12 嵐の予感
七月の末、総統官邸で毎朝行われている作戦会議で親衛隊情報部によって立案されたある秘密作戦が認可された。
その秘密作戦はアメリカの戦略情報局によって計画され実行に移されようとしていたドイツ第三帝国総統アドルフ・ヒトラーに対するテロリズムへの報復攻撃と位置づけられる。
この秘密作戦は国家保安本部によって立案され、国防軍司令部、国防軍情報部、親衛隊情報部によって慎重に検討されて大筋が決定された。
当初、騙し討ちともとれる作戦にヒトラーを含めて国防軍司令部は良い顔をしなかったものの、ヒトラーに対するテロリズムを行ったアメリカ合衆国に報復すべしという一部の強硬な意見もあり、これを認可されることになった。
「決して我が国の報復攻撃であるということだけは相手に悟られてはならん。もっともいずれは知られることになろうが」
そして重要な点が取り決められた。
この作戦において、国防軍及び、それに準じる武装組織を使わせない、ということだった。悟られぬようにアメリカ合衆国を混乱に陥れ、その行動を封じるのが今作戦の目的だった。
この特殊作戦のために選抜されたのが、イギリスの植民地であるインドの奥深い村に住むアメリカ人医師の一家だった。
いわゆるドイツ系アメリカ人だがその内実は生粋のナチズムの信奉者である。
一週間以上かけて届けられた電文を受け取った一家はこうして母国アメリカ合衆国へと帰国することになった。
夫が妻と娘を振り返る。
「そろそろ合衆国へ帰る準備をしなければならんな」
「村の人が悲しみますね」
そう告げた妻にそっと夫はほほえんだ。
「この村の人はみんな強い。病に打ち勝てたのだから、我々がいなくても大丈夫だ」
「えぇ、そう願います」
病気の蔓延するインドの奥深くで、長年僻地医療にたずさわってきた一家だ。そんな地域の医師が母国へ帰国するということを悲しまない村人はいないだろう。
わかっていても「本国」からの司令なのだ。アメリカへ戻らなければならない。
多くのことを考えながらそうして彼は目を伏せた。
*
自分の中にどうしようもない矛盾が存在していることをヴァルター・シェレンベルクは自覚している。
もっとも自覚しているからと言って、それをどうすることもできないというのが彼の立場であった。
「今は戦争中なのだ」
不意に声が聞こえてきて、シェレンベルクは目をみはった。ぴょこりと顔をのぞかせて彼をのぞき込んだ少女は青い瞳をまたたかせてにこりと笑った。
「どうした」
窓ガラスに寄りかかったままで通りを眺めていたシェレンベルクは胸の前でくんでいた腕をほどいて体の向きを変える。今度は背中をガラスに預けてから首を傾げた。そうして少女の頭頂部を見つめてから自分の顎をなでた。
表面上はほとんど動揺をしていないが、正直なところシェレンベルクは唐突に現れたマリーに驚いている。普段であればこんな失態を演じることはないのだが、それほどまで考えに没頭してしまったということなのだろう。
「シェレンベルク、隣にわたしがいてもずーっと気がつかないんですもの。飽きて声をかけてしまったわ」
無邪気に笑う。
彼女のそんな様子にシェレンベルクはちらと時計を見やった。
確かに随分長く考えごとをしていたようだ。
「なにを考えていたの?」
「大したことじゃない」
「……そう」
それにしては難しい顔をしていたけれど。
そう続けてマリーは背中でシェレンベルクに寄りかかってから首を傾げて彼を見上げた。
屈託のない笑顔をたたえる少女。階級的には自分よりもずっと下になる彼女が上官である自分に寄りかかっているということを咎めることもせず、青年は片手でネクタイを直す。
本来、局長であるシェレンベルクに、一部署の部長が寄りかかっていて良いわけではないのだが、彼と少女の関係はあまり規則に縛られていない。
