10 天使の祈り
あの子がどこの誰かは知らない。
気がつけばあたりまえのようにハルダーの執務室の住人になっていた。多忙な国家保安本部の情報将校のはずだろうに、屈託のない笑顔で当たり前のように出入りしている。
持病の心臓病が寛解してハルダーの執務室に顔を出したグデーリアンは室内のソファに丸くなって眠っている少女に目尻を下げる。
しばらく考え込んでから、金髪の少女の隣に腰をおろしたグデーリアンは彼女を起こさないように注意を払った。
一昨年前の東部戦線の経過は、ハインツ・グデーリアンの精神に大きな負担となってのしかかった。
更迭されて、戦場に出ることもままならず、多くの将兵たちが死んでいくことを遠くベルリンの地から見守ることしかできなかった。それが歯がゆくてならなくて、そんな精神的な重い疲労感にグデーリアンは文字通り疲れ果てた。
そんな折り、ハルダーやベックと言った生粋の参謀将校たちの間をひらひらと舞う蝶のような存在に気がついた。
蝶々――。
言い得て妙だ。
他者の持つ権力にも興味を示さず、ただ、自分の感じたままに行動しているようにも見える少女。
聞けば、彼女は唯一の女性のナチス親衛隊員であるということで、しかもその所属は国家保安本部と親衛隊全国指導者個人幕僚本部だった。直属の上官にあたるフランツ・ハルダーに言わせるとどうやら彼女はナチス親衛隊全国指導者、ハインリヒ・ヒムラーの私設警察部隊であるということだった。もっともその任務と権力はどこからどう見ても、既存の警察権力を大きく逸脱させたものであるようにも見えなくもないということだ。
そう言われて改めて彼女の周りを眺めてみれば、国家保安本部の設立に重要な役割を担った警察官僚らで構成されたヒムラーの部隊は、陸軍参謀本部にとって警戒をさせられて当然のものでつまるところ、危険極まりない。
彼女は、そんな組織の部署長だ。
「君が……」
どうやらハルダーは不在の様子だ。
昨年の秋から冬にかけてかろうじて東部での戦闘行為は終幕を迎え、長大な兵站に消耗しきった陸軍は現在、ドイツに帰還してその力の再編に取り組んでいる。
剛胆なグデーリアンらしくもなく、不用心に眠っている少女にそっと大きな手を伸ばしてから金色の小さな頭を撫でて溜め息をついた。
いつのまにか、彼女の存在に癒されていた。
彼女も国家保安本部と親衛隊全国指導者個人幕僚本部に所属している以上、もちろん暇ではないはずだ。そもそも、体力にも体格にも老齢とは言え軍人のハルダーやグデーリアンらと比較しても遙かに劣る少女のはずだったから、普段の勤務を終えてから陸軍参謀本部を訪れるだけでも大きな負担になっているはずだ。
だから彼女はいつでも陸軍参謀本部のハルダーの執務室で眠そうなのだ。
グデーリアンにはそれが「わかって」いる。
静かすぎるほど静かなハルダーの執務室で、そんなことを考えたせっかちハインツは、扉が開いた音にそっと視線だけを上げて執務室の主を見つめ返して表情を改めた。
「これはどうも、ハルダー元帥」
穏やかに、あえて声を低くして座ったままで気軽な敬礼をしたグデーリアンに、ハルダーも素っ気ない返礼をして視線だけでじろりと彼の手元の少女の頭を見下ろしてから、鼻から息を抜いた。
「どうだね? 装甲部隊の再編は進んでいるか?」
問いかけられてグデーリアンは首をすくめた。
「えぇ、一昨年前の東部戦線はどうなるかと思いましたが、昨年の青作戦では我々が考えたよりも消耗が小さく済んだことが幸いでした」
これ以上、ソビエト連邦との戦争が長引けばドイツ軍はかつてロシア遠征におけるナポレオン・ボナパルトの失敗と同じ轍を踏む羽目になるだろう。
そんなことがあってはならない。
そして、仮にソビエト連邦との戦争が長引いた場合における人的、あるいは物的損害など余り想像もしたくはない。もっとも考えたくないという理由だけで現実から目を背ければ、事態が改善するわけではない。
野戦指揮官であり、参謀将校である以上、グデーリアンやハルダーと言った高級将校には不愉快な現実に目を留める責任があった。
