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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXVII バビロン
372/410

9 回旋

 じろじろとプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセの国家保安本部で入り口を警護するナチス親衛隊の下士官たちは、経済管理本部のナンバーの車からおりてきたソ連人に不審な眼差しを突き刺した。

 高緯度のベルリンの春は遅い。

 モスクワと同じだ。

「早く来い」

 ロシア語で乱暴に言われて、肩をどつかれた三十代の青年は長身の強面(こわもて)のドイツ人たちが出入りしていることにさしあたった言葉を見つけられずに、堂々たるその政治警察の中枢を見上げている。

「おい」

「……わかりました」

 どれだけ考えてみても父親の助けなどくるわけもないということは理解できた。

 彼の祖国ではクーデターが発生し、ヨシフ・スターリンは失脚し不満の積もり積もった軍部によって擁立されたニキータ・フルシチョフが実権を握った。そうした経緯を考えれば、他の捕虜たちに対する考慮はともかく、優先的にヤーコフ・ジュガシヴィリの身の安全を確保するとは考えにくい。

 つまるところ、ドイツのナチス政権にとっても――。そしてソビエト連邦政府にとってもスターリンの息子――ヤーコフ・ジュガシヴィリの政治的取り引きのカードとしての価値はなくなったというに他ならない。

 ヨシフ・スターリンがいなければヤーコフ・ジュガシヴィリの権力など欠片も裏付けをされはしないのである。

 死ぬことも恐ろしくはない。

 そう思っていたが、ナチス親衛隊派さらに一枚上手だった。

 死ぬことも許されぬ。

 武装親衛隊と経済管理本部のナチス親衛隊員、そして、ゲシュタポの荒くれた捜査員とに取り囲まれて歩を進めたグルジア人青年は、じっと唇を引き結んでから視線を足元に落とした。

 どうすることもできはしないという居心地の悪さに、彼は眉をひそめた。

「敵の本拠地は居心地が悪いか?」

 唐突に問いかけられてヤーコフ・ジュガシヴィリはぎょっとした様子で顔を上げた。通訳を介して言葉を投げかけてきた相手に、ジュガシヴィリは両腕を胸の前で軽く上げたり下げたりしながら挙動不審に陥った青年に、それほど体格が良いとも思えないドイツの警察官僚は理性的な瞳を閃かせる。

「マ、マリーは……」

「赤軍中尉ヤーコフ・ジュガシヴィリ」

 切って捨てるようにベストが呼び掛ける。

「彼女は親衛隊少佐だ。貴様よりも階級は上なのだからな。たかが我が国の捕虜である身の上で言動はもう少し慎んだらどうだね?」

 冷ややかに、ジュガシヴィリにベストが言い放った。

 ナチス親衛隊少佐――。

 赤軍中尉のジュガシヴィリよりもずっと階級が高い。

 ドイツ語の不便な青年士官はぼそぼそとロシア語で悪態をついた。

「マリー少佐は、どこに……」

「国防軍に遊びに行っている。そろそろ戻ってくる頃だとは思うが」

 腕時計の文字盤をじろりと睨んでから、自分の背後に控えている大学生の秘書に視線を走らせる。

中将閣下(グルッペンヒューラー)。テレタイプで連絡が入りました」

「言え」

 短く命じたベストに、秘書のハンス・ショルは手元の書類に視線を落とすと口を開く。

「陸軍参謀本部のハルダー元帥閣下から直々のもので、ハイドリヒ少佐は昼食を取ってからこちらに戻るとのことです」

「うむ、承知した」

 公にはされていないが、国家保安本部の国外諜報局長ヴァルター・シェレンベルクが、一命を受けてドイツ国内に不在である以上、国外諜報局の総務部と連携してその業務を一手にする「ベストとヨストの」特別保安諜報部は多忙を極めている。

