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神々の黄昏 ― Vaterland ―  作者: sakura
XXVII バビロン
368/410

5 舞台を下りた者 舞台に上がる者

「”現役”の貴官らは暇ではなかろう」

 どこか不機嫌そうな、複雑な表情を浮かべたルートヴィヒ・ベックは自宅の書斎に顔を並べた同年代の「老人」たちに視線を投げかけて鼻を鳴らす。

 ソファの上に放り出されたままになっているのは、マリーが熱心に読んでいたグデーリアンの著書だ。

 戦車に注目せよアハトゥンク・パンツァー

 そんなもの、年頃の少女にとってなにが面白いのかさっぱりわからない。だが、ベック家を訪れると興味深そうな大きな青い瞳で、活字を追いかけていたから彼女には彼女なりの好奇心に駆られたのかもしれない。

「どうだろうな」

 憮然としたのはエルウィン・フォン・ヴィッツレーベンだ。

 実質的な権力を奪われたに等しいながら、ハルダーと共に陸軍参謀本部に残ってヒトラー政権の強硬なやり方に国防軍なりの決死の抵抗を試みている。そんなヴィッツレーベンの姿勢には頭が下がる。

 背筋を正し、職業軍人らしくまっすぐな眼差しを放つ高級将校の姿に、ベックは小首を傾げた。

 一九三八年のアンシュルスに続いて発生したズデーテン危機に際して、すっかりヒトラーの政策方針に疑心暗鬼を向けていたベックは辞表を提出した。それ以来、軍務に戻るという選択肢は、今のところベックの中には存在していないが、老練な戦略家として未だに多くの職業軍人らの精神的支柱ともなっている。

 現在のベックの立場は非常に不安定なところに置かれていた。

 東部におけるソビエト連邦との戦争はスターリンの失脚に伴って終結した。これによって軍部の感知するところではなくなり、国防軍の将兵たちは本格的な冬の訪れの前に、続々と母国へと帰国することができた。

 一部の警察部隊はもちろんそればかりではない。

 戦争には、裏の顔と表の顔が存在する。

 常に清廉潔白ではいられない。

 そういうものだ。

 ルートヴィヒ・ベックは退役した身の上である以上、軍事行動に対して多くを語るようなことはない。

 もちろん、常に新たな情報をもとにして地図を睨んで一喜一憂することもある。

 職業軍人――陸軍参謀本部に所属した戦略課としてのサガだろう。

「それで、どうするのだ? 夏を前にあのヒトラーが黙って事態が推移するのを眺めているだけとは思えんが」

「……――ベック上級大将も理解しているだろう」

「うむ」

 ハルダーやレープがそう言ったように。

 彼らはドイツ軍人だ。

 祖国の盾となるために彼らは戦い続ける道を選んだ。もっとも、戦い続ける道を選択したからといって、ヴィッツレーベンらの現役の職業軍人たちは、ベックのように一線を退く覚悟を決めた者を無責任だと責めるようなことはしない。

 それはそれでひとつの選択だ。

 六十歳を間近に控えれば、卓越した戦略家であってもその人生の選択を決意してもなんらおかしな話ではない。

 終生、国家に尽くさなければならないなどと思い込むのは、政治家の自分勝手なひとりよがりでしかないのだ。

「はなはだ遺憾だが、パウルスが死んだ。心臓発作だそうだ」

 ソファに腰掛けて肘掛けに頬杖をついていた陸軍元帥のヴィルヘルム・フォン・レープの鋭利な視線を受けて、まずい代用コーヒーのそそがれたカップに唇をつけてからベックは溜め息をついた。ベック自身よりも高齢のレープや、ルントシュテットは未だに軍部に残留してヒトラー政権と命を賭けた戦いを演じているというのに、ベックにはすでに何ら権力はありはしない。仮に、彼が舞台をおりなかったとしても、ヒトラーによってかつてのヴェルナー・フォン・ブロンベルクや、ヴェルナー・フォン・フリッチュのように粛正されていたかもしれない。

 過ぎ去った時間に思いを馳せて、可能性の話をしたところで意味などない。

 いずれにしろ、どんな選択をしたところで、当時のアドルフ・ヒトラーであればベックを邪魔者でしかなかったベックを陸軍参謀本部総長の椅子から引きずり下ろしたか、かつての突撃隊の幹部たちに対してそうしたように「力尽く」で亡き者にしただろう。