――そう、責任だ。
兵士たちに「死んでこい」と命令を下す責任。
それは余りにも重い。
「死んでこいと、命令するのは簡単です。元帥」
「……それもそうだ」
言うだけならば簡単だ。
ヒトラーや、ゲッベルスのように戦争を焚きつけていればいいだけの身分と、参謀将校らでは立場が異なる。
「自ら死にに行くだけの勇気がないのであれば、戦争を無意味に煽るべきではありません」
本音を口にしたグデーリアンに対してハルダーはぎろりと目玉を動かして、目の前の装甲兵総監に視線をくれた。
グデーリアンは現在のドイツ政権下にあって危険な発言をした。
さすがのヒトラーも現在の情勢下で、自らの結果的に自らの身の危険を招き寄せるような危険は犯さないだろうが、ハイドリヒの築き上げた政治警察は違う。
もしかしたら、現在のエルンスト・カルテンブルンナーの指揮する政治警察が、かつてハイドリヒが指揮していたそれとは異なる組織として進化していてくれればありがたいとも思うのだが、組織のあり方を考えるとそれほど簡単な変化が望めるわけもない。
「わたしの考え方が危険なものだとお思いですか?」
「”それほど少なくない”連中が、似たようなことを多かれ少なかれ考えていると、わたしは一個人として思っているが、問題は総統閣下か」
静かに言葉を綴ったハルダーはハインツ・グデーリアンの手元で安らかな眠りに陥っている金色の長い髪の少女の頭に視線を向けた。
「だが、危険な橋を渡ることには代わりはないな」
いくら彼女が無粋な軍人たちの心に安らぎを与えてくれたとしても、大局が変わるわけではない。
だから、安直な政権に対する批判は命取りになりかねない。
ありとあらゆる意味で……――。
大人たちがそんなやりとりをしているところに少女がもぞりと体を動かして、鬱陶しげに自分の頭をなで続けていたグデーリアンの大きな手をどかしながら黒いタイツをはいた足を伸ばしてから顔を横に向けて目を開く。
絨毯の上におろされた足の動きでめくれ上がったスカートの裾をグデーリアンは長い腕を伸ばして治してやると、小さなうめき声を上げてから彼女は体を起こして目を擦る。
「おはようございます、ハルダー元帥」
「やぁ、君も疲れていそうだね」
「……大丈夫ですけど」
マリーは言いながら小首を傾げた。
「しかし相変わらず寝起きが悪いと聞いているが」
皮肉げなハルダーの言葉に、マリーは数秒だけ沈黙してから少し不満げな表情になった。
どうやら寝起きが悪い事については異論の差し挟む余地がないらしい。
「そんなこと言われても……」
「ひとり暮らしは限界なのではないかね?」
どうせほとんど自宅になっているアパートメントには寝に帰っているだけだろう。十代の少女がひとりで生活するにはいろいろと障害が多すぎるのが戦時下だ。
そういえば彼女はハルダーの前任でもあるベック邸でよく寝起きしているとも聞いた。
本人に余り生活力のないマリーだから、おそらくそうした生活の上の支援がなければすぐに破綻していただろう。
「でも……」
ナチス親衛隊――国家保安本部と言えど、そこはドイツ人の集団であることには変わりはない。
彼らは一様に国家の歯車であることを自覚している。
「まぁ、それはそれとして、君が陸軍参謀本部に出入りしていることを面白く思っていない者がいることについてはどう考える?」
「別にどうとも……」
マリーは自分に投げかけられた言葉に、腑に落ちない表情をたたえたままで少しだけ考え込んでから視線を天井に向けて黙り込んだ。
「君は見かけによらず、物事の端々に視線が届く。だからゆっくりと考えてから答えてくれて構わん」
聞いているのがマリーでなければ、気分を害したかもしれないハルダーの言葉に、当の金髪の少女は朗らかに笑うと細い足をぶらぶらと揺らしてからソファに両手をついて体を支えると浅く座り直してハルダーとグデーリアンを交互に見つめた。
そんな行儀悪く揺らされている膝をグデーリアンが片手で押さえてやると、はしたないと注意されたことに気がついたのか足を揺らすのを止めてから、興味深そうに瞳を煌めかせる。