 部署長のマリーが陸軍参謀本部と国家保安本部の間をふらふらと遊び歩いているという状況は余り好ましくないのだが、正直なところ、彼女が執務室にいたところで、せいぜいサインする程度の仕事しかなかったから、ベストとしては今さら彼女の行動に否やを唱えるつもりはなかった。

 問題は、と考えながらちらりと視線を走らせた。

 問題はマリーが迎えると言い出したこのグルジア人の存在だ。

 敵の敵――たとえば、イギリス空軍の特殊空挺部隊スペシャル・エア・サーヴィス出身の裏切り者のアイルランド人のように。ドイツ人の口車に乗せられた者もいる。しかし、それはそれだ。

 彼らは一兵卒ではなく、「スターリンの息子」なのだ。

 やはり土壇場になって寝返るかもしれない。

 信用ならないという意味ではマリーが戻るまで、独房に放り込んでおくのが良いのかも知れないが、そんなことをマリーが知ったら好感を持たないだろうことは明らかだ。そんなわけでとりあえず、応接室に厳重な警戒態勢を敷いて監禁することにした。

 あくまでも、未だ、スターリンの息子は敵でしかない。

 ベストが国家保安本部でヤーコフ・ジュガシヴィリの取り扱いに頭を悩ませている頃、マリーは陸軍参謀本部から戻る車の中でマイジンガーから報告を受けていた。

 一応、マイジンガーはマイジンガーなりに、部署長のマリーを尊重しているつもりらしいが、傍から見ている分にはどこからどう見ても甘やかしているようにしか見えない。

「ヤーコフ・ジュガシヴィリの語学教育が一段落したと言うことで、国家保安本部への移送がすんだと親衛隊全国指導者個人幕僚本部から連絡が入った」

「言葉を覚えるって大変なのね?」

「それはそうだろう。国境付近にでも生まれなければ、外国語に接し続けて生活することなどできはしないからな。なにより、それを流暢に理解するとなれば、簡単な話ではない」

 法律家や科学者でも母国語しか理解できない者も多くいるのだ。

「わたしはわかるわ」

 自分がわかるから、他人にできて当たり前だというおおよそ短絡的な少女の言葉に、彼女の護衛部隊の指揮官としての大義名分を得て常にその傍らにいることができる理由ができたマイジンガーは、あきれた様子でかぶりを振ると溜め息をついた。

「理由はわからんが、君がロシア語をわかるのは特別だろう」

 なぜ彼女が外国語がわかるのかは、さておくとして。

 ヤーコフ・ジュガシヴィリの身柄について関与しているのは、武装親衛隊と経済管理本部、そして親衛隊全国指導者個人幕僚本部と国家保安本部だ。つまるところ、いかに彼の身の上が取り引きのカードとして使えなくなったとしても、やはり重要でデリケートなところに位置すると言えただろう。

「”別にそんなこと大した問題じゃないわ”」

 後部座席に腰を下ろしたマリーは、助手席に座っているヨーゼフ・マイジンガーの頭を眺めながらそう言ってほほえむと、口元に片手をあててクスクスと笑う。そんな彼女の物言いに異論はあったが、全面的に少女のことを信頼している禿げ頭の男は小首を傾げただけで唇を引き結んだ。

 おそらくベストやヨストはジュガシヴィリの扱いに困っているだろうということは容易に想像がついた。これは、国家保安本部に所属する者のみならず、誰もが同じように感じただろう。

「大した問題だろうと、そうでなかろうと、とりあえずプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに戻らなければベスト中将とヨスト少将辺りが機嫌を悪化させているだろうからな」

「どうして困るの? 彼がスターリンの息子だから?」

 マイジンガーとマリーは、そんな遠回しなやりとりを交わしながらプリンツ・アルブレヒト・シュトラッセに帰路をとった。



  *

 フランスの首都――パリではユダヤ人らを含めた異民族に対するテロル行動が頻発していた。被害者の中には、反ドイツ的な主義主張を唱える地下組織の一派や、シャルル・ド・ゴールの率いる自由フランスに連なる実働部隊も対象とされている。

