11 春の訪れと共に
目を見張るような速度で次々と書類を処理するベストの手腕は、さすがに元国家保安本部次長としか言いようがない。同様に、ヴェルナー・ベストの横で書類を決裁していくのは、前国外諜報局長を務めたハインツ・ヨストだ。
アインザッツグルッペンの指揮官を務めることなく国家保安本部での出世の道に幕を下ろしたヴェルナー・ベストはともかく、一昨年前の東部戦線ではアインザッツグルッペンを率いたハインツ・ヨストは身も心もぼろぼろになって、ベストとは異なる形で出世の道を閉ざされた。
本来、ベストやヨストよりも低い地位にいるアルベルト・フィルベルトなどにしてみれば、彼らの転落はいっそ歓迎すべきものだったが、それにしたところで、やはり目の前でシェレンベルクの不在のために舞い込んでくる書類の数々を次々と決済していく姿には感嘆の念が漏れた。
ヴェルナー・ベスト、ハインツ・ヨスト。
彼らはラインハルト・ハイドリヒが選抜した生え抜きのエリートだ。
「予算の決裁書など、マリーに見せるだけ無駄だと思わんかね? ヨスト少将」
「それはまったく」
書類から視線を上げもせずに口を開いて言葉を綴ったベストに、短くヨストは応じると首をすくめてから凝り固まった肩をほぐすようにぐるりと大きく腕を回して溜め息をついた。
武装親衛隊に予備将校として送られたときはどうなることかと思ったが、唐突に現れた少女の指先で偶然救われた。
「彼女は甘いケーキにしか興味がないから」
――もっとも。
そう続けてヨストは小首を傾ぐ。
「そのお子様に予算の申請書類など見せるだけ無駄なことだが、親衛隊長官閣下と国家保安本部長官が、彼女をシェレンベルク少将の代理にと決定した以上はサインはもらわねばなるまいよ」
きっと彼女は目の前に突き出された山のような書類にうんざりするだろう。
それを想像するのは容易なことだ。
比較的、書類仕事の少ない特別保安諜報部の事務仕事でさえも基本的にマリーは良い顔をしない。隙あらば逃げだそうと画策しているくらいだ。
「我々がいるからだろうか?」
ベストはヨストの言葉に神経質に眉毛をつり上げる。
堅物の法学博士は右手にしていた万年筆を丁寧な動作でその場に置くと、頬杖をついてから相変わらず空席の部署長――マリーの執務机を見やってから、自分のデスクの片隅に乗っている内線電話の受話器を上げた。
「メールホルン上級大佐、至急こちらに”助っ人”に来ていただきたい」
親衛隊中将の要望を受けて、ふたつ返事で了承したヘルベルト・メールホルンはそれからすぐにふたりの高官たちが詰める執務室に訪れると、ちらりと旧知の法律家たちの手元を眺めて、空席のマリーの椅子にどっかりと座り込んだ。
そうすると横からすぐに未処理の申請書やら、報告書やらを押しつけられて、手早く受け取ると制服の内ポケットに指を伸ばす。
眼鏡をかけて、手元の明かりをつけると素早く書類の上に走るインクの後を追いかけた。
「部長殿は?」
「さて、今日もどこかをほっつき歩いているのだろう」
一応、出勤はしているらしい。
ロートのリードが壁際に置かれたコート掛けに引っかけられている。当の番犬はすでに警察犬の担当者に引き渡されているのだろう。なにせ、赤号は大柄だから、いかにマリーになついているとはいっても彼女の貧弱な運動量では、ロートの運動量をまかないきることなどできるわけもなかった。放っておけば、犬の闘争本能に火をつけることになるだろう。
だからそのためにも「彼」には充分な運動が必要だ。
日中、彼女が国家保安本部内にいるときは、これらの理由から警察犬の担当者に引き渡されていることが多かった。
「諜報の仕事に関しては、わたしは全く門外漢だが、シェレンベルク少将は一体全体どんな任務に従事しているというのだ?」
メールホルンに率直に問いかけられて、ハインツ・ヨストは天井に視線を上げて数秒考え込んでから、赤鉛筆でメモを取ると、そのメモを紙と紙の間に挟み込んでファイルを閉じた。
「今回の任務について情報を持っている者はそれほど多くない」
端的に言ったヨストに、メールホルンは脇目をそらすこともせずに右から左へ視線を滑らせる。
「ふむ、では前国外諜報局長閣下も知らないと?」
別にメールホルンの言葉に悪気はない。
「……わたしはもう国外諜報局長ではない」
ヨストの不満げな言葉に、メールホルンは静かに笑った。
「失礼した、別にヨスト少将を嘲っているわけではない」
情報管理の達人――。
そう呼ばれながら、ヘルベルト・メールホルンはかつての国家保安本部長官であった今は亡きラインハルト・ハイドリヒの不興を買ったのは、ハインツ・ヨストよりも早い。
メールホルンが更迭されたのは、ポーランドとの戦いのすぐ後だ。
だから本来はメールホルンのほうが先に、ヨストよりも出世コースを外れたのだ。
「……――もちろん、わかっている」
メールホルンも、ハインツ・ヨストもそうだ。
先のポーランド戦以前の作戦では真価の発揮をなしえていないと、ラインハルト・ハイドリヒからそう判断を下された。
だからメールホルンは更迭され、ハインツ・ヨストは再び行動部隊の指揮を申し渡された。
ヨストやメールホルン同様に、当時、同様に真価の発揮を要求されたシュトレッケンバッハやフランツ・ジックスらは「真価」を認められたというのに。
「わたしは、臆病者だ」
苦く笑ったヨストは、自分自身の自嘲を拭えずにいる。