もちろん、それは男女の関係を示すものでは決してない。一見しただけでは歳の離れた妹が兄にじゃれているだけのようにも見えてほほえましい。
「ね、シェレンベルク?」
「……なんだ?」
「うまくいくかしら?」
「さてな」
仮に作戦が成功すれば、アメリカ軍のみならず、アメリカ市民、さらに連合国を恐怖のどん底に陥れることになるだろう。
「それでも、国内にはいくつか問題が残っているけれども」
ぽつりとつぶやいた彼女は、そっと片目をすがめると唇をなめた。
それだけではない。
東部の問題も残ってはいるが、西部の問題も残っている。
特に、フランスの占領区でのマキの問題はそれなりに重大で時には親衛隊将校や国防軍将校ですら犠牲者がでる始末だ。
考え込んでいる素振りを見せたマリーは、ふとなにかを思いついたように顔を上げるとシェレンベルクを見上げてから唇の端でほほえんだ。
なんだ、と彼が問う前に彼女が口を開く。
「ところで、昨晩は家に帰らなかったの?」
くすりと笑ったマリーに、男は少女の頭を大きな手でかき回した。
暗に自宅に帰らないで余所の女の所に泊まったのだろうと指摘されたのだ。
「子供が口をはさむようなことじゃない」
「だって香りが違うもの」
無邪気にシェレンベルクの上着に鼻を押しつけて笑う少女は、女物の香水の残り香を男の制服からかぎ取ったらしい。
そうしてシェレンベルクの制服に鼻を押しつけたまま、少女は真面目な表情に戻るとひそめた声のままつぶやいた。
「イギリスの、モントゴメリーが気にかかるけどとりあえず各国をばらばらにしなければ話しにならないわね」
対独攻勢の要にいるのはイギリスだ。
それをなんとかしなければならない。
そこまでマリーが告げたときに、シェレンベルクはふと思い出した。彼女は今ではすっかりドイツ側で物事を考えているが、そもそも彼女の名前は「マリー・ロセター」であって、彼らと出会ったときに「イギリス人でロンドン生まれだ」と言っていた。
そんな彼女の口から「イギリスのモントゴメリーをどうにかしなければ」という台詞がでてくることがやや意外だ。
ちなみにハインリヒ・ヒムラーらが呼び出された数日後、プラハから戻ったシェレンベルクとマリーにも総統官邸から出頭命令はあったものの、国家秘密警察や、強制収容所の看守として女性登用という親衛隊内部での既成事実があったことと、国家元首に対するテロ行為を事前に察知し、その実行前に予防措置を執ることができたという結果的な実績においてふたりはほとんどお咎めを受けずにすんだ。
心労、という意味では先に召喚されていたヒムラーやシュトレッケンバッハ、ベストやヨストなどのほうが、自分の首が飛びかねない状況だったわけだから肝を冷やしたことだろう。
この功績において、マリーは親衛隊大尉から少佐に昇進することになるが、本人にとってはどうでも良いことらしく余り気にしている様子も見受けられない。
午後の仕事に戻ったシェレンベルクは、ひっきりなしに占領区や戦線から送られてくる報告書に目を通しながら思案に暮れた。
総統官邸に出頭命令が出されたというのに、マリーは顔色を全く変えなかったこと。普通の少女であれば緊張したりするはずだが、彼女はそれをしなかった。
ただいつものようにじっと青い瞳で目の前に立っている上背の低い男を見つめただけだ。
「君が、ハイドリヒ親衛隊大将のご親戚の子かね?」
静かに問いかけられてマリーは一度まばたきをしてから頷いた。
彼女の体に合う親衛隊の制服などないから、いつものようにワンピースにサンダルを履いて帽子と腕章をしているだけだ。
「はい」
「そうか……」
そう言ってからドイツの国家元首アドルフ・ヒトラーはじっとなにかを考え込んでいた。