 ベックにはナチス親衛隊(彼ら)のやり方は最初からわかっていた。

「なるほど、それは残念だ」

 淡々とした言葉の中に、これといった感情の動きを感じさせないままレープが無表情でそう告げると、ベックもやはり同様に淡々と静かに言葉を返す。

「彼は優秀な参謀将校だった」

 ベックの穏やかな評価にレープも顎を引くようにして頷くと、彼ら同様にソファに腰を下ろすヴィッツレーベンに視線をくれた。

「ヒトラーがどう考えるかはともかくとして、ハルダーはパウルスを参謀本部に戻すつもりだったようだ。彼には前線指揮は荷が重かろう」

 第一線を外されて久しいヴィルヘルム・フォン・レープとエルウィン・フォン・ヴィッツレーベンは、ちらとも表情を動かすようなこともせずに視線を上げる。

「ヴァルター・フォン・ライヒェナウ……」

 ぽつりとベックが呟いた。

 前任者――第六軍の司令官、ヴァルター・フォン・ライヒェナウ陸軍元帥が死ななければ、参謀を務めたフリードリヒ・パウルスがその後任とされるようなこともなかった。パウルスの実務能力は確かに一級品だったが、それはあくまでもヴィルヘルム・カイテルと同じで野戦指揮官としての能力ではない。

 人は誰しも卓越した能力を複数有することはできないのだ。

「む……?」

 ライヒェナウの指揮能力は誰しも認めるところだ。そうでなければ、彼は元帥の地位にまで上り詰めることはできなかった。

 誰よりも優秀で、勇猛果敢。

 それがライヒェナウに対する評価だった。

「彼が死ななければ……、という仮定の話であれば、貴官が退役しなければ……、という仮定と同じほど無益な話だとは思わんかね?」

 冷静な指摘にベックは低く笑ってから、年長者の現役の職業軍人を見つめてから首をすくめた。

「元帥にそのように言われてしまうと、わたしもどうにも身の置き所に困りますな」

「このように、ヒトラーの反感を買った高級将校が寄り集まって茶飲み話をしていると余計な疑惑を抱かれかねないがな」

 どんなに悪意の向けられた状況であっても、ベックやレープ、ヴィッツレーベンは常に敢然と立ち向かってきた。自分の頭で考え、行動し、そこに責任を持つことこそが、職業軍人の――高級将校の責任だ。

 そして彼らは常に、外と内、どちらの敵からも命を狙われることになる。

 それらをわかっていて、それでも彼らは戦うのだ。

 国防軍の軍人たちのヒトラーに対する態度は主にいくつかのものに分けられた。

 ライヒェナウや、ゲーリングのように熱烈にナチス政権を支持するか。それともカイテルやパウルスのような有無の言えぬ肯定者か。ベックやブロンベルクのような職を辞した者か、ルントシュテットやレープのように微かな再起に望みをつないでドイツの騎士たることを選んだ者か。

「親衛隊がなにを画策しているかが、問題だ」

 憮然としたレープは、鋭く舌打ちしてからじろりと暖炉で揺らめく炎を睨み付けた。

 どうすることもできないことへの苛立ちと。救えたかもしれない命を救えなかったことに対する果てしのない後悔と。

 ただひたすらに悔恨の念に捕らわれた。

 東部戦線で行われた残虐な行為を、早々に軍務から辞したベックは知らないし、知りようがない。

 仮に知っているとしたら、それは人伝にベックに伝えられたものだろう。

 ややしてからルントシュテットは口を開けば、レープは軽く左右にかぶりを振りながら唇を引き結んで険しい顔つきになった。

「フランスの時よりもずっと深刻だ。ヴィッツレーベン元帥」

 ライヒェナウはあろうことか国防軍人の名前を騙りながら、ナチス親衛隊員たちの蛮行を肯定し、異民族であるからという理由だけで多くの命を奪ったのだ。

 だからライヒェナウがどれほど優秀な将軍だったとしても、神から死という罰を受けたのだ。

 彼の死は「必然」だった。

 そしてヴァルター・フォン・ライヒェナウの死が「必然」であるならば、それほど遠くはない未来、ナチス党によるヒトラー政権は幕を引かなければならない。

 ポーランド、フランス、ロシア。そのほかの多くの国々で、一方的に奪った命の代価を払わなければならないとレープは確信していた。そして、その時に矢面に立たされることになるのが誰なのかもわかっていた。

