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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXVII バビロン
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7 手探りの感触

 ナチス親衛隊の国家保安本部はいわゆる政治警察の中枢だ。中でも、いわゆる敵性分子の取り締まりや摘発を行うハインリヒ・ミュラーの国家秘密警察と、アルトゥール・ネーベの刑事警察は、ハインリヒ・ヒムラーとアドルフ・ヒトラーの支配する恐怖の中心地として有名だ。

 ――ゲシュタポはどこにでもいる。

 そう恐怖の代名詞として囁かれるほど、ヒトラーのために築かれた帝国はかつて、生前のラインハルト・ハイドリヒという突出したカリスマ性を持つ男によって執行された。

 そんな国家保安本部の中にやや警察組織そのものとは異色さを兼ね備えた諜報組織の存在があった。

 組織の概要を知るのは、おそらくハイドリヒだけとも言われている。

 そんなラインハルト・ハイドリヒはチェコスロバキア亡命政府の手によって暗殺されて、この世には存在しない。

 謎めいた諜報組織。

 ハイドリヒの指令のもと、ありとあらゆる悪辣で残虐な作戦が実行に移されたことを、ヴィルヘルム・フォン・レープは全く快く思っていない。

 それがそもそものレープら、いわゆる国防軍に所属する軍人たちの見解だ。

 その見解と相容れず、ナチス親衛隊のきらびやかな選民主義に毒された者は、多くがその所属を変更した。

 もちろん、レープはその決断を完全否定するわけではない。

 それもひとつの選択だ。

 中には、特にナチス親衛隊の選民意識ではなく、国防軍内の権力闘争に敗れた者が結果的にナチス親衛隊に居場所を求めたという例も多々あった。

 けれども、やはりそんな中にあって、国家保安本部とは異質な存在だ。

 ナチス親衛隊とは言え、「彼ら」もやはりレープら国防軍人らと同様に平凡なドイツ人だ。

 平凡な人間だ。

 だがしかし、国家保安本部の存在は若く、野心に満ちあふれている。

 年齢を重ねた組織とはまた異なる異質な「組織の総意」が、凶悪な暴走を生み出した。

 個人としての野心と、知識人としてのプライドと、さらに若さからくる体力と精神力。そして彼ら若い世代は国際社会から受けた不当なドイツに対する扱いと、世代として同じように家族、血縁者を失った痛みを共有する。

 彼らは同様に屈折し、その精神性はどこまでも凶暴に駆け抜ける。

 若さとは、時に恐ろしい力を生み出すものだ。

 本来であれば光と希望に満ちあふれた未来を映し出すものであるはずだろうに、彼らの若い眼差しは、ドイツの敗北と、飢餓と、政権の混乱とを同時に映し出した。

 それが絶望のはじまりだったのだ。

 問題の金髪の少女――マリア・ハイドリヒ。国家保安本部国外諜報局特別保安諜報部長、その最も近い場所で彼女を支えるのは、かつて国家保安本部の幹部として名前を連ねた知識階層(アカデミカー)である。

 ヴェルナー・ベスト、ハインツ・ヨスト。

 ラインハルト・ハイドリヒの台頭を支え、国家保安本部の設立と、権力拡大に尽力した。もっとも、そういったところで部外者のレープなどには、彼らの存在はハイドリヒの手足であった法律家という程度の偏見にまみれた認識しかない。

 彼らがハイドリヒの権力の掌握の一助となったのだ。

 背筋が凍り付くような決断と、その結果生み出されることになるだろう事態を黙認した罪は重い。

 そんなベストとヨストが補佐官として付き従うという小さな少女。

 国防軍の将校を見慣れているレープなどから見れば、どこからどう見ても貧相な体格で、見ているほうが「この先生き残れるだろうか」と心配になりそうだ。そして、うっかり彼女の貧弱な体格に同情しかけて、ヴィルヘルム・フォン・レープは額に片手を当てると思わず深く溜め息をついた。

 ナチス党の党員には女性も多い。

 大概そうした女性らは――もちろん、男女にかかわらず――、ヒトラーやゲッベルスが声高に主張するプロパガンダに毒されて強烈な選民主義に捕らわれた者がいた。

 決して、人とは特別ではない。

 普遍的に、誰もが等しく平凡なのだ。もちろん、自分が特別だと考えたいという気持ちは理解できなくもない。

 ――選ばれた人間だと、考えたいのであれば努力すべきなのだ。

 それを彼らは安易な政策によって間違った方向に推し進めようとしている。

 彼女も、幼くしてそんなくだらない選民思想に捕らわれているのだろうか……?