「君が、情報部のホープであることは聞いている」
「そんなに大したものじゃありません。ただ、わたしはハイドリヒ親衛隊大将閣下のやりのこしたことをやろうと思っただけです。総統閣下」
「正直なところ、わたしは君のような少女が情報部のような野蛮な世界に入ることは賛成できない。しかし、君はどうも聞くところによると、知るところまで知っているらしい。そんな君を一般庶民としておいておくことなどできはせん」
ところどころなにか思うところがあるのか、ヒトラーの声が神経質に昂ぶっている。しかし少女はあえて気がつかない振りでもしているのかやはり表情一つ変えることもせずに、その言葉に耳を傾けた。
「君は、ドイツに忠誠を誓うことができるかね?」
そう言ってからぶつぶつとヒトラーは聞き取れないほど小さな声でなにかをつぶやいたようだ。
――いや、ドイツ人の、ドイツに対する忠誠を疑っているわけではない。
ヴァルター・シェレンベルクにはそう聞こえた。
「はい、総統閣下」
かつてのラインハルト・ハイドリヒの細い眼とは全く違う、大きな青い瞳。純粋で、悪意を感じさせない子供の瞳。
その瞳にアドルフ・ヒトラーはなにを思ったのだろうか。
「君がわたしの身の安全に配慮してくれたことは嬉しく思う。ハイドリヒ親衛隊少佐」
そう告げてから、シェレンベルクに視線を向けた。
「この勇気ある行動をたたえて、第二級鉄十字章を授けようと思うが。どう思うかね? シェレンベルク大佐」
「異義はございません」
直属の上司という形にはなっているが、アドルフ・ヒトラーの命令であれば異議はない。そもそもマリーは現地にゲシュタポと共に踏み込んでいる。
責任者が現場に踏む込むという危険性を考えれば、鉄十字章の授与も頷けた。
それも屈強な男ではない。
華奢でともすれば、男の抵抗などにあえば返り討ちにあいそうな少女なのだ。そんな彼女の功績を認めることができるヒトラーはまだまともな神経の持ち主なのだろう。
少なくとも官房長のマルティン・ボルマンとは違って。
「だが、少佐。繰り返すが、わたしは君のような年端もいかない少女が危険を冒すことに賛成しているわけではない。君の真価はわたしが認めよう。それゆえに、今後は無茶をせず部下たちの力を存分に使うように」
気遣う色を青い瞳に乗せているヒトラーの、それは本心なのだろう。
大人の男として、彼はマリーの身の安全を気遣っている。
「ありがとうございます」
スカートの裾を持ち上げて軽く膝を折りながら一礼したマリーの姿に、アドルフ・ヒトラーがひどく優しげな眼差しをむけたことをシェレンベルクは見逃さなかった。
親衛隊将校として真価を認められ、瞬く間にその地位を確立していくマリーの姿。けれどもマリーはそんなことにはひどく無頓着だ。
おそらく彼女にとっての階級とは、シェレンベルクのそれと大して位置づけとしては変わらないのかも知れない。
自分の意見を通すための手段。
たったそれだけ。
「しかし、十六歳で少佐とはな」
そこまで思い出してからシェレンベルクは苦笑した。
アドルフ・アイヒマンあたりが嫉妬の目を向けるだろうことは想像に難くない。もっとも、それ以上階級を重ねずに終わる、という事例もままあることだ。
異例のスピード出世をしたからといって今後もそうであるとは限らないし、シェレンベルクのように階級はたかが佐官でありながら、国家保安本部の高官であると言う場合もある。要するに、一般親衛隊の階級などあまり意味のあるものだとはシェレンベルクは思っていないのである。
そういえば最近は彼女とは国家保安本部で顔を合わせることが多かったから、花の家のほうには出向いていないが、どうなっているのだろう。
そんなことを彼が考えた矢先だった。
内線電話のベルがけたたましく鳴り響いた……。