「わたしは、戦う覚悟を決めたのだ。若い将校共は、権力を握る高級将校が及び腰になっていると考える者もいる。しかし、幕引きにあたって、我々は”だからこそ”死んではならんのだ。そうは思わんかね?」

 その覚悟をするために、老人たちは生きているのだ。

 最後のその瞬間まで。

「貴官には貴官の役目があるように、わたしにはわたしの役目がある」

 自らの人生の幕の引き方も、人それぞれだ。

「わたしやヴィッツレーベン元帥と、君の生き方は違えた。ただそれだけの簡単な話だ」

 会話の主導権を握るヴィルヘルム・フォン・レープにヴィッツレーベンは小さく頷いてから声を潜めて誰もいないベックの書斎の室内を窺った。

「……ロンメルは攻めあぐねている」

「知っている」

 ハルダーの執務室にベックもマリーの勉強会の名目で、出入りしている。そのためにマルティン・ボルマンから疑いをかけられたのだが、今やそのナチス党官房長も檻の中だ。

「東の片がついた以上、西に目を向けることは間違いないだろう」

 夏になれば大きな作戦が開始される。

 すでにその準備も昨年の暮れから始まった。

 疲弊仕切った部隊は東から西へ差し向けられ、将軍たちも多くがその準備に追われている。

「……わたしはせいぜい退役した身の上であればこそ、できることなど限られているが。アフリカが問題だな」

「ロンメルか……」

 ヴィッツレーベンはうなり声を上げてから、活気溢れる若い元帥の姿を想像してから首をすくめるとやれやれと溜め息をつく。

「アメリカとソ連の猛攻が沈静化した今、ロンメルもモントゴメリー相手に手を焼くことはないだろうが、現地では伝染病も蔓延しているという極めて危険な状況で推移している」

 迂闊な手段に訴えることになれば、天然痘をドイツ国内に持ち込むようなことになるだろう。

 それは間違ってもあってはならない。

「イタリアに、陸軍の医師団を派遣している。とはいえ、なにせラテンの人間の人間性は当てにならない」

 眉をしかめたヴィッツレーベンにベックは無言で鼻の上にしわを寄せた。

「退役した参謀将校のところで作戦について議論したところで無意味だとは思うが」

 なにぶん「民間人」には秘匿とするところもあるだろう。

 そんな単純な間違いをするようなヴィッツレーベンやレープではない。いくら一九三八年まで陸軍参謀本部総長を務めたとはいえ、すでに退役してから五年ほどの時間が流れて、軍事情勢からも政治情勢からも遠のいた身の上だ。

「これは失礼。ついベック上級大将相手となると口が軽くなる」

 ベックの指摘にヴィッツレーベンが苦笑すると、「それはそれとして」とレープが言葉をつないだ。

「親衛隊のあの小娘は何者だね?」

「……わたしは個人的な友人だが、ハルダー元帥とは一戦交えたらしいと聞いている」

 不遜で無礼な口を利く、世間知らずの親衛隊員の小娘。

 悪辣と知られる国家保安本部の幹部たちのお気に入りだ。

 もっともゲシュタポの捜査員や事務員、もしくは諜報関係者として若い娘が所属しているということも有名な話だが、若いという表現を通り越して幼い少女の存在が異端であることは言うべくもない。

「彼女は余りにも世間知らずで、物事の道理を知らないから」

「……解せんな」

 だからベックのみならず、ハルダーが少女の存在を気に入ったとはとても考えられない。

「――……全く解せない。”わたしにもあなたが解せないと思っていることはよくわかっている”」

 理屈ではない。

 彼女の存在は、全ての事象を超越して「存在」に訴えかけた。

「わたしは、彼女に思い出させられた」

 視線を伏せて言葉を綴っていたベックが改めて顔を上げてエルウィン・フォン・ヴィッツレーベンとヴィルヘル・フォン・レープを凝視した。

「わたしは、まだ舞台を下りるべきではないということを、彼女から教えられた」

「……なるほど、承知した」

 レープの瞳が鋭い光をたたえた。

 その言葉と共に。


 ――なるほど、承知した。

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