マリーが彼を必要としてくれているのだという、明白な自己認識があって尚、それでも自らに対する嘲笑が拭いきれない。どこに行っても、臆病者であるというヨストの心の奥底に刻みつけられて恐怖の記憶は消え去りはしない。
気が重くなるような記憶を思い出しかけて、ハインツ・ヨストはゆるく左右にかぶりを振った。
「貴官らが臆病者であることと、ラインハルト・ハイドリヒが冷徹であったこと。冷徹と剛胆さと、臆病であることと劣等だということは同義ではない」
不意にベストが、ヨストとメールホルンの話題にくちばしをつっこんだ。
「冷徹であることが勇者の資格なのであれば、そんなものは原始人にでもくれてやればよい。どんな仕事でもいいから勲章がほしいなどという野蛮人はどこにでもいる」
ばっさりと一刀両断したベストの物言いには容赦がない。
「とにかく、我々は今回のシェレンベルクの任務については一切関知しているところではない。おそらく、彼しかなしえぬ任務なのだろう。……ヴァルター・シェレンベルク」
ヴァルター・シェレンベルク。
彼はラインハルト・ハイドリヒの片腕だった。
誰よりも冷徹で、誰よりも感情に左右されることのない。ハンサムで非の打ち所のない、知的な悪党だ。ハイドリヒはシェレンベルクのそんなところを気に入った。
一九三九年のオランダ、フェンローで起きた事件の際、シェレンベルクはヒムラーやハイドリヒの実働部隊として行動したことからもわかるように、いつの間にやら若い青年は年齢に似合わぬ巨大な権力を有するに至った。
「なるほど、ベスト中将もヨスト少将も知らんか」
ひとりごちたメールホルンは、やはり視線を書類からそらすこともなく再び無言になると、そのまま目前の仕事に集中したのだった。
結局、ハイドリヒが必要としたのは、意見などすることのない機械の歯車であったこと。
要するに、ハイドリヒにはベストもヨストも、そしてメールホルンですらも、自分が権力を握るまでの道具でしかなく、権力を掌握した後には不必要だったと言うことだ。それゆえに、ハイドリヒと同世代の法律家たちではなく、若い世代に取って変わられたというだけのことだ。
忌々しいがそれが現実だった。
「我々が、彼を甘く見過ぎていただけのことなのだ」
ぽつりとメールホルンがつぶやいた。
あんなにも国家保安本部の設立に尽力したのは権力を自らが握りたいためだけではなかった。
新たな規則を作り上げるということに、自ら生きる意義を見いだした。ただそれだけだ。
「……我々と同じドイツ人であるという認識そのものが間違いだったのだ」
まるで悟ったようなメールホルンの言葉に、ベストは瞠目した。
同じドイツ人であるという認識そのものが間違いだ。
メールホルンは確かにそう言った。それは、ともすれば独り言のようにも聞こえた。
「もしかしたら、同じ人の形をしていただけで、違う生き物だったのやもしれん」
それを看破するに至らなかったのは、自分の責任なのだ。
「もちろん、わたしは妖怪や幽霊の類などはこれっぽっちも信じてはいないがね」
オカルトを信奉するヒムラーでもあるまいし。
あんな世迷い言につきあうだけでも馬鹿馬鹿しいと思うのに、昨今の若手の親衛隊員の側近たちは親衛隊長官にもあろう人間の言動に真面目につきあっているのだ。
付け加えられた軽口に、ベストは鼻白んだ。
妖怪や幽霊といえば、マリーは信じたりするだろうか?
ふとそんなことが頭をよぎる。
「ところで、ベスト中将」
相変わらずペンを走らせる手と、アルファベットを追いかける目線を忙しなく動かしながらメールホルンがベストに呼び掛けた。
「”彼女”のあの痩せすぎはどうにかならんのかね?」
「どうにかできるならとっくに子豚のようにまるまると太らせるところだが、いかんせん本人の小食と……。あれはもう体質だな。あの体質がたたって食べる先から痩せるのだからわたしにどうにかしろと言わずに、天下のゲープハルト博士に依頼したほうが得策だと思うが」
マリーの横で誰よりも、彼女自身を見守ってきた。
だからベストはあきらめがちに彼女の体型を見守っていた。
さすがに普段の生活にも影響が出そうなほど痩せていくときは口を出すが、今さらそれを言ったところでマリーが大食漢になるわけでもない。
「先日も、陸軍参謀本部の連中と食事をした後に腹をこわしたからな」
父親気取りのエルンスト・カルテンブルンナーが口を出してきて厄介な思いをしたばかりだ。
面倒極まりない事態を思い出したヴェルナー・ベストが顔をしかめた。
「連中は自分たちの胃袋とマリーの胃袋が同じだとでも思っているのではあるまいか」
渋面になってつけつけと不満をもらすベストの様子に、メールホルンは目尻を下げた。
堅物で鳴らしていても、どうやらベストはベストなりに金髪の少女のことが愛おしいらしい。本人はそんなつもりは余りなさそうだが、彼女の体調のこととなると機嫌が悪くなるから言うまでもない。
とりあえず、国外での不穏な状況と、国内の情勢の混乱はともかくとして、特別保安諜報部の部長を務めるマリーはそれなりに自由に、快適に過ごしている様子だった。
「マリーにはサインだけさせれば良い、どうせ難解な書類など理解できないのだから」
パシリと軽くファイルの山をはたいたベストは、壁に掛けられた時計が十二時の時間を知らせるのどほぼ同時に扉が開いた音と、「本物の」コーヒーと焼きたてのパンの香りに眉をひそめると顔を上げた。
「ベックさんちで、パンの焼き方を教わってきたの」
暢気な少女の声が聞こえた。




