお菓子をくれる人だろう」

 そして「悪い人」とは、彼女に危害を加える人間だ。

 ただそれだけでしかない。

 まるで子供そのものの認識は頭が痛いが、それはそれでベストには納得もいった。

 男の薄汚い世界を、純粋な子供たちに見せるものではない。そしてその世界が政治警察という特殊な世界であればなおさらだ。

 ――女子供に見せるべきものではない。

 頭ではそう考えているというのに、マリーは国家保安本部の中央記録所の記録の全てを知っているし、頭を悩ませるだけ無意味なことだというのもわかっているが、そこは男の勝手な妄想というもので、子供たちを汚い世界から遠ざけてやりたいと無意味なことを願ってしまうのだ。

「君はそれでいいのだ」

 それでいい……――。

「シュタウフェンベルク伯爵と言えば」

 そこでふたりの会話に割り込んだのは執務室を同じくしているヘルベルト・メールホルンだ。

 ハインツ・ヨストが認識する限り、メールホルンは国家補亜本部の屋台骨を支えたとは言え、その幹部たちの中でも「良識派」だ。ラインハルト・ハイドリヒとは思考スタイルが異なりすぎて、早々に出世街道から外れた。

 とはいえ、それでも尚彼の知性は健在だ。

 女性たちから見れば取るに足りない醜男だが、マリーのほうはというと相手が禿げ頭だろうが、強面(こわもて)だろうが、余り関心はなさそうだ。とりあえずそんな「冴えない」外見の代表格だとも自覚しているヨスト自身だったから、マリーがハンサムな青年たちに関心を示さないことについては「人を外見で判断しないのは健全なありかただ」と勝手に都合良く解釈したのだった。

「彼はなかなか仕事ができるが、捕虜の扱いに関しての意見が真っ当すぎて、わたしとしては少々窮屈だ」

「……はぁ」

 マリーは堅苦しい物言いをするメールホルンに手作りのパンを差しだしながら上の空で頷いた。

 要するに自分からヤーコフ・ジュガシヴィリやベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクの身柄の扱いに対して意見をしていながら、彼女にしてみればそれほど関心がないらしい。

「メールホルン上級大佐。彼女には、歯に衣を着せる物言いをしても通じないぞ」

 素晴らしく鈍い。

 そう付け加えたベストにマリーはいたずらっ子のように笑ってから、なぜかない胸をはって顎を上げた。

 小さな子供が得意げになっているようにも見えて可愛らしい。少なくとも女性的な魅力はかけらも感じないからマリーと言う少女は不思議なものだった。

「だってみんなわたしがわからないことばかり話すんだから仕方がないじゃない」

「それは自分が馬鹿だと自白しているようなものだとは思わないのかね?」

 つけつけとベストに厳しげな言葉を投げかけられて、マリーはいつものように唇を尖らせた。

「とりあえず、決定権のないわたしにシュタウフェンベルク伯爵閣下がヤーコフ・ジュガシヴィリの扱いについて早急にいずれにしろ決定してやれと言っているから、どうにかしてくれないかね?」

 執務室が同じでは、その手の詰問に晒されるのはメールホルンに他ならない。

「別に、メールホルン博士には決定権がないって言えばいいだけのことなんじゃないですか?」

「それで丸め込める相手なら、わたしだって苦労しない」

「そんなものですか……」

 押し問答のようなマリーとメールホルンの言葉に、ヨストは自分の椅子に深く腰を下ろしたままで応接用のソファに腰を下ろして紅茶などを楽しんでいる少女とベストを眺めやった。

 どうやらマリーにしてみれば自分の執務机がヘルベルト・メールホルンに占領されていることは余り気にならない様子だ。

 彼女はいつでもなにかに捕らわれてこだわるということがほとんどない。

「わたしにも法律家だという矜持はある」

 国家保安本部生え抜きのエリートと言われ、その知性はシェレンベルクをもうならせる。

 欠点は、びっくりするほど醜男だということだけだ。

「貴族のボンボンなどに引けを取るつもりはない」

 断言したメールホルンに、マリーはそうして眉間にしわを寄せるとベストの差しだした一冊のファイルを受け取って内容を確認すると、かわいらしく小首を傾げたままで「うーん」とうなり声を上げた。