 そんなやるせない思いに捕らわれて、レープは軽く首を回した。

 年端もいかない子供が、そんな歪んだ英雄願望に捕らわれているなど考えたくもなかった。

 そんなことを考えてから、レープは彼女と待ち合わせているベルリン市内のホテルのレストランに足を運んだ。

 別にどこでも良かったのだが、自宅に招いて政府首脳部から余分な疑惑を招くことも厄介だし、かといって、今は戦時中だから個人経営のカフェなどもほとんど開店休業状態だ。

 現在のドイツ国内の経済は逼迫している。

 そんなわけで、レープは自分の立場も考慮して、それなりに人目のあるホテルのレストランを選択したのだ。

「こんにちは、レープ元帥」

「我々も暇ではないのですが」

 レープの電話での提案通り、フィールドグレーの制服を身につけたヴェルナー・ベストが、どこか険しい表情で長身の陸軍元帥を見つめ返した。

 少女のほうはと言うと、金色の長い髪を両サイドで三つ編みにして灰色のカーディガンに白い丸襟のブラウスを身につけている。全体的に上品なコーディネイトだが、おおかた本人の好みというよりは、彼女の周囲の大人たちの好みによるところが大きいのだろう。そうレープは冷ややかに観察する。

「全く、国家保安本部はいつでも忙しそうでなによりだ」

 嫌みまじりになるヴィルヘルム・フォン・レープに、ベストのほうはかけらも表情を変えずに視線だけを横に滑らせる。

「えぇ、現在、占領地域については現地警察も動員し早急な治安の回復に努めております。我々は戦争が終わってからが本領ですので。元帥閣下」

 レープの威圧感に臆することもなく、ベストは冷静に言い放つ。

 彼ら若者たちは国防軍の重鎮たちの権威に気後れしない。聞く者によってはベストとレープの会話は互いに腹の探り合いに精を出しているように見えたかも知れない。実際、確かにそうした面もあったが、レープとベスト――国防軍陸軍とナチス親衛隊という立場の違いがある以上、妥協の許されない一点でもあった。

 どちらが優位に立つか。

 まるでそれを決定づけるためにふたりは言葉を交えた。

 四十歳手前のベストと、六十代の半ばを越えたレープとでは親子ほどの年齢差があるというのに、そのことにさえベストは一歩たりともひきはしない。

「傲慢だな」

「閣下はそのように申されますが、占領地に展開する国防軍の各部隊の安全も考慮いたしますと、治安維持を軽視するわけにもいかないのではありませんか?」

「やり過ぎだと言っているのだ」

「これはこれは……、我々がいつ越権行為に走ったと?」

 皮肉げに口角を引き上げたヴェルナー・ベストの言葉に、レープの眉毛が鋭くつり上がった。

「そもそも閣下が前提とされている話が、国家保安本部全体のことを指しているのか、彼女と我々の部隊のことを指しているのか、理解致しかねますな」

 つまるところ、国家保安本部の作戦行動そのものことを言っているのか、特別保安諜報部の任務について言っているのかとベストはレープに指摘したのである。

「貴官らは黙認しているではないか」

 余裕の姿勢を崩さないベストに、もちろんレープは追及を緩めるつもりなどなかった。気後れした方が負けるのだ。それを戦略家でもあるレープは理解していたし、ベストはベストで引くつもりはかけらもない。