「いろんな人がいますもんね」
マリーが短く告げた。
彼女の言葉はいつでもそうだ。
思慮が足りないように思えながら、マリーの言葉はいつでも正確に核心を突く。
「そう、それだ」
「いろんな人がいるのはナチス親衛隊も、国防軍も一緒なら、別に”取るに足りない”ことだと思います。でも、いちいちそんなことにハルダー元帥が気にしても仕方のないことだと思いますけど」
語彙の足りない彼女の物言いはいつでも率直だ。
おそらく、発言者が彼女でなければ無礼な言動が許されることもなかったかもしれない。
ナチス親衛隊員であり、国家保安本部の情報将校でありながら、彼女は誰よりも客観的な視野にあった。
自らは権力も、権限もなければ威信もない。
だからこそ彼女は「自由」だ。
まるで野に舞う蝶のように。
男たちが自尊心や野心に取り憑かれている一方で、彼女自身はそれらに捕らわれる事などありはしない。それが女であるという――そして子供であるということの特権だった。とはいえ、仮に彼女が権力を欲すればそればかりではなかったが、常に彼女の関心はそんな者に向けられては居ない。
彼女を誘惑できるものは甘い菓子だけだ。
「……――君はいつも正しい」
ハルダーは溜め息混じりに苦笑した。
子供らしい素直な視点が、率直に問題の本質を捕らえていて、それこそが良識はありながらもひねくれた大人たちの心を揺るがした。
「正しいが、それにしてもあの”出しゃばり”共をなんとかしないことにはな」
婉曲にそう評したハルダーが眉の間にしわを刻んで考え込むと、マリーが自分の口元に手を当ててクスクスと笑い声を上げた。
「大丈夫ですよ、”そんなこと”ハルダー元帥が今さら気に掛けなくても、勝手に自滅します」
話が通じているのか通じていないのかわからないやりとりに、少女の隣に座っていたハインツ・グデーリアンが眉毛をつり上げた。
「……君はそう言うが、政権が自滅するか、それとも戦争に自滅するか。その二択だ」
このまま戦争が長引けば政権の自滅と、軍事上の敗北は同時に訪れることになるかもしれない。
ドイツ軍人としてそんなことは二度と許されてはならない。
「先の戦争での”過ち”は繰り返されてはならん」
それがプロイセンの軍人としての確固たる決意だ。
フランツ・ハルダーの言葉に視線を上げたグデーリアンに、少女はややしてからにこりとほほえむとキラキラと光る瞳で老将を見据えて思わせぶりに口を開く。
「わたしの気持ちはハルダー元帥と同じよ。”だって、わたしはそのためにドイツにいるんだもの”」
「ふむ」
執務机に頬杖をついて目を伏せたハルダーは老眼鏡を指先で弄んでから鼻から息をぬいた。
「それで、グデーリアン上級大将。”君”の体調はどうだね?」
「もっぱら好調ですよ、元帥」
「心臓がとまったら人間は生き返れないのだがね?」
「……お気遣いは無用です。”わたしは死ぬまでドイツ軍人であると言うことを誇りに思います”」
かすかに口角をつり上げて軽口で混ぜ返したグデーリアンに、「えーっ?」と声を上げたのは彼の隣に腰を下ろしたマリーのほうだ。
「死んじゃだめよ、グデーリアン上級大将」
「もちろんまだまだ死ぬつもりはないさ、マリー。君の結婚式に参列するまでは死ねんよ」
ありきたりで面白みもないグデーリアンの言葉に、ハルダーは声もなく笑うと胸の前で腕を組んだ。
「とりあえず、マリーの結婚式に参列するかはともかく、当面の問題はロンメルの北アフリカだな。今までの実績から考えると十中八九ヒトラーが口を出してくることは間違いないだろう。とりあえずそちらをどうやり過ごすか、だな」
所詮、ヒトラーもゲーリングも戦争の素人だ。
ポーランドの時も、フランスの時もそうだった。たまたま素人の発想が軍人たちの発想を凌いだにすぎない。
時として「ずぶの素人」が、「専門家」の技術と知識を飛び越えていくことはままあることだ。
「やれやれ、困りましたな」
にやにやと笑うグデーリアンに、ハルダーは首をすくめた。
「まったくだ」