「ヤーコフのドイツ語能力はどうなんですか?」

「まぁ、片言だな。余り過大評価しない方がいい」

 得てしてドイツ人の他者に対する評価というものは「辛口」で有名だ。

「わたしは通訳をつけようと思うがどうだろう? マリー?」

「それでいいと思います」

「では人選にかかろう。そろそろ、ジュガシヴィリも放置に絶えられなくなっていることだろうからな」

 それから、ベストは国外諜報局の業務の一部をハインツ・ヨストと、ヘルベルト・メールホルンに託して、自らは別件の書類の作成に入った。

 ロシア語の通訳をこなし、国家保安本部の業務似忠実な親衛隊員が選抜されなければならない。ヤーコフ・ジュガシヴィリの感情を巧みにコントロールして、思うままに操るためには必要なことだ。

 要するに、尋問や拷問、そして洗脳の専門家でなければならないのだが、さらに、ロシア語に通じていると鳴るとなかなか人選は限られてくると言うものだ。以前の国家保安本部であれば、ヴェルナー・ベストの目も届いていたから、適切な人選をすることができるのだが、それらの人事の実権は、現在、ラインハルト・ハイドリヒの人脈に連なるブルーノ・シュトレッケンバッハに取って変わられている。

 自分が人事権を握っていれば容易なことだが、現在国外諜報局の一部署に過ぎない特別保安諜報部の補佐官を務めているベストには人事権などありはしない。

 マリーの身の安全を確保するためには、慎重な人選が要求された。

 こうして早急にヤーコフ・ジュガシヴィリの通訳であり、マリーの警護でもあり、最悪の事態が生じた場合は躊躇せずに「対象」を始末することのできる、体力の有り余った青年が選抜された。

 ミュラーの指揮下であり、ゲシュタポの捜査官として名前を連ねるマリーの暮らすアパートメントの隣人だ。

 こうしてほぼ数日にわたって国家保安本部に監禁されていたヤーコフ・ジュガシヴィリのもとに、屈強なゲシュタポの捜査官と、一見、常識人に見えるヴェルナー・ベスト、そして特別保安諜報部の部長を務めるマリーが姿を現した。

 人というものは孤独に耐えられない。

「お久しぶりね、ヤーコフ」

 少女が悪びれもせずにクスクスと笑った。

 孤独と長い沈黙とに疲れ切ったヤーコフ・ジュガシヴィリは、ソファに座り込んだままのろりと顔を上げた。

「ゲシュタポは、なにを考えているんだ」

「……あなたはこんな状況でも”まだ”、父親の愛情なんて信じるの?」

「――……」

 人の善意を無条件に信じてしまうマリーが言える台詞でもないような気がするが。

 ベストはちらりと頭の片隅で考えた。

「僕が、父を裏切ったのか……? それとも父が僕を裏切ったのか? それがわからないんだ……」

 がっくりと肩を落としたジュガシヴィリが、ソファに座り込んだままで両腕で頭を抱え込んで独白した。

「わたしが、あなたを必要だと言っても、あなたは自分自身の存在意義を見いだせないの?」

 マリーとジュガシヴィリの会話は通訳を介したドイツ語で行われた。マリーのほうはロシア語に堪能なはずだが、同席しているベストに配慮をしたものなのかもしれない。

「……わからないんだ」

 沈鬱な声色で、ジュガシヴィリはとつとつと言葉を綴る。

「父に見捨てられて、もはや不必要な存在の俺を、君は必要だと言ってくれるのか?」

 ――本当に?

「ソ連の事情に通じている人がいるっていうことは、国家保安本部には大きな武器になるわ。あなたが祖国をどう思っているかはともかくとして、今のあなたに帰るべきところがなくなってしまったのは現実なのではないかしら?」

 ソビエト連邦という国の全てが、ヤーコフ・ジュガシヴィリという男を見捨てた。

 それは、ほかでもなく彼がスターリンの息子であるということからだ。

 そっと少女の手が、ジュガシヴィリの肩に触れた瞬間、押し殺していた感情が決壊した。


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