 そんな状況に対して、ヴァルター・シェレンベルクは隠れ家にしているアパートメントの一室で、窓際の粗末な木製のテーブルの上に使い込んだノートを開いてそっとほくそえんだ。

 オーストリアの人権活動家の存在の情報はすでにホリア・シマのところへ届いているだろう。

 ――ホリア・シマ。

 ルーマニアの狂犬は、強硬な反ユダヤ主義者でその手段を選ばないことで知られている。その苛烈さは、ルーマニア王国の首相、イオン・アントネスクすらも手を焼いたほどだ。

 そうなれば遠からず、シマの息のかかった部隊はシェレンベルク――オットー・ミュラーと接触しようとしてくるだろう。そうなれば、シェレンベルクにしてみれば全力で叩きつぶすだけのことだったし、それを根拠としてシャルル・ド・ゴールの自由フランスに付け入る隙が生まれるだろう。

 そもそもシェレンベルクの今回の任務は、自由フランスを叩きつぶすことではない。そもそもシェレンベルクは政治家であり、警察官僚であり、そして諜報部員だから軍人ではない。

「俺が軍人共と同じだと考えるなら大間違いだ」

 影から影へと、身を潜め。

 その活動は誰にも知られる事はない。

 そして、彼らの祖国に対する英雄的な行動は、決して表立って賞賛されるようなものでもない。

「……ムッシュー・ミュラー」

 コツコツとアパートメントの扉が控えめにノックされる音に、シェレンベルクは顔を上げた。

「どうかされましたか?」

 数秒で表情を取り繕って、シェレンベルクは窓際の椅子から立ち上がった。

 これ見よがしに黒い皮の表紙のノートを広げたままにしているのは意図的だ。

 ドイツ屈指の大物スパイは、最初から全てを計算し尽くしている。

 自分の行動が、相手にどんな心理的な影響を与えるかも。そして、その結果どんな事態が発生するのかも。

 ルーマニア人の「命」も、フランス人の「命」も「取るに足り」ない。

 だから、シェレンベルクは冷徹に笑う。

 静かなる戦争――。

 戦争をしている以上は誰かが死ぬのは当然だ。誰の命も同等で、シェレンベルクにとってみれば、相手の人種も、思想も、全てに価値がない。

 彼にとって最も大切なものは自分自身だ。

 だから……――。

 アパートメントの扉を開きながらシェレンベルクが問いかけると、地下組織の伝令を務める中年の男はハンチング帽を片手で直してから周囲を見回すと、口元に片手を当てて声を潜めてから、どこか悲愴的な表情で眉間にしわを刻み込んだ。

「パリは物騒ですよ。先日、ムッシュー・ミュラーにお話した件ですが、東方から差し向けられたスパイがパリに入り込んでいるのは確実な様子です。おそらく、ムッシューの情報もすでに入手していると思われますが……」

「あぁ、ありがとう。今のところはわたしの身に危険は迫っていないし、連中もわたしの顔を知っている訳じゃない。……とはいえ、パリも物騒なことには代わりがありませんので、充分注意することにします」

 個人を相手に一個中隊を差し向けてくると言うわけでもないだろう。

 そんなことをすればヴィシー・フランスの警察部隊を焚きつけるような事態になりかねない。それは政治家でもあるホリア・シマにもわかりきっていることのはずだ。

 政治家としては愚鈍だが、一般人と比べれば狡猾だ。

 ホリア・シマとはそういう男だ。けれども、そんなホリア・シマが相手にしようとしているのは一般市民でもなければ、頭の悪いフランスの官僚や政治家でもない。

 生粋の諜報部員だ。

 せいぜい政治屋上がりのならず者風情に、シェレンベルクを手玉にとる技術などあるわけもない。

 ホリア・シマよりも、シェレンベルクのほうが一枚も二枚も上手(うわて)だった。

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