 相手がたとえ国防軍の重鎮であったとしても。

 彼らの決断が大ドイツを貶めたのだ。

「……では、誰が力なき同胞が現地入りしたときに守るのです」

 そのためには必要なことだ。

 ベストはそう切り捨てた。

「偽善だ……」

 低くうなるようにレープが歯ぎしりすると、ベストは冷笑するように口元に笑みをたたえる。

 必要であれば、その程度のポーズはいくらでもできる。

 ラインハルト・ハイドリヒの下でそうした技術を身につけた。

「それで、閣下が話しがあるのはマリーだと伺いましたが」

 勝利を確信したベストが話の腰を折って、レープを追い詰める。

 戦場で戦うことと、残酷であるということは紙一重だ。

 ベストに言われて、レープは呼吸を整えると表情を改めた。

「……うむ」

「難しい話は好きじゃないわ」

 マリーがそっと目を細めてから、ふたりの男たちの関心が自分に向けられたことを感じ取って唇を尖らせた。

 彼女の反応から察するに、四六時中叱りつけられているのだろう。

「……それに怒ってる人は好きじゃないわ」

 困ったようにベストとレープを代わる代わる見比べた彼女は、肩を落としてから目の前に置かれた紅茶のカップに指先で触れる。

「単刀直入に聞くが、どうしてナチス親衛隊の人間が陸軍参謀本部に出入りしているのだ?」

「だって、勉強会するって言ったのはハルダー元帥よ?」

 マリーがレープの問いかけに即答した。

 まるでなにを言っているのかわからない、とでも言いたげな彼女の眼差しにレープは数秒ほど考え込んで右の手のひらで顎を撫でる。それから手持ちぶさたに口ひげに触れてから、咳払いをした。

「君だけが?」

「……どういう意味ですか?」

 マリーは眉間を寄せた。

 どうやら彼女には大人の作法で問いかけても無駄な様子だ。ハインツ・グデーリアンが彼女と言葉を交わす場を設けてはどうかというものだから、わざわざ時間を割いたのだが、これでは基礎教育期の子供でも相手しているような気分になってくる。

「君だけが参謀本部に出入りしているのかと聞いているのだ」

「そうですよ? だって、ベスト博士やマイジンガー上級大佐を連れてきちゃ駄目ってハルダー元帥が言うからわたししか陸軍参謀本部には入れないんだもの」

 その辺りの良識はハルダーにも一応あるらしい。

「君が陸軍参謀本部で入ったことのある部屋は?」

 これも形式的な問いかけだった。

 仮に彼女が素直にレープの問いかけに応じたとしても、偏屈な年寄りであると自覚している老将は頭からマリーの答えを信用する気はない。

 なぜなら、彼女はナチス親衛隊だからだ。

「ハルダー元帥の部屋だけですけど」

「それもハルダーから命じられたのか?」

 詰問するようなレープの物言いにマリーは唇を尖らせてからピンク色の頬を膨らませて大きな青い眼をつり上げる。

「わたしが国家保安本部に所属しているからハルダー元帥の部屋以外入ってはいけないって言われたんです」

 マリーはそう言うと怒ってしまったようでぷいっと横を向いてしまった。

 どうやら疑いをかけられているようで面白くないようだ。

「……なるほど、そうか」

 ふむ、と相づちを打ちながら大きく頷いたレープが、怒ってしまった少女を相手に黙って考え込んで目の前のテーブルに視線をさまよわせていると、しばらくしてからその場の空気に、レープを見上げるようにして睫毛を上げる。

「ベスト博士……」

 少女がそっと自分の隣に腰掛けたヴェルナー・ベストの袖を引いた様子が、レープの視界に入った。

 耳打ちでもするように小声で自分の隣の法学博士に話しかけた金髪の少女は、レープが向けてくる感情が理解できずにいるようだ。

「わたしがナチス親衛隊だとなにか問題があるの?」

 それは彼女らしい疑問だったが、突撃隊に対しても、国防軍やナチス親衛隊に対しても変わらない態度をとる。

 それは現在のドイツにあって恐るべきことだ。

 一般市民であればともかくとして、彼女はナチス親衛隊の国家保安本部の情報将校なのである。そう考えれば、本来であれば本人も接するほうもある程度以上に構えた態度をとってもおかしくない。

 とはいえ、彼女に「理屈」は通用しない。

「どうしてレープ元帥は怒っているの?」

 マリーは真顔で火に油を注いだ